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御用火事を逃れた蒼海楼

 開拓使の家作料貸付である100円を目当てに、
開拓移民が増えた事については、以前にも触れていたのですが、
この時の移住民の数は、凡そ600軒程だったそうです。

 100円という大金を手にしてみたく北海道へと渡ってきて、
酒代に投じてすってんてんになってしまった人や、
一旗揚げて故郷に錦を飾る為と、ムダ金は余り使わずに
懐にお金を納めたままの人もいて、
柾葺き屋根の建設は、遅々として進まず。

 業を煮やした岩村判官が、草小屋に
火を放ってたと云うのですから、
何度聞いても驚くばかりです。

 川風が吹き付けるあたりの草小屋は、
一瞬で家財道具もろとも燃え尽きてしまったそうで、
この有様を見ていた人々は、大慌てで
「家は燃やしても構いませんが、この摺鉢だけは、
 ご勘弁を……。」と、手を合わせて懇願する始末。

 当時の摺鉢というのは、馬の駄倉で運ばれて来る時に
8,9割が壊れてしまうので、市場に出回る時には
内地の価格と比較すると、二十数倍もの値段がついていた
そうです。

 草小屋などは、どうせお上の物なので
燃やされても、ちっとも惜しくはないけれども、
物流が少ない中での僅かな家財道具まで燃やされては
ひとたまりもありません。

 中には被害を最小限に喰い留めるべく、
自ら先に小屋を打ち壊す人まで現れたそうです。

 さて、そんな状況を見て、岩村判官は何を
思っていたのでしょうか。懐古談では、
「はかりごとなれり矣」と、心ひそかに
喜んでいたそうです。

 一瞬にして、一面焼野となった札幌の街ですが、
民間の建物で、火を放たれなかった物が3軒あります。

 一つ目は、まさかお寺まで焼くわけにはいかないという事で、
東本願寺。二つ目は、札幌の和人の定住者第1号と言われている、
豊平川の渡し守・吉田茂八の家。茂八は、開拓功労者として、
一目置かれていたようです。

 そして、最後は「蒼海楼」
この店は、大通2丁目にあった料理屋で、
草葺の建物だったのですが「御用火事」の一味である
消防組の人々や土工の請負人の溜まり場として人気があったそうです。

一同は、蒼海楼が焼かれては、今晩から遊びに行く店が無くなる!
と相談し、火付けを阻止するために、
大急ぎで板をかき集め、建物の周りに急ごしらえの塀を作り
屋根を打ち付けて、草小屋から「天ぷら建築」式の木造住宅に
してしまい、御用火事を免れさせたそうです。

 いつの世も、居心地の良い居場所というのは、大事だったんですね。


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