見出し画像

なぜ三島由紀夫を電子書籍で読めないのか

先日、三島由紀夫のことを書いていて、

「あれ、そういえば三島が死んで50年以上たった。著作権は消滅したのではないか」

と思って調べたら、消滅していなかった。

1970年に死んだ三島の著作権は、2020年に消滅するはずだった。

だが、直前の2018年のTPP(環太平洋連携協定)交渉のなかで、2040年まで延長されたのだ。

ああ、そういえば、そんなことがあった。私は反対したかったが、どうしようもなかった。

安倍晋三のありとあらゆる悪口を言うアベガーの人たちも、このことは取り上げないね。これについては私も安倍(と甘利)が憎い。

著作権期間が50年から70年に延長されたことにより、もうすぐ自由に読めるようになるはずだった三島や、志賀直哉(1971年没)、川端康成(1972年没)、大佛次郎(1973年没)などのフリー電子版が、待ちぼうけを食うことになった。

これは、文化的な損失だなあ、と思う。いまでも忘れられつつあるこれらの大作家が、あと20年間、青空文庫などで読めないとなると、いまの若い世代には読まれないまま終わってしまうかもしれない。

著作権期間の問題とは別に、三島の作品は、これまで電子書籍化もされていない。これは、著作権継承者である三島の息子、平岡威一郎氏の意思なのだろう。

このように、著作権継承者の頭が古いと、さらに若い世代に作品が読まれなくなる。これはなんとかならないものだろうか。

(三島原作の映画や芝居をやるのも、著作権継承者の許可が必要で、なかなか厳しいと聞く)

マスコミも、学者も、著作権継承者を怒らせるわけにいかないから、何も言わない。

その被害者は若者だけではない。いま三島を読もうとすれば、事実上、紙の新潮文庫などで読むしかない。しかし、文庫は老眼にはそろそろ厳しくなってきた。

新潮社版の全集で読むのがいちばんいいのだが、古本でも高い。私も少しずつ買い集めたが、途中で資金が尽きた。かさばるしね。

三島は、日本文学の1つの伝統が自分で終わる、と意識していた。

実際、本当の意味での「第二の三島」は出てこなかったし、今後はますます出にくくなるだろう。

あと20年、これらの作家が読みにくい環境が続くことで、日本文学の連続性は完全に切れるだろう。三島が最後の継承者だった王朝文学の香りはもう消えるだろう。

文学の伝統というだけでなく、日本語の伝統が切れつつあるのを感じる。漢文の必修廃止とあいまって、いわゆる「美文」を書ける日本人がいなくなりつつある。

そして、これらの作家が残した、「文明開化」への戸惑いや、明治人の正義感や、戦前の知性や美意識などの思想的な継承も、なされないまま終わるだろう。

それでいいのだろうか。村上春樹などのポップ文学と、ネットオリジナルの文芸だけが、新たな伝統となるのだろうか。こうした現状に何もできないのが悔しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?