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樽前山大噴火

 開拓黎明期は、住まいどころか
水も食料も満足に手に入るような状況ではなく、
家作料百両が欲しくて北海道へと渡ってきた人々も
定着はせず。

 明治6年6月に、札幌を中心とした
道路や、本庁舎と関連施設の建築工事一糸段落した際に
札幌に移り住んでいた、およそ3千人の職人や工夫らが
解雇帰国してしまいした。

 人口が急激に減った為、商家も立ち行かなくなり、
家屋を捨て夜逃げをした人々も多かったそうです。

 解雇帰国の背景には、時の長官が功を急ぐあまり、
開拓予算を一斉に全ての工事につぎ込んでしまい、
開拓使庁の財政が、僅か三年で底をついた為、
開拓を止めざるを得ないという窮地に陥ったという理由が
あったとか。

 いずれにしても、明治6,7年は、不景気風が吹き抜けていました。
その様な中、明治7年2月16日午後2時頃に、
樽前山が大噴火を起こしたのでした。

日夜を問わず地震が起こり、札幌市街の上空は
南の空から真っ暗となっていき、やがて灰が
降り積もりだしたのでした。

 この天変地異で逃げ出す人々が更に増えた事に対し、
開拓使は逃亡者を防ぐ為、毎戸番号表を打ち付けていき、
逃亡を防ぐことに躍起になっていたそうです。

 地震から凡そ一カ月後の3月23日に、法華宗の人々が
札幌村清正公へ石碑を奉納することにし、
屋台を出し、芸者に三味線や太鼓を打たせ、
鳶職人に紅木綿の手拭いを被せて手古舞に
キヤリを唄わせながら、大きな石碑を引き出させたとか。

 講中は妙法蓮華経を唱えながら打扇太皷を
ドンドコ ドンドコと打ち鳴らし、
お祭り気分を盛り上げた為、ほんのひと時ですが、
皆、不景気風を忘れることができたそうです。

 開拓使庁経費欠乏の穴埋めとして、
政府より10万円の補填があるらしいという噂が流れ
札幌神社の遙拝所に神楽堂が仮設されるなどし、
住民たちはお神酒を呑み呑み、これで安泰だと
喜んでいました。

 ところが、噂はただの噂であり、それ以上のことは
ありませんでした。

 これで、札幌の経営も中止になるだろうと、
また逃亡者が増え、市中は軒並み
空き家となってしまったのでした。

続く。

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