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越中屋と北海楼の楼主①

台鍋と雨風という薄野遊郭きっての
売れっ子遊女を抱えていた
越中屋と北海楼。
両妓楼の楼主がどの様な人物だったのでしょうか。

北海道人名辞書の人名録によると、
「越中屋」の楼主・中川良助は、
妓楼の名の通り、越中国(現在の富山県)で、
1823(文政6)年に生まれたといわれています。
明治4年に薬行商人として札幌に渡り、
翌年に女郎屋を開いたとの記録もありますが、
その本には、「札幌に於ける貸座敷の初なり」と
書かれておりますので、この情報の信憑性は、
やや低いかもしれません。

 ただ、「性はすこぶる侠気あり。
つとに水原寅蔵等と謀りて消防組を組織す。」
といった箇所は、他の文献でも同様に書かれているので
こちらは、その通りなのだと思います。

 この水原寅蔵とは、1818(文政元)年に
近江国甲賀郡三雲村(現在の滋賀県)の農家
井上次郎兵衛の家に生まれており、安政時代に函館に
土工として渡道し函館の台場や五稜郭の堀などの
工事に従事した人夫です。
 函館戦争を機に、出身地に戻りましたが、
明治政府より腕の良さを買われて明治4年に札幌に渡り、
開拓使の御用請負人として活躍しておりますが、
その件に関しては、また改めて記載したいと思います。

 ただ、水原寅蔵を筆頭に開拓に従事した土工・人夫たちは
賭博に目が無く、彼らは笞打ちの刑を喰らっており、
土木の親分として、絶対的な信頼はありましたが、
どこか、侠客風情も漂わせていたようです。

 そんな荒くれ者で構成された消防組でしたが、
なんの皮肉か、中川良助の自宅が明治11年に
火事で燃えてしまい、自身も火災に巻き込まれて
焼死しています。
 
 この年、函館新聞が発刊されており、
中川良助焼死の記事が掲載されていました。
享年56歳とのことでした。

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