公共施設に誰でも自由に出入りできたころ 戸田市中学校乱入事件に思う
埼玉県の戸田市で3月1日、中学校に刃物男が乱入して傷害事件を起こした。
犯人は17歳の高校生で、「誰でもいいから人を殺したかった」と言っているそうだ。
現場の最寄駅は埼京線の「北戸田」。印刷会社や製本会社の多いところで、出版業界にいた者は、一度は出張校正などで訪れているだろう。懐かしい場所だ。
自由に出入りできるべき、という思想
それはともかく、この事件を報じる番組では、学校などの公共施設に、不審者の侵入をどう防ぐか、というのが問題になっていた。
IDカードや、顔認証で、入場を制限すべきだ、と防犯の専門家が言っていた。
小学生も、IDカードをかざさないと校門を通れない日は近いかもしれない。
時代は変わったなあ、と思う。
私が子供のころ、というと50年前だが、役所などの公共施設は「誰でも自由に入れる」という思想があった。
なぜなら、役所は、税金で運営されている。
だから、役人、公務員の「真の上司」は納税者、市民だ。
役所の働きぶりは、市民が常に監視できるはずだし、監視すべきである。
だから、市民は役所に自由に出入りできなければならない、ということである。こういう考え方は、公立学校にも基本的に適用されただろう。
私は、子供のころにそういう考えを知って、感心した。
いまの人は、昔の人はセキュリティ意識が低かった、考えが甘かった、とだけ思うかもしれないが、そういう積極的な考え方があったことは知ってほしい。
そういう思想が、どれほど一般化していたかはわからない(私の子供時代、1960年代は、そういう積極的な民主主義が唱えられた時代である)が、現に私の田舎の区役所などは、オフィスにも誰でも入れるようになっていたと思う。
新聞社にもあった「壁を作らない」思想
実は、そういう考え方は、私がマスコミに入った30年ほど前は、新聞社には生きていた。
新聞社は、市民のための機関だから、市民に開かれていなければならない、市民がいつでも記者に問題を告発できるように、という考えがあった。
実際、当時の新聞社は、一般の企業とくらべても、セキュリティが甘かった。
さすがに、いわゆる降版(締め切り)の時間は、スクープを守るために編集部への入場が制限されたが、普段は、基本誰でも、編集部まで入って行けた。
これも、一部には、上記のような考え方があったからである。
読者、市民と、壁を作ってはならない、という思想があった。
1980年代に、赤報隊事件で朝日の記者が支局で殺されたあたりから、新聞社でもセキュリティが厳しくなっていく。
いまでは、一般の企業よりもセキュリティが厳しくなっているかもしれない。
私の経験では、そのころから、マスコミと、社会の人々との価値観のギャップが、広がってきたと思う。
会社や施設のセキュリティのための「壁」が、意識の上の「壁」になることもあるのだ。
門戸を開く、という思想は、下手なことをすれば市民から襲われる、というリスクも背負っている。そういう緊張感を持つべきだ、という思想でもある。
しかし、子供たちは最優先で守らなけれならない。学校でこういう事件があると、世の中のセキュリティ意識はますます厳しくなっていくだろう。
ネットでも、個人情報がいつ盗まれるかわからない、というセキュリティへの警告が高まる一方だ。
世の中の仕方ない流れだと思うが、それは、人と社会との間の「壁」が、ますます強固になることも意味する。淋しい思いがするのは私だけだろうか。
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