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天安門事件の記念日に 1989年の朝日と毎日が日本をダメにした

34年前の今日、1989年6月4日は、中国で天安門事件が起こった日でした。

北京・天安門前で、中国の民主化を求めるデモ隊に軍が発砲し、1万人規模の犠牲者が出たと言われる大事件です。

東西冷戦の末期。1980年代後半に始まった東側の動揺・動乱が、中国において1つの帰結を迎えた日でした。

しかし、この日のことを、どれだけの日本人が覚えているでしょうか。


私はすでにマスコミに入っていました。でも、事件の記憶は薄いのです。

もちろん、衝撃を受けた日本人は多かったはずですが、同時代の感覚としては、他にもいろいろあった。

1989年というのは、いろいろありすぎた年なのです。


改めて、1989年という年を振り返ると、以下のようになります。


1989年(昭和64・平成元)

1月7日  昭和天皇死去 昭和から平成に改元
2月13日 江副リクルート前会長逮捕
3月23日 真藤NTT前会長がリクルート事件で逮捕
6月3日  竹下登内閣総辞職、宇野宗佑首相就任
6月4日  天安門事件
6月5日  サンデー毎日「宇野スキャンダル」号発売
7月23日 参院選で自民大敗、社会党躍進(宇野退陣、海部内閣へ)
11月9日 ベルリンの壁、崩壊
12月3日 ブッシューゴルバチョフのマルタ会談で冷戦終結宣言


1989年のマスコミ界


この年は、以下の「半世紀に1度」級の大事が、3つも起こった年です。

国内
・改元 昭和天皇が死去して64年続いた「昭和」が終了
・バブル絶頂 日経平均が史上最高値
国際
・冷戦終了 ベルリンの壁崩壊(2年後、ソ連崩壊)


元マスコミ人としては、本当に思い出深い年です。


1月7日に昭和天皇死去。マスコミ内部には、改元にともなう矛盾と疲労感がありました。

マスコミは昭和天皇の戦争責任の議論を中途半端に打ち切り、新聞界は「崩御」という言葉を自ら復活させ、「自粛」という言論抑圧に加担します。

当時のマスコミ、とくにリベラルメディアの中には、「いつも言ってることとやってることが違う」という憤懣、屈辱感と、無力感が漂ったのでした。

そして1990年1月18日には、昭和天皇の戦争責任に言及した本島等長崎市長が右翼に銃撃される事件が起きます。

一方、マスコミは、改元にともなう自己矛盾の鬱憤を晴らすように、前年(1988年)に朝日新聞が火をつけた「リクルート事件」に燃えていました。

1989年はバブルの絶頂期でしたが、「濡れ手に粟」で大儲けした奴らへの大衆の嫉妬が「リクルート事件」を燃え上がらせたと言えるでしょう。

「自粛」が明けた1月24日、リクルートの饗応を受けた経済企画庁長官辞任を皮切りに「辞任ドミノ」となり、竹下登首相も疑惑の人となります。首相秘書が自殺するなど、竹下内閣はボロボロになって、6月3日に総辞職、宇野宗佑が首相に就任します。


天安門事件が起きたのは、まさにその翌日(6月4日)でした。


そして、6月4日は日曜日でしたが、その翌日(6月5日)発売の鳥越俊太郎編集長「サンデー毎日」が、いわゆる「宇野愛人スキャンダル」を暴きます。

宇野スキャンダルは、最初は大したことないという反応でしたが、サンデー毎日の執拗な追求と、7月の参院選をにらんだ政治的思惑がからまり、次第に大スキャンダルに発展します。

「リクルート」と「愛人スキャンダル」のダブルパンチで、7月23日の参院選で自民党が大敗、社会党が躍進し、土井たか子の「山が動いた」というセリフが生まれます。

天安門事件は国際的問題となり、日本の政界もマスコミもそれなりの反応を見せましたが(そして日本の政財界の中国への弱腰はそれ自体問題ではありますが)、日本は日本で、それどころではなかったのがわかるでしょう。

こうした日本国内の流れの中で、天安門事件は、同時代には「埋没」してしまったように思えます。


朝日・毎日は何と闘っていたのか


この年は、世界中の多くの民衆が「闘っている」年でした。

天安門事件は、中国の民主化運動の帰結であり、挫折でした。

一方、ソ連と東欧の民主化は突破口を見出し、ベルリンの壁崩壊とソ連崩壊につながります。


日本のマスコミも、大衆を煽り、何かと「闘っていた」のですが、いま振り返ると、ちぐはぐな感じを受けます。

朝日新聞も毎日新聞も、改元時には事実上右翼に屈服したのですが、その鬱憤を晴らすように「リクルート事件」「宇野スキャンダル」で自民党政権を追い詰めました。

そして、「土井たか子の社会党ブーム」を演出します。

このときに土井たか子に乞われて政界入りしたのが辻元清美や保坂展人・世田谷区長で、彼らは我々の世代では最もキャリアの長い政治家です。


天安門事件で共産中国の圧政を見たあと、ソ連・ヨーロッパでの社会主義退潮の大きなうねりの中で、日本では「社会主義ブーム」みたいなことになりました。時代に逆行しているように見えます。

もちろんこれは、社会主義へのコミットというより、バブル時代の一種の憂さ晴らしのようなもので、多分にマスコミの自己満足であったように感じます。

世界中が本物の変化を経験している中で、日本は、何か「ニセの変化」で満足したようです。

それが証拠に、マスコミが引き起こした、この1989年の日本社会党の躍進が、その後の日本の政治をいい方向に変えたとは言えないでしょう。

社会党にとっては1994年に政権を担うきっかけになりますが、すでに世界は冷戦後であり、社会党が自滅するきっかけにもなったのです。


朝日・毎日含め、マスコミは世界の本当の変化を見逃し、代理満足に逃げた。

見逃した「本当の変化」の1つが、天安門事件であったように思います。

マスコミだけのせいにするわけにはいきませんし、朝日・毎日も特別な害意があったのではないと思います。

ですが、当時「自民党を負かした」と喜んでいたその無邪気さと、そのときからまるで変わらないマスコミの意識が、その後30年余の日本の停滞を招く一因になったと私は感じるのです。


1989年のもう1つの大事


1989年に起こったことは、それだけではありません。

4月20日 朝日新聞が夕刊でサンゴ捏造記事掲載
5月26日 朝日が記事捏造を認め一柳東一郎社長が辞任

なんてこともありました。これも、マスコミ的には大事件でした。

朝日がつまずくと、「小朝日」である毎日が頑張る。サンデー毎日の「宇野スキャンダル」はその例でもありました。


そして、数年後に世界的大事件に発展する発端も、この年にありました。


2月10日 オウム 真理教、富士山総本部で田口修二殺害
4月7日  麻原彰晃、総本部で殺人(ポア)肯定の説教
5月11日 江川紹子がオウム信者の親から相談を受け、のちにサンデー毎日にネタを売り込む
10月2日 サンデー毎日「オウム 真理教の狂気」号発売、麻原彰晃が毎日新聞社に抗議に訪れる
11月4日 坂本弁護士一家殺害事件


なぜ1989年がこのような大変な年になったのか。

詳しくは、以下の私の小説「1989年のアウトポスト」でどうぞ。


<参考>





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