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樽前山大噴火・その後の施策

 北海道へ渡れば、土地が貰える。
家を建てることも出来る。
たくさん、お金儲けが出来るんだ!

 こうして、海を渡って来た人々でしたが、
原野を切り拓く事の過酷さや、
火山噴火と揺れ動く大地という自然の猛威に触れ、
やはり、ここは人の住む所などでは無いと
思ってしまうのも無理はありません。

 北海道開拓の使命を担っていた松本十郎判官らは、
なんとか、人々が逃げ出すのを食い止め、
この地に定住させようと、独断で
本庁や、官邸、病院などの土塁や、地均しなどの
土木工事を作り、市街に残留していた人々に
仕事を与え、失業者対策を行いました。

 けれども、この工事も1月で終わってしまう程のもので
僅かに飢えを凌いだだけとなってしまい、
明治7年7月には、皆が餓死するのではないかという
危機に陥ってしまったのです。

 人々は、今の山鼻界隈まで出向き、ワラビを採取し、
微かに残っていた小麦に小豆を混ぜあわせ常食とするなどし、
なんとか生き延びてはいました。

 明治へと移り変わり、遊郭まで置かれるほどに
活況をみせた札幌の開拓でしたが
空き家は、官収し市の会所として保管され、
辛うじて造作したものが原型をとどめているといった
状況だったのです。

 時の長官とは、第2代内閣総理大臣となった
黒田清隆でしたが、この時彼は、自身の失策を省みて、
五年家屋建設資金として行っていた、百円ずつの貸付金を
80円は給与とすることにし、残り20円を1円ずつの月賦で
返還することで良いという事にしました。

 追随し、時任為基大書記官が、逃亡者は法律で
笞罪八十として罰せられる事となっていたものを、
逃亡ではなく漁場への出稼ぎであったとし、
罪を免れることが出来るよう達したため、
散々になっていた人々が、札幌へと戻って来たのでした。

 この時の黒田清隆に関する悔悟には、以下のものが
布達されました。

「北海道開拓は、実に遠大の事にして固より月日を期して
成功を論ずべきにあらず(中略)清隆此の大佐をみだりせし
以来之に注意せざるに非ず、治所の区画植牧の方法により
新道開盤等に至り、皆先務を以て之を急にすといえども
施工の際或いは誇大の弊を免かる能わず、やや悔悟する所あり。
因て願う自今の事痛懲猛省して其の源を深うし基の本を固う
せざる可からずと(後略)」

 開拓使のトップとし旗を振っていた黒田清隆長官の失策に
苦言を呈する者がいたという事。
また、それを鑑みた長官が、施策の軌道修正を迅速に計った
という事に驚きつつ、幕藩体制から明治政府へと
政権が交代した理由というのを改めて考察してみるのも
面白いなと思い、筆者は今日も古書を読み耽っているのでした。


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