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越中屋と北海楼の楼主②

 非業な最期を遂げた越中屋の中川良助でしたが、
遊女・雨風を抱えていた北海楼の楼主・高瀬和三郎は
どの様な人生を歩んだのでしょうか。

 1829(文政12)年に秋田県大館市に生まれた和三郎の父は、
秋田藩の「目明し」という町奉行の役人でした。
 嘉永3年、21歳となった和三郎は、
函館に渡り商売人となったといわれています。

 和三郎の場合は、非常に珍しく明治31年に記録された
本人の談話が残っており、そこには、明治4年4月に函館から
札幌へ12戸が移動した頃の様子が記されていました。

 箱館からは千歳経由からの道路が便利であったことや、
久造という一人者が笹小屋を掛け渡場を守っていたこと。
渡場とは、渡し船を発着させる場所のことです。
和三郎は、久造から米を三升売って貰い、開拓役所で建てた
休憩場所でご飯を食べ、札幌へ来たそうです。
 休憩場所は、現在ですと月寒の坂の下辺りだったそうですが、
当時は目印となる物など無いので、
特定することは、まず難しいでしょう。

 札幌に着いた時、柾葺き屋根で出来た建物は、
開拓役所と、町役所。それに、町代(町役人)高橋亀次郎と
菅原治右衛門の四戸のみだったそうです。

 宿など無い状況でしたから、町代の高橋の所へ同行者6人で行き
米五升と茶碗六個に鍋一枚を払い下げてもらい、露命を凌いだとの
ことでした。

 彼らが函館から札幌へ来た理由は、吉見大主典から
宿屋渡世をするなら、六百円の金を貸すと公達があったので
との事だったのですが、開拓役所はまったく取り合わず、
一銭のお金も貸してはくれなかったとのこと。

 仕方が無いので、女郎屋の許可願いを出すと、それがすんなり通り、
二町四方に区割りされた薄野遊郭の土地を、7名へ割渡しと
なったそうです。

和三郎談義は、続く

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