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バラック小屋の赤提灯

 連日、新型COVID-19のニュースが続き
何とも言えない重苦しい雰囲気が漂う中、
友人から狸小路の外れにある「ひょうたん小路」の
赤提灯が、また一つ消えると連絡がきたので、
狸小路や、ひょうたん横丁について、
書いておきたいと思います。

 札幌市民の食の台所と言われていた狸小路は、
創成川がまだ、物流を搬送する運河として利用されていた
頃から飲食店が建ち並ぶ老舗の商店街です。

 明治2年に銭函の山大という運上屋の支配人をしていた
高橋亀太郎が旅人宿を始めたのが先駆けとなり、
宿屋兼開拓使ご用達の雑品屋などが出来ましたが、
いずれの宿屋にも「飯盛り女」がいて、
夜の相手が付き物だったそうです。

明治6年には「狸小路」と呼ばれるようになり、
その名の由来は、本当に野生の狸が出没したからというものと、
白粉を首筋に塗りたてた「白首」と呼ばれる娼婦が、
夜な夜な商店街の一角に立ち、怪しげな仕草で客を
手招きし、お金を巻き上げていたそうです。
一夜妻の狸に化かされたなどといった話し
「狸小路」と呼ばれるようになったとの説の方が有力です。

宿屋の次は風呂屋が出来き、染物屋や豆腐屋が出来き
2丁目、3丁目……と西へと伸びていきました。
札幌の歴史と共に、幾多の大不況や景気の波を
潜り抜けてきた狸小路は、昭和8年には9丁目に
「札幌観音堂」が建立され、人の流れも伸びていたようです。

 その先は、田畑や民家だったのですが、戦後になり
引揚者が9丁目を借り上げ、バラック小屋を建てて
住み込みながら商売を始めました。
 戦後の引揚者により出来た市場や商店街は、
全国各地にあるかと思いますが、何れも
小さな小さなあばら家に、身を寄せ合うようにしながら、
築き上げた地域なのです。

 筆者は、狸小路のアーケードの屋根が切れた
8丁目以降の商店街に興味を持ち、一昨年の夏に
何軒か暖簾を潜ってみました。

 昭和21年に建てられた間口1間半、奥行き2間ほどの
バラック小屋は、9丁目の北側から「しら菊」という寿司屋まで
だったとの事で、現在も1軒のみ残っている「しら菊」さん。
席数は少ないですが、綺麗に改装されていました。

 大将が頑固オヤジで有名な金富士に、握りが兎に角大きい河童鮨。
河童鮨の大将は、ご高齢だった為、お客さんが2組も入ると
手が回らなくなり、シャリの付いた手をカウンターの隅にある
電話にそっと伸ばし「来て」と囁くと、どこからともなく
助っ人の奥さんが登場したのですが、如何せん大将の奥様なので
これまたご高齢で……。

 最後の握りが出るまでは、かなりの時間を要したのですが、
別段、急ぐ用事があるわけでもなかったので、
大将から9丁目が賑わいをみせていた時の話を聞きながら、
巻物が登場するまで、のんびりと過ごしました。

 平屋の長屋で出来た、ひょうたん横丁には、
ゆうたん、出逢い、花よし、みゆき、倶知安といった
顔ぶれが軒を連ねています。

 気取らない、人情味あふれた赤提灯が妙に心地よい。
その灯も、一つ、二つと消えていく昨今ですが、
不景気風に負けるのでなく、身勝手な願いですが
生涯現役で、最期まで灯りを点して欲しいと思うのでした。


※2021年1月18日現在、記載したお店の何店かは閉店致しました。

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