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女房貸しと草鞋(わらじ)脱(ぬ)ぎ

薄野遊郭が出来る前の
明治3年末頃の札幌の人口は、
9戸22名と記録されていましたが、
明治4年末には211戸624名へと推移していたそうです。

 この札幌移住人気の背景には、開拓使より
妻帯者が開墾の為に移住する場合は、百円の家作料を
貸し付けるという御触書があったからでした。

 米一俵が2円前後で買えた時代なので、
百円という御金は、なんとも魅力的な話しだったのです。

 開拓使の思惑は、妻帯者と共に永住しようとする者に
生活補助の為と考えていたのですが、当時の移民たちは
そうとは考えてはおらず、一旗揚げたら故郷へ戻ろうと
思う者ばかりでした。

 そこで、要領の良い者は、他人の女房を一時だけ
借りて借受けをし、世帯主になりすまし拝借金を
手に入れたのでした。所謂「女房貸し」です。

 ただ、この拝借金を入手するには、もう一つ。
身許引受人を必要としていたのです。
もし、引受人になって貰わなければ、
百円を手に入れることが出来ません。

 そこで人々は、身元引受人に「草鞋脱ぎ」と
敬意を払いご機嫌をとり結んでいました。
草鞋を脱ぐとは、「履物を脱いで住まいに入る。」といった
意味を持っており、一人で数十人もの身許を引き受ける
「大草鞋脱ぎ」まで現れるようになりました。
 さて、この草鞋脱ぎたちは、
人々からご機嫌伺いをされる名誉職でもありましたが、
お役所からは、当然のことながら身元引受人の責任を
負わされていたので、移民たちの生活ぶりについてを
管理するようになったものですから、
自然と親分子分の関係が生じるようになりました。

 こうした「草鞋脱ぎ」という風変わりな
親分子分の風習は、その後も移民者の間で
脈々と引き継がれていたそうです。


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