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護憲派はリベラルではない 「歪んだ護憲」の3類型「万能感・自虐・大人の知恵」


3日に発表された立憲民主党の政策は、予想どおり屁のようなものだった。

それでも、目立たないように「護憲」を入れて、左翼勢力に義理立てしていた。

「アメリカの核兵器を同盟国で共有する「核共有」は「認められない」としているほか、憲法9条に自衛隊を明記する自民党の案は、交戦権の否認などを定めた9条2項の法的拘束力が失われるとして、反対する立場を明確にしています」

明解に「9条改悪反対」をうたった5年前の参院選での立憲民主党からみれば、姿勢を曖昧化している。やはりウクライナ情勢で遠慮したのだろう。(日米同盟支持を言って、自分たちは決して「あっち側」ではない、と見せようともしている)

いずれにせよ、「軍備増ありき」には反対、核共有には反対、自民党の9条案には反対、と、ここでも「なんでも反対」で、立憲民主党自体の国防論は見えてこない。

「立憲の外交安保政策はあまりにも曖昧模糊(もこ)としており、多くの国民から・・ソッポを向かれてしまう。」

という、ウクライナ以前から指摘されている弱点が、ウクライナ情勢を経ても、まったく改善されていない。

護憲にこだわる限り、そうなる。


だから、政権は任せられない。


「改憲」は保守・右翼の専売特許ではない。

「改憲派は右だ」というのは愚かな決めつけだ。

そして、「護憲」がリベラルだというのも、同様の誤りだ。

それどころか、護憲派は基本的にリベラルではない。

参院選の前に、リベラルな「護憲批判」のポイントをまとめておこう。


*「護憲」という言葉は戦前から「立憲主義を守る」という意味で使われてきた。しかし現在の「護憲」は、ご承知の通り、「9条固守」の意味である。「護憲」派は、この意味のズレを都合よく使っている。だから私は「護憲」をカギカッコ付きで表記するのだが、わずらわしいし、忘れることもあります。


正しい護憲派


9条護憲派のすべてが不正ではない。

正しい護憲派は、9条条文を忠実に実践する人たちである。

・自衛隊の即時解散を求める。

・侵略されても無抵抗、少なくとも「非暴力」で対応する。(それで自分が死に、国が滅んでも構わない)


「聖人倫理」の強制という問題


こうした「平和主義者」が人口の数%いても不思議ではないし、それは構わない。(「平和主義」とは基本的には宗教的信条である)

しかし、その特殊な信条が、憲法に記されて、全国民に強制されているのが、問題の根本だ。

もし、非暴力主義者でも、彼がリベラルであれば、9条が憲法から外されることに反対しないはずだ。信条は強制できないからである。

だから、「正しい護憲派」は、厳格な平和主義者としては正しくても、リベラルとしては正しくない。


民主的・現実的防衛政策を不能にさせる問題


そして、9条という思想的に偏向した憲法で縛られているため、現実的な防衛論議ができない。それが政治的には最大の問題だ。

特に、現在の立憲民主党をはじめ、リベラル系の野党は、「護憲」のために防衛論議そのものを事実上拒否してきた。

(それが、彼らがずっと抱えてきた「病い」である。その症状は「政権担当能力がないとみなされる」だ。)

政権交代の必要を主張するリベラル派の井上達夫(東大名誉教授)は、その理由から、9条の思想としての是非以前に、9条をまるごと削除することを提案していた。

世界情勢がどう変わるか分からないから、変化に即応し、民意を適切に政策に反映させるため、憲法で軍事を縛らない方がいいからだ(一方で、軍隊を持った場合の民主的統制規範を憲法に入れておく)。

ウクライナ侵攻で、井上の提案がいかに適切であったか、わかるのではないか。(とはいえ、井上氏も無謬ではなく、「世界正義論」では国連を過大評価する過ちをおかしていた)


歪んだ護憲の1 「聖人万能」派 ーーご立派な理想で相手を黙らせようとする人たち


リベラルな謙抑の精神を持たず、自分の特殊な「平和主義」的信条は、倫理的に価値が高いから、全国民に強制しても問題ない、むしろ強制すべきである、というのが第1の類型だ。

これを私は「聖人万能」派と呼んでいる。「聖人」を強調する人と、「万能」を強調する人に分かれるが、通常、両者は結びついている。

「聖人」を強調する人は、9条に象徴される高い倫理性を、自分は持っていると主張する。殺されようとも自分は殺さない、「聖人」であるかのように表明する人だ。

それは「聖人」の倫理観だから、一般人が否定するのは難しい。

しかし、憲法は、私を含めた俗人・凡人を基準に決めてほしい。殺されかけても自分は従容として死ねる、なんて聖人を基準にされると困る。

そして、リベラルな社会とは、俗人・凡人が自由に生きられる社会であり、「聖人」の生き方を強制される社会ではない。

「聖人」派の主張が高じると、「万能」派になる。

これは、9条があれば戦争は起こらない、9条の倫理性の高さゆえに、諸外国はその前にひれ伏すに違いない、という主張にまで進む。9条が、霊験あらたかな万能の「お札」のようになる、という。

このタイプの9条信者は、自分の言っていることが戦前の右翼と同じことに気付かない。

戦前の右翼の理想主義的な一派は、

「日本人の倫理は特別に優れているから外国に強制すべきだ。それで世界は平和になる」

と考え、侵略戦争を正当化したのである。

9条をノーベル平和賞に、と言う人たちがこの類型だ。こういう「妄想」にまで進むのが「宗教」である証拠でもある。

宗教家も、9条論者も、朝日・毎日新聞も「理想は大事だ」と説教する。

私のような俗人は「そんなことは分かっている。しかし・・」と言うしかないのである。

「イマジン」の作者で、ビートルズの中で最も「愛と平和」運動に熱心だったジョン・レノンは、ビートルズの中で唯一、殺された。

熱心な9条信者で、「自分は海外でも9条で守られている」と言っていた中村哲医師は、アフガニスタンでゲリラに殺された。

そうした悲劇を茶化すつもりはないが、理想と現実は別だ、という教訓ではある。


歪んだ護憲の2 「自虐」派 ーー自国がとにかく信用ならない人たち



これは、保守・右翼がよく指摘する。「自虐」はもともと彼らの用語でもある。

「自虐派」が9条護憲を叫ぶのは、それによって、

「日本はまた侵略戦争をするロクでもない国だ」

という日本悪者観を表明したいがためだ。

それは、日本を監視するGHQの後継的立場であり、同じ警戒心をもつ韓国・中国などの代弁ともなる。

かつて天皇制国家打倒を叫んだ共産主義者イデオロギーを持つ者、あるいはそれに影響された者も「自虐」派には多いだろう。

リベラルから見て、彼らに同情の余地があるのは、昭和天皇の「戦争責任」など、近代日本には、たしかに倫理的に未解決な部分があるからだ。

だが、それなら戦争責任をストレートに追及すればいい。

それをしないで「日本悪者」論を進めるので、近年は「アメリカの武器商人と一緒に戦争で儲けようとしている」というような陰謀論になっている。

戦争責任や天皇制を問題にできないマスコミは、この「自虐」的な9条護憲の主張によって、自らの歪んだ正義感を満足させていると言える。

かつては戦前・戦中を体験した人もこの「自虐派」には多く、その体験から日本の権力を信用できないというのは一定の説得力があった。

しかし、それは戦争に負けたからというのがあり、もし勝っていたら同じことを言ったかどうか疑わしい。その点で、戦争全般を否定する厳格な平和主義者と区別される。戦中と戦後で政府の言うことが180度変わったから、彼らは日本が信じられないのである。

それは理解できるとしても、現在の民主制下で「大日本帝国」を非難し続けることには、何か底意があるのではないかと疑われても仕方ない。

右翼が言うように、彼らが「中韓の手先」であるかは分からない。

本当のスパイは、かつての朝日新聞の尾崎秀実のように、基本的には政府の協力者のふりをして権力に近づくだろう。

しかし、「自虐」派の主張が、中韓のメディアで「日本の世論」として好意的に取り上げらるのは事実だから、結果的にはたしかに「中韓の手先」になっている。

「自虐」という姿勢は、かつての侵略戦争の罪障感から、いまだに中韓に投影される。実際に朝日・毎日新聞は一貫して中韓に同情的・融和的・妥協的である。


歪んだ護憲の3 「大人の知恵」派 遵法精神なき屁理屈屋


上記の2派の人気が落ちたのを見て、比較的最近に主流を占めつつある一派。

この「大人の知恵」派も2つに分かれ、1つは自民党のハト派的な「現実論」、もう1つは内田樹に象徴される非合理主義的な護憲論だ。

だが、いずれにせよ、

「自分たちは理想主義で護憲を言うのではない。護憲の方がより高度な意味で現実的だから支持する」

という主張で共通している。

自民党的な「現実論」は、

「9条のおかげで軍事負担を軽くできた」

「米国からの圧力をかわすことができた」

など、9条は外交的言い訳にできる、という主張だ。

これは自民党が公式に言っているわけではない。保守政治家の「本音」だと、田原総一郎のようなジャーナリストの口を通じて流布する。

そうした姿勢に一時的利益があったと仮に認めるとしても、日本の政治的自立と成熟を妨げてきた事実の方が大きいだろう。

もう1つの自称哲学者、内田樹に発する非合理主義は、発生期日がはっきりしていて、2006年に町山智浩などと毎日新聞から出した「9条どうでしょう」という本から始まる。

そこで内田は、9条と現実との乖離は「日本人が自ら選んだ病気」であり、

「アメリカの『従属国』であるという事実のストレスを最小化するために私たちが選んだ狂気のかたち」

だとした。だから、このままでいい、と。このように「狂気」だと開き直ってしまえば、もう合理的な理屈を考えることはしなくて済む。

戦後体制を「国体」化し、「絶対矛盾的同一性」的な、まさに戦前右翼的非合理性で擁護する屁理屈が、追い詰められた護憲派にアピールした。その功績で内田樹は左翼から「知の巨人」と持ち上げられる。

法の規範性を拒絶するこうした狂気の議論が、井上達夫のような法哲学者を激怒させたのは当然だった。しかし、この論理は、一部の憲法学者にすら影響した。

戦前の思想の非合理主義を否定して、戦後リベラルは出発したはずだった。その帰着がこうした非合理主義であることは、笑えない喜劇である。

憲法の規範性はもちろん、法の精神を無視してまで「護憲」を主張する狂気の一派。知の堕落の最たるものと言える。

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