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北海楼の和三郎

 妓楼の楼主でありながら副戸長となり、
周囲から信頼を得るようになっていた和三郎ですが、
花街の重鎮として以外にも、彼は北海道開拓史に大きな足跡を
残しています。

 薄野の花街で、娼妓と芸妓の仕事を区分し、
見番を始めておいたのも高瀬和三郎と言われていますが、
明治の17年に、花街で儲けたお金を軍資金とし、彼は
豊平村平岸に1万円の大金を投じ一大りんご園を造成しました。

 平岸の林檎園は明治14年から拓かれ始めたようですが、
和三郎も、先人たちの一群と言って良いかと思います。

 江戸時代の蝦夷地と呼ばれていた時代の北海道は、
作物など実らないような荒れ地であると思っていた人々も多く、
移住が躊躇されるふしもありました。

けれども、林檎が実り出し、
本州に出荷されるようになってからは、
世間からも北海道開拓が成功したと認知され始めたそうです。

 さて、林檎園も成功し、更に資金が出来た和三郎は、
更なる挑戦に挑みます。

 「白いまんまを、腹いっぱい食べたい。」
おそらく、今も昔も人々の願いというのは
あまり変わらないのではないでしょうか。
後年の和三郎は、米作に尽力しています。

 切っ掛けは、室蘭開拓に従事した仙台支藩角田藩の家老
泉麟太郎との出会いでした。麟太郎は、明治21年に
旧臣24名と共に未開の地であった夕張郡阿野呂原野(現在の栗山町)
へ移り住み、水田造成を試みていました。

 ところが、志半ばで資金難に陥ってしまい、
出資者を募ったのでした。

 それを聞いた和三郎が名乗り出て二百三十町歩
約120万坪の土地を購入し、麟太郎と二人が中心となり
真成社を結成し、全国からの農地開拓移住者を募ったのです。

 阿野呂川に木枠を取り付けて、水田に引水し、
ようやく二石の玄米が収穫できるようになり、
今度は、水利組合の組織が作られました。

 明治30年には、二里に渡る灌漑講ができ、
その後も、二次、三次と灌漑工事を進めていき
千二百町歩もの水田が広がったのでした。

 現在は、住宅地の一角にひっそりと
札幌以北初の米作りが行われた証として
「水田発祥の地跡」という看板があります。

また、「泉記念館」夕張郡角田町60-4でも、
水田開拓の事は紹介されていますが、
高瀬和三郎は、あくまでも資金提供者として
紹介されており、薄野遊郭「北海楼」の楼主としての
側面は、栗山では、ほぼ知られていないようです。


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