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価値があるのはそのモノであって、それを選んだ"あなた"ではありません。



モノの値段を自慢してくる見栄っ張りにたまに遭遇します。

卑しい。
自分がスネ夫になってるって気づいていないのかな。



高いものを買う

=高いお金を払える収入がある

=自分はそれができる立派な人間である


とアピールしたいのかな、

いかにも田舎の小金持ちの絡まり切った劣等コンプレクス。

まあわかりますよ。

自分に何も無い人がどうやって自分を飾ろうとするかってモノ以外ないですからね。

いや、違うか、支払ったカネの量以外に価値の数え方を知らないのかも。



知識や教養や技術や生まれなど、自分に芯がある人はモノの値段とか言わないんですよね。

値段に価値がある世界を生きていない、他人からの評価を必要としていない。

それが本当に必要なものなら買うだけで、
高いか、安いかなんて選択の結果でしかない。
高かったか、安かったか、過去形。

そもそも、ある程度きちんとした親だと、金の話をするのは卑しいことだと教るはずなんですけどね。

自分でもスネ夫やトンガリみたいになりたくないなって子供の頃に学ぶと思うんだけど。




やっぱり自分の人生の沢山の選択に負い目があるから、もう取り返しのつかない状況まで失敗したって本当は分かっているから

それが漏れないように今の自分は間違っていない、全部良い方向を選んできたんだって思い込みたくて見栄を張るんですね。


憧れの姿があって、それとの乖離をそのイマジナリな自分が持っていたであろう持ち物で埋めようとする。


それはきっとさぞ高いものでしょう。

それを簡単に買えた理想の自分になるコスプレ。

外付けの構成要素。



生まれも育ちも東京で、大学卒業後は輝かしい職場でやりがいのある仕事をしながら

家族やすばらしい友人達に囲まれて幸せに暮らしましたとさ。

めでたしめでたし。



その劣等コンプレックスは根が深いよ。



田舎に住んでいる”けど”東京の店を知ってる。

今はこんな仕事をしている”けど”前にいた会社では優秀だった。

自分は何も無い”けど”こんな高いものを持ってる。

今はオッサン(オバサン)だ”けど”昔はモテた。

自分はなにも無い”けど”親戚が芸能人。


この「けど」はすごく辛い。悲しいほどつらい。


だって言えば言うほど、言葉で説明しないと私のよさは伝わりません、と宣伝しているようなものじゃないですか。


本当は自分が一番解ってると思う”けど”ね。




そう見えるかも知れない”けど”それは本当の私では無い。

説明するから聞いて。という悲鳴。

よく見られたい。という悲鳴。

ダメに見えるかもしれないけど環境と時代と他人のせいだから。という悲鳴。


自分にはもっと輝ける場所があるはず。いつか大逆転が起きるはず。

いつか。いつか。はず。はず。だれか助けてよ。


何もしていないのにね。


いまおいくつですか?まだやり直す時間あると思います?


無いって判ってるのは自分自身ですよね。




そう”見られる”状態に耐えられないから、モノで埋めるしかないですね。

そしてその価値を宣伝して回る。

これは高いんですよ。これは良いモノなんですよ。

それを選んだ私はすごいでしょ!?ねえ!!褒めてよ!!

これの価値がわからないなんて、あなたは本当にダメですね!!


(私なんかより)


(今の私なんかより)




こうして相手より優位に立った気になるのかな。悲しいです。

でもそれで安心するならそれで良いかもしれません。



ただ、本当に価値があるのは、それを選んだあなたではなく、


そのモノですよ。








金で買えるもので戦うのは、金で買えるものでしか戦えない人です。

でも、金で買えないものは時間と経験で買うしかないので

もう、それをする人生は残っていないですね。


残念です。


仕方ないので、一生買い物でもしていてください。

おじいさん、おばあさんになっても


毎日毎日雑誌や広告を見て、

アレが欲しい、コレが欲しい。

アレさえあれば、コレさえあれば。


いつまでも。

いつまでも。


理想の姿を探して。


それは、悲しいマラソンですね。




おしまい。




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