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生活保護の議論を恐れるな

「生活保護」が話題になるたび、新聞記者時代に、記者同士で激論になったことを思い出す。

芸能人の親族の不正受給が問題になった、10年ほど前の話だ。

不正受給問題を追及すべきだという私に対して、反対が多かった。

それは、こういう論理だ。

「不正受給があるといっても、全体の1パーセント未満、わずかな割合だ。それを問題にしてしまうと、福祉の最終手段である生活保護廃止論につながるから、慎重であるべきだ」

「慎重であるべきだ」というのは、要するに、追及すべきでない、という意味だ。

私はこの論理に納得できず、以下のように反論した。

「君のいう不正受給の割合は、判明している分だけだろう。不正受給はバレない、という感覚があるからこそ、芸人の親族の不正も行われた。バレていない不正受給はもっとあるはずだから、それを追及すべきだ」

しかし、私に同意する者はおらず、「慎重」論が勝利したのだった。


この議論を私が忘れられないのは、議論に負けたからではなく、私の議論の仕方がまずかった、と後で後悔したからだ。

議論の中で、私は「生活保護否定派」のようになってしまったが、実際には私は肯定派なのである。その点でも、誤解されたままになったようで、心残りなのだ。

以下のような反論をすればよかったと思う。

「生活保護制度は守らなけれならない。生活保護は最終手段として極めて大事な制度だ。だからこそ、その悪用は厳しく批判されなければならない」

しかし、そう反論して、同意を得られたかどうかはわからない。

不正問題が大きくなったら、生活保護廃止論に向かってしまうーーその懸念を、マスコミはあまりに強く感じていた。

こういう、「議論になると、悪い結果になる」というマスコミの思考、改憲問題でも現れているこういう思考こそが問題だ、と最近は思うようになった。


生活保護に関する最近のトピックは、外国人に与えるべきかどうか、というものだ。

参政党の質問に答える形で、政府は4日、「外国人に対しても生活保護を続ける」と閣議決定した。


それについても、ネットでは賛否両論が表れている。

マスコミ、とくに左派は、私が10年前に経験したのと同じ論理で、この問題をあまり掘り下げないのではないか。

しかし、これはまさにホットな問題だ。

9月のスウェーデン国政選挙で、右派が躍進した理由の1つが、まさにこの問題だった。

そのことを、YouTubeの「Nord Labo 北欧研究室」が取り上げていた。



その番組でも語られていたが、民主主義優等生のスウェーデン人も、

「福祉は、自分たちが高い税金を延々と払い続けた結果なのに、それを、きのう今日来た外国人が享受するのはおかしい。ずるい。悔しい」

と考えている。

そう考えているけれど、おおっぴらには言えない。なぜなら、差別主義者と呼ばれるから。

だから黙って、移民反対の右派政党に投票する。それが選挙結果に顕著に表れ、マスコミの予想を上回って右派が勝利する傾向が続いているのである。

「理想主義の行き過ぎ」が、公的議論をさまたげ、右派政党を躍進させる。

あのスウェーデンですらそうなのだから、日本でもますますそうなるだろう。


だから、議論を恐れてはいけないのだ。

なんでも「理想主義」に落とし込んで議論を避ける、左派の「朝日・毎日」あたりが、逆に右派を増やしている。それがわからないのだろうか。

そもそも生活保護制度は、1950年に、とくに何の議論もなく導入された。外国がやってるからウチもやろう、くらいの意識しかなかった。いまだかつて日本できちんと議論されていないのだ。

生活保護否定論まで含めて、議論をすることを恐れてはいけない。憲法についても、年金についても、何でもそうだ。

マスコミは、議論を促すのが仕事のはずなのに、議論をさまたげる「配慮」ばかりしている。それはすなわち、民主主義の妨害だ。妨害ばかりしているのがマスコミだ。

議論の結果は、国民が責任を持つ。それが民主主義だ。マスコミが心配することはないのである。


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