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お茶とお菓子

 開拓が始まった頃は、皆、酒ばっかり飲んでいて
お茶を欲しがる人などは、いなかったそうです。
けれども、人口の増加と共にお茶を好む人も増えて来て
お茶屋の商売が成り立つようになってきました。

 お茶といえば、菓子が付き物。
明治2年から3年の春頃までは、物資が不足していた為
小樽から持ってきた金平糖が、一握り十銭という高値で
売られていたそうです。

 結構な値段にも拘わらず、飛ぶように売れていたそうですが、
人口比率で酒飲みの土工が急増した時には、男ばかりの世界だけに
お菓子などには見向きもされないといった不遇な時代もあったそうです。

 最初は、お菓子を製造し生業とする人がいなかったので、
お菓子といったら越後から入る荒粉(アラコ)か、小南京という
米の屑に黒砂糖と飴で固めた駄菓子。
若しくは干菓子ぐらいでした。
 
また、大漁菓子というのがあって、紙袋に「大漁」という字が
紅色で印刷されていたそうですが、中身がどんなものだったのかは
わかりません。

工夫たちの中には下戸の者もおり、
そうした者が、白玉粉を買って来て団子にし、
砂糖をまぶしたりして、餅菓子に代えていたそうです。
結構な消費量があり、酒や素麺の次に白玉粉が売れていたとか。

 宝来豆といった、落花生を醤油で味付けした香ばしい
豆菓子もありましたが、こちらは余り売れ行きが伸びず。
というのも、大量に仕入れられ官史に配給されていた為
あえて買うような人はいなかったとか。

 さて、花街で使われた上等の菓子はといいますと、
氷砂糖、金平糖、松風、舞鶴などといったものがありました。
舞鶴というのは最中の皮の中に大白砂糖を入れたものでしたが、
上等菓子の順位としては、氷砂糖が一番で、
次に金平糖、宝来豆、そして最中菓子だったそうです。

 さて、札幌初の自分の所で餅菓子などを製造するようになった菓子屋は、
明治5年に南二条西一丁目に開かれた「蛇足園」という店でした。
当時は、餅菓子などは珍しく、大変な繁盛っぷりだったそうです。

 明治六年に行われた札幌本庁の上棟式で撒いた
紅白の餅も、この蛇足園のお餅だったとか。
札幌の人が菓子らしきものを食べられるようになった
始まりの話でした。


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