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『パスト ライブス』のフレームの不在
終盤に関する言及あり。
フレームの内側で スクリーンのフレームの内側に、対象を囲うもう一つの四角形を作るフレーム内フレーム。セリーヌ・ソンタグの『パスト ライブス』(2023)で多用される「フレーム内フレーム」ショットは圧巻だ。初恋の相手ノラ(グレタ・リー)を想うヘソン(ユ・テオ)にとってフレームとは、離れ去った彼女を写す窓であり、彼らが物理的にも精神的にも離れ離れの世界にあること、また常にノラ
終末西部劇『オッペンハイマー』
ジョン・フォードの不在
『ダンケルク』(2017)の海岸が歴史と異なる形で再現されたのと同様に、『オッペンハイマー』におけるロスアラモス国立研究所も独自の形で再現される。何もない荒野に突如現れた木造の都市は国民にも秘められた場所であったが、非常に国民的な場所でもあった。研究施設と同時に研究者家族の生活拠点としての街であるロスアラモスを新参者に案内する際、ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マ
触れ合う主体同士の性愛/精神分析のパロディである『ピアノ・レッスン』は悲劇か?
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4Kデジタルリマスターによる再上映(2024)を機にこの傑作と向かい合う時、違和感は拭えないままだ。「女性」であるジェーン・カンピオン監督による「女性映画」として、また女性が搾取される映画としてこの『ピアノ・レッスン』(1993)について、「女性」の解放のドラマが安易に読み取られることを懸念している。実際本作から多大なオマージュを
『夜明けのすべて』と線
終盤に関する言及あり。
東京の地平線はどこ?
スティーヴン・スピルバーグの『フェイブルマンズ』(2022)を観てから、映画の地平線の位置を注視するようになった映画ファンは多いと思われるが、その有無についてはどうだろうか。日本映画、延いては東京映画とは戦後からその地平線を見せないことを特徴としてきた。小津安二郎の『東京物語』(1953)は尾道、東京、熱海を舞台とするが、いくら高い建物に登ろうと
『プレステージ』による映画(複製装置)史敗北宣言
本稿ではクリストファー・ノーランの監督術を見出すために彼の傑作である『プレステージ』(2006)を映画史的観点から分析する。第一章は前提として筆者のノーランに対する解釈とその疑問、初期作品の特徴について叙述したものであるため、『プレステージ』の批評のみ興味のある方は第二章から読んでいただいて構わない。なお、『プレステージ』に関してはネタバレとなる終盤を主に扱うため、鑑賞後に読むことをおすすめする
もっとみるフーコーとラカンによる『籠の中の乙女』
われわれはそこで「異常」な教育を目にする。「今日覚えるのは次の単語です──『海』。革張りのアームチェアのこと。うちの居間にもありますね。例文。” 立ってないで海に座ってゆっくり話しましょう” 」
『籠の中の乙女』で、親たちは決して子どもを外に出さない。子どもと言っても、彼らはもう優に20歳を超えているように見える。外の世界は危険な世界だと教え込み、危険生物「ネコ」への対処として犬の鳴きまねを教
2023年映画ベスト10/「映画は映画である」と告げること。
ワースト デミアン・チャゼル『バビロン』(2022)
選出した10作は全て『バビロン』への批判として機能している。昨年ゴダールが「よそ(there)」へ旅立った直後に本作を観て、本当に映画が死んでしまうのかと絶望したが、映画について語っておきながら映画ならざるものへの超越を試みて散っていったチャゼルに対し、ノーランとロブ・マーシャルは作品世界の内に映画を留めることを選び、ウェス・アンダーソンも
東京で「見上げる」こと。「まっすぐ見る」こと。/『PERFECT DAYS』
我々が「小津安二郎的なもの」として連想するのが、静止した身体とすれ違う眼差しであるならばヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』(2023)で──笠智衆が『東京物語』(1953)で演じた役と同じ苗字を持つ──役所広司の身体とは「反小津安二郎的なもの」として、動き続け対象をまじまじと見る身体であるといえる。
「動く」身体と「見る」身体
役所広司の身体は夢という「見る」ことを強いられ
ロブ・マーシャルの無頓着さ/水泳映画としての『リトル・マーメイド』(2023)
カメラは暴力的に世界に四つの線を引き、線で囲われた枠の中へと無垢な身体を投獄する。ある囚人は、錯乱状態に陥ったように檻の中で動く術しか持たず、ある囚人はそこから脱獄してみせるが、看守たる「目」は、再び彼を投獄する。初期の映画の醍醐味はこうした幽閉空間における身体の自由の制限と彼の自由意志の間に生じる葛藤の運動を観察するブルジョア的窃視にあったわけだが、國民による創生を創生した者によって花が散った
もっとみるウェス・アンダーソンの映画史横断旅行
映画の死を警告した者たちが死して行く現在、その死に抗うために映画の本質を捨て去ろうとする誤ちは多く挙げられる。世界は分断され個人的経験にヒエラルキーが設けられた現代、硬直した物語を楽しむことの価値が揺らぎ始めている。多元宇宙間(マルチバース)の放浪は、物語を個人的経験へと接続する幻想を手助けすることに成功しているが、その接続の過程を彷徨うことしかできないだろう。なぜなら、物語宇宙と我々観客の住む
もっとみるスピルバーグ論-『フェイブルマンズ』はフェイブルマンズの呪いを解く。
『シンドラーのリスト』(1993)の終盤、大勢のユダヤ人を救ったオスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)は、彼らの感謝を受けながら涙を流し「もっと救えたはずだ」と嘆く。ジョン・ウィリアムスの劇伴が流れるこの場面はいささか御涙頂戴なシークエンスにも見えるが、スティーヴン・スピルバーグは本気でこれをシンドラーに言わせているに違いない。
スピルバーグによる救済のモチーフは、史実や原作ありきの題材に
観客の加害性を無視する『NOPE』へのヒッチコック/バザン的モヤり。
本稿はジョーダン・ピール監督作『NOPE/ノープ』(2022年)に関して、あって欲しかった展開、設定、演出という名の願望をただ吐露する試みだ。その前に褒めるところはちゃんと誉めてみたい。ネタバレも含まれているためご注意を。
眼差し論映画としての『NOPE』
『NOPE』が「眼差し」を取り扱う映画である以上、「眼差し」とは何か、基本的な所をまず押さえておきたい。
マーティン・ジェイの名著『
身体の縫合/『心と体と』
知り合いに現在公開中の『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』(エニェディ・イルディコー、2021)を誘われて、同監督の前作である『心と体と』(2017)を今更観た。
左腕に機能障害を抱える食肉工場のおっさんエンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)が、産休代理で派遣された自閉症の女性マーリア(アレクサンドラ・ボルベーイ)と同じ夢を見ることを認め合ってから、互いに惹かれ合っていくラブストーリー。
彼女が