記事一覧
御用火事を逃れた蒼海楼
開拓使の家作料貸付である100円を目当てに、
開拓移民が増えた事については、以前にも触れていたのですが、
この時の移住民の数は、凡そ600軒程だったそうです。
100円という大金を手にしてみたく北海道へと渡ってきて、
酒代に投じてすってんてんになってしまった人や、
一旗揚げて故郷に錦を飾る為と、ムダ金は余り使わずに
懐にお金を納めたままの人もいて、
柾葺き屋根の建設は、遅々として進まず。
バラック小屋の赤提灯
連日、新型COVID-19のニュースが続き
何とも言えない重苦しい雰囲気が漂う中、
友人から狸小路の外れにある「ひょうたん小路」の
赤提灯が、また一つ消えると連絡がきたので、
狸小路や、ひょうたん横丁について、
書いておきたいと思います。
札幌市民の食の台所と言われていた狸小路は、
創成川がまだ、物流を搬送する運河として利用されていた
頃から飲食店が建ち並ぶ老舗の商店街です。
明治2年に
樽前山大噴火・その後の施策
北海道へ渡れば、土地が貰える。
家を建てることも出来る。
たくさん、お金儲けが出来るんだ!
こうして、海を渡って来た人々でしたが、
原野を切り拓く事の過酷さや、
火山噴火と揺れ動く大地という自然の猛威に触れ、
やはり、ここは人の住む所などでは無いと
思ってしまうのも無理はありません。
北海道開拓の使命を担っていた松本十郎判官らは、
なんとか、人々が逃げ出すのを食い止め、
この地に定住させ
薄野の撥ね釣瓶(はねつるべ)
札幌という地は、アイヌ語由来で
サッ(乾いた)ポロ(大きい)ペツ(川)
という意味で、札幌の中心部を流れる
豊平川が乾季になると渇水するので、
こうした名称となりました。
その名の通り、大きな川が流れるわりには、
生活用水を確保することが難しく、
開拓移民の人々は、随分とあちらこちらで
井戸を掘ったそうです。
こうして水の確保できましたが、
どこの井戸も夏の間は水があっても、
冬になると井戸
女房貸しと草鞋(わらじ)脱(ぬ)ぎ
薄野遊郭が出来る前の
明治3年末頃の札幌の人口は、
9戸22名と記録されていましたが、
明治4年末には211戸624名へと推移していたそうです。
この札幌移住人気の背景には、開拓使より
妻帯者が開墾の為に移住する場合は、百円の家作料を
貸し付けるという御触書があったからでした。
米一俵が2円前後で買えた時代なので、
百円という御金は、なんとも魅力的な話しだったのです。
開拓使の思惑は、
越中屋と北海楼の楼主③
和三郎が薄野に北海楼を開いた頃は、
まだまだ柾葺き屋根の家屋は少なく、
本願寺の向こうに藁小屋がたくさんあったそうです。
この本願寺とは、当時から、南7条西8丁目にあった
東本願寺薄野別院を指しています。
この藁小屋は兎に角火の始末が悪かったそうで、
ボヤ騒ぎが多く、自宅を建てた和三郎は貰い火を恐れ
立ち退きをして欲しいと岩村判官に願いをだしていました。
ところが藁小屋の住人たちは、一向に
越中屋と北海楼の楼主②
非業な最期を遂げた越中屋の中川良助でしたが、
遊女・雨風を抱えていた北海楼の楼主・高瀬和三郎は
どの様な人生を歩んだのでしょうか。
1829(文政12)年に秋田県大館市に生まれた和三郎の父は、
秋田藩の「目明し」という町奉行の役人でした。
嘉永3年、21歳となった和三郎は、
函館に渡り商売人となったといわれています。
和三郎の場合は、非常に珍しく明治31年に記録された
本人の談話が残っ
越中屋と北海楼の楼主①
台鍋と雨風という薄野遊郭きっての
売れっ子遊女を抱えていた
越中屋と北海楼。
両妓楼の楼主がどの様な人物だったのでしょうか。
北海道人名辞書の人名録によると、
「越中屋」の楼主・中川良助は、
妓楼の名の通り、越中国(現在の富山県)で、
1823(文政6)年に生まれたといわれています。
明治4年に薬行商人として札幌に渡り、
翌年に女郎屋を開いたとの記録もありますが、
その本には、「札幌に於ける貸座