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「美術界の石丸伸二」梅津庸一めぐる論争

美術家・梅津庸一をめぐる論争が、面白いことになっている。

梅津庸一は、いま人気の芸術家だ。23日の朝日新聞では、こう紹介されていた。


日本の油彩画の歴史を再考するような絵画作品から脱力感のある陶芸までを手掛ける芸術家の梅津(うめつ)庸一さん(42)が関わる展覧会が続いている。今も大阪と東京の美術館で、大規模個展と自らが構成した企画展が開催中だ。なぜ彼は、美術館から愛されているのか。
(朝日新聞2024年7月23日)


この現代美術界の寵児が、先の都知事選に出馬した「石丸伸二」のごとく、「人気はあるが中身がない」と、批評家たちに批判され始めている。


市原研太郎の批判


梅津は6月4日から、大阪の国立国際美術館で展覧会「クリスタルパレス」を開催中である。

ことの発端は、その展覧会を見た美術ライターの市原研太郎が7月18日、Facebookで痛烈な梅津批判を発表したことであった。


市原の批判を理解するためには、以下のことを知らねばならない。

梅津庸一が、明治時代に西洋画を輸入した黒田清輝と、黒田がパリで師事したラファエル・コランを「原点」とする作家として知られていることだ。

今回の「クリスタルパレス」プレスリリースでは、こう解説している。


梅津庸一は、日本の洋画の歴史を参照しつつ、裸の自画像を手がける ことで知られています。ラファエル・コランや黒田清輝など、この国の 「美術」の始祖たちを下敷きにするその制作によって、彼は「この国で 美術家として生きること」の可能性を根本から問いなおそうとしました。
国立国際美術館「クリスタルパレス」プレスリリースhttps://www.nmao.go.jp/wp-content/uploads/2024/05/umetsu_pressrelease.pdf


コランの作品を下敷きにした裸の自画像は、今も梅津の代表作である。

そんな梅津に対して、市原は、梅津が美術史を正しく理解していない、と指摘する。


本展のアーティスト(梅津)は日本の公式の美術史を信じているらしい。(中略)

(だが)日本美術に歴史があるとしても、それはラファエル・コランと黒田清輝が作った美術史なのだろうか?

コランの絵画は、19世紀のサロン系アカデミズムであり、近代に入り時代遅れと見做されて、彼の作品は美術史の主流どころかフランスでさえ歴史の片隅に追いやられている。

これが、ヨーロッパのコランの評価。

そうであれば、黒田はコランに師事した時点でアウト(不運だとしても)である。当たり前だが、黒田はヨーロッパの美術史の視界にまったくひっかからない。彼はコランが主流であると勘違いし、かつそれを模倣している。だとすれば黒田は、19世紀アートの傍系のコランのそのまた亜流にすぎない。

黒田を筆頭に、黒田に傾倒してその系譜に連なる日本の画家が目も当てられないほど酷いのは道理である。


つまり、正統的な美術史では2流3流に過ぎない「コランと黒田」を評価し、制作の下敷きにすらする梅津は、美術を見る目がない、「目も当てられないほど酷い」日本の画家の系譜につらなっている、というわけである。


ラファエル・コラン「裸婦」(Wikipediaより)


糸崎公朗の批判



その市原の梅津批判を、「前から言いたかったことを言ってくれた」と歓迎し、さっそく唱和したのが写真家・美術家の糸崎公朗と、その師匠に当たる画家・美術家(立教大学特任教授)の彦坂尚嘉だ。

糸崎は、市原のFacebookでの批判の翌日、YouTubeでそれを紹介し、梅津批判を敷衍している。


糸崎は、ラファエロ・コランなどもったいをつけた「エロ画」に過ぎず、黒田清輝も男だからそのエロに惹かれたのだろう、と「コラン・黒田」をこき下ろしつつ、それを崇めたてまつる梅津を罵倒する。

糸崎によれば、「コラン」は、日本のピアノ教育界における「バイエル」のようなものだという。

フェルディナント・バイエルも、音楽史上は無名の作曲家に過ぎないが、その教則本だけが「バイエル」として日本でもてはやされた。


日本のピアノの教室の世界では、バイエルが崇めたてまつられていた。

それがまさに絵画の世界でいうとラファエロ・コランなんですよ。

日本のピアノ界も、事情は知らないですけど、そうとうダメージ喰らってんじゃないかと思う。

(動画21:00あたり)

【市原研太郞(美術ライター)が梅津庸一(現代美術家)を批判】アート哲学(いとざきみきお【アート哲学】2024/07/19)


市原の批判に重ねて、梅津批判を展開する糸崎(上記動画より)


彦坂尚嘉の批判


そして7月20日には、糸崎の師匠に当たる、彦坂尚嘉がYoutubeで梅津を批判した。

糸崎の批判をさらに敷衍する形で、村上隆まで巻き込んで批判している。(彦坂は、京セラ美術館で開かれている村上の展覧会を批判したばかりだった)


世界美術史の間違い・黒田清輝・村上隆・梅津庸一/市原研太郞の梅津庸一批判(彦坂なおよし 2024/07/20)


彦坂によれば、明治時代、19世紀後半のパリに行きながら、印象派を輸入せず、時代遅れの「コラン」を黒田が輸入したのは大失敗だった。

明治維新で「文明開花」したというのは嘘で、日本の美術は、鎌倉時代の運慶から江戸時代の浮世絵まで、西洋を100年から200年リードしていた。

市原の批判の上に、梅津を批判し、ついでに村上隆も批判する彦坂(上記動画より)


フランスの印象派は浮世絵の影響を受けた。日本の西洋画は、その印象派を素直に輸入すればよかったのに、黒田がバカだから「コラン」なんかを輸入した。

梅津は、その明治の失敗を上塗りしているだけである。

黒田を下敷きに絵を描いている村上隆も同罪だ。

ーーといった趣旨だ。


コランの模倣による黒田・村上・梅津の諸作(上記の彦坂動画より)

(彦坂なおよしのアート論より)
(彦坂なおよしのアート論より)
(彦坂なおよしのアート論より)


「梅津庸一は石丸伸二」論


で、その後、最初の市原研太郎の梅津批判は「炎上」したらしく、現在Facebookでは見られなくなっている。

その間の事情はよく分からないのだが、今のところ、それに関する梅津庸一側からのコメントや反論はないようだ。

糸崎によれば、もともと梅津庸一は日本画の芸大教授などを罵倒し、既成権力や体制への攻撃性で喝采を浴びていた。

しかし、自分が批判されたら、明確に答えられない。

こうした事情から、糸崎は7月24日、「弱い相手には強いが、まともな批評からは逃げる」「劇場型の石丸伸二と同じだ」と再批判することになる。


石丸伸二さんとそっくりだって思ったわけです。

石丸伸二さんのやり口っていうのは、とにかく弱い相手には強いんですね。

石丸さんの場合は、安芸高田市の年寄りの議員をつかまえて、あんたたちの考えは古いんだ、旧体制だ、仕事もしない、とかまくし立てるわけですね。

もっともらしいことことを、さも正論を言ってるようにまくし立てる。

石丸さんは、勢いがあって、勇気があって、すごい、って思わせている。

梅津さんも同じで、芸大の日本画の教授をつかまえて、けちょんけちょんに批判する。

むしろ(梅津側から)けしかけて、挑発に乗って怒ってくると、ほら見たことか、こんなひどい奴がいる、と吊し上げる。

(でも梅津に対して)それってどうなんですか、と言うと逃げる。

最初はすごいと思わせるけど、蓋を開けてみると、何も考えていない。

(一部大意、動画22:30あたり)


梅津庸一と石丸伸二は、1982年生まれ、同い年である。

【梅津庸一と石丸伸二】現代アート界の論破王(いとざきみきお【アート哲学】2024/07/24)


芸術の値打ちって何?


ここまで、「論争」の経緯をまとめてみた。

「論争」と言っても、梅津側からの反論がないので、今のところ梅津批判だけの一方通行である。

ちゃんとした「論争」に育ってほしいから、梅津自身や、梅津を評価する人からの反論を期待したい。


ーーと書いてきたが、わたしは美術のことはまったく分からない。

ゴッホより普通にラッセンが好き、レベルの人間である。

梅津の作品をちゃんと見たこともなく、彦坂らの梅津批判が当たっているかどうか、判断できない。


だけど、梅津を批判する、糸崎や彦坂の熱意に、引き込まれてしまった。

「芸術とは何か」を真面目に問う、今どき珍しい熱量に、感心してしまったのだ。

それなのに、それぞれの動画の視聴回数は数百程度と少なく、あまり注目されていないようなので、もったいないと思って紹介した次第です。


とくに糸崎は、わたしと年齢が近いこともあり、問題意識に共感できた。

芸術にしろ何にしろ、つねに「なあなあ」の批評で終わる日本の業界事情に、うんざりしているのがよく分かるのだ。


糸崎は、今回の論争に関連して、7月21日に「現代アートの権威性」という動画も発表している。




これは、梅津批判の根拠を、もう少し深掘りしたものだ。

そもそも美術品の値打ちとは何か。

村上隆や、草間彌生に権威があるとすれば、何がその権威を担保しているのか。

一つは「値段」だと糸崎は言う。

つまり、高い値段がついているから、権威がある。

しかし、それでは、そうした美術品に高いカネを払う、金持ちの気まぐれに美術品の価値は依存してしまう。


糸崎は、「権威なんて関係ねえ、オレの芸術だから価値がある」という左翼的芸術観を排除したうえで、権威を担保するもう一つのものとして「歴史」を挙げる。

人類の美術の歴史の中で、正統に位置づけられることで、美術品に権威が生まれる。

それゆえ、間違った歴史観にもとづく梅津の作品の権威性は疑わしい、という議論につながっていく。


その権威性をめぐる議論の当否はともかく、

「美術品の値打ちって、どうやって決まるの?」

というのは、わたしの年来の疑問だ。


わたしは素人だけど、糸崎と同じように、岡本太郎に値打ちがあるとは、あんまり思えないのだ。(岡本太郎美術館は近いから何度か行ったが)

そして、糸崎は明確には言っていないけど、草間彌生に値打ちがあるとも思わない。

村上隆もーーわたしはたまたまNYで見たけどーー値打ちがあるとは思えない。

だから、よく分からないのだ。

わたしのような素人の目は、わたし自身信用していないが、わたしの年来の「素朴な疑問」も、まったく的外れではないらしい、ということが分かって嬉しかった。


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