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フーコーとラカンによる『籠の中の乙女』

 われわれはそこで「異常」な教育を目にする。「今日覚えるのは次の単語です──『海』。革張りのアームチェアのこと。うちの居間にもありますね。例文。” 立ってないで海に座ってゆっくり話しましょう” 」
 『籠の中の乙女』で、親たちは決して子どもを外に出さない。子どもと言っても、彼らはもう優に20歳を超えているように見える。外の世界は危険な世界だと教え込み、危険生物「ネコ」への対処として犬の鳴きまねを教える。プールで窒息の危険があるまで息を止めさせて、がんばりに応じてシールを与え、集めたシールの数に応じて子どもは夜ご飯のあとの娯楽の決定権を持つ。
 なんと「おかしな」、とあなたは思うに違いない。それこそが、ランティモスが周到に用意した罠である。

フーコーによる『籠の中の乙女』

規律権力としての社会

 さて、ミシェル・フーコー(1926-1984)は、17世紀の監獄の誕生を機に西洋で社会構造の転換が起きたと分析している。すなわち、中世までは罪人は身体や生命に対する罰によって排除することができたが、近代以降その罰は精神的な刑罰へと変化したというのである。その背景には大まかにフランス革命や学問の体系の変化があったと言及している。監獄に続き病院や軍隊、そして学校などのセクターにおいて国家・社会という権力が個人に矯正が行われた。「正常」「異常」の判断もこうしたセクターを通して精神的に訓練されることなのだ。こうした権力をフーコーは「規律権力」と呼び、個人を規律化し、従順で有益な身体に変容させ、「真っ当な」人間を国家が育成するという目的があった。
『籠の中の乙女』の家族において、両親が子どもたちに対して行っていることはまさしくこの「規律権力」の行使であるといってよい。父親(=国家)は子ども(=個人)に強靭な肉体を求める。したがって、本作における家族は社会の戯画であることがわかる。
 しかし一方で、この両親が上述のような教育を行う目的は劇中では明らかにされない。いつか犬歯が抜けた時が外界に出て良い証しであると父親は語るが、外界に出れば子供達は両親と家庭の異常さに気付き告発することになるだろうし、もちろん永久歯は(彼らはとうに永久歯に生え変わっている年齢である)抜けることがないため「外界への解放」はかりそめの目的であり、将来的に殺害が用意されている可能性も予見できる。この目的の宙づりは、ランティモスがもう一つの類似性を──すなわちわれわれが普段その中で暮らす「家族」そのものと映画が描く「おかしな」家族の類似性を──示唆するためだろう。

家族の異常性

 フーコーは規律権力論において言及の少なかった家族について、『性の歴史』第1巻(1976)で触れている。

政府は気が付いたのだ、相手は、単に臣下でも「民衆」ですらもなく「人口」という形で捉えられた住民であって、そこにはそれ固有の特殊な現象と、固有の変数があると。(中略)このような人口をめぐる経済的・政治的問題の核心に、性があった。(中略)性行動とその決定因、またそこから発生する効果・作用の分析が、生物学と経済学の臨界で生まれる。と同時に、道徳的・宗教的勧告や徴税といった伝統的な手段を超えて、夫婦の性的行動を、経済的かつ政治的に協議された一つの行為に仕立てようとする組織的な作戦が現れる。

ミシェル・フーコー『性の歴史』第1巻, 新潮社, p.35

 ここは、近代以降権力による性の介入によって個人の「生き方」の矯正が行われたということが告発される。当時の経済・政治的問題を語る上で重要になったのは「人口」であった。富としての人口、そして労働力あるいは労働能力としての人口について、それ自体の増大と資源としての可能性との間の均等関係について、権力は介入する必要があった。そこで用いられたのは当時の学問的な知であり、生物学や経済学が権力に加担することでその統制を都合よく進めることに成功した。もちろん、性医学などの発達に伴いこうした権力と性との関係はフーコー以前にも指摘されることは多かったことは確かである。ただし、フーコーが新しかったのは、権力は性を「抑圧している」という誤解を訂正することだった。権力は性的な欲望や行為をすべてないものとしたわけではなく、生殖に結びつくセクシャリティだけを「正しい」欲望、「正しい」行為として定めるように働いた、すなわち性を管理したのである。
 そして西洋近代社会によって作られたこのような「性的欲望の装置」が最も発揮される場は家族であった。

18世紀に価値観を与えられるに至った家族という細胞は、その二つの主要な次元──夫と妻という軸と親と子供という軸──の上に、性的欲望の装置の主要な構成要素が展開することを可能にした

同上, p.138-139

 家族は国家の共犯者として、近親相姦を禁じ性交を不可視なものとするのとともに、「性的欲望を根付かせ、それを恒常的な支えによって仕立てるという役割を持つ」(同p.139)。近代家族はその背景にある国家による人口維持・増加の要請を自覚しないまま、自ら性を管理することによって結果的に人口増加に加担することになるのである。
 『籠の中の乙女』では、「長男」の性は父親によってまさしく管理されている。父親は外界から一人の女性を連れて来て長男に「あてがう」。その女性を「罷免」するのもまた父親の一存である。それがわれわれにはいかに奇怪に見えるものであれ、父親に与奪される性をそのまま享受する長男の姿は、さながら背後の国家の思惑に気づかず人口管理の片棒を担いで生きているわれわれのようである。われわれも、被支配者として家族の中で管理される他方その目的を知らずに順応して生活をしていることを省みれば、『籠の中の乙女』の家族と我々の家族との間に重なりが生じて見えることだろう。つまり、ランティモスはその目的の欠如によって家族という集団そのものの異常性を主張しているのだ。

ラカンによる『籠の中の乙女』

 しかし、この家庭の支配者である父親の唯一かつ最大の誤算は、「女性にも意志がある」ことである(なんと性差別的な父親であることか)。初め「長男」に性交渉の相手としてあてがわれていた女性であるクリスティーナは、外の世界の人物である。彼女は「長男」にオーラルセックスを要求するが、「長男」はそれを断る。クリスティーナはそれを不満に思い、自分のカチューシャと交換に「長女」にオーラルセックスを求める。「長女」はこの関係を通じて、自分の置かれている世界の外のものを欲望し始めるようになる。そして彼女がついに求めるのは、クリスティーナが持っていた外の世界の映画のVHSである。子どもたちは娯楽・趣味さえも両親によって管理されており、見られるビデオはホームビデオだけだった。こうして侵入した映画が、家族という虚構を打ち破るきっかけを与えることとなる。

鏡像としての映画

 「長女」は親の目を盗んで2本の映画を再生する。彼女の目には涙が浮かぶ。翌日、彼女はシャドーボクシングを行うが、歯を食いしばりながら口角を片方に落としたその顔が印象的である。これはシルヴェスター・スタローンの顔の真似であることがわかる。ここで重要なのは、彼女が観た映画が『ロッキー3』(1982)であることではなくその顔真似にある。外界から遮断された子どもたちにとって他者とは家族とクリスティーナなどの限られた人物しかいなかったはずだ。そこに現れたスタローンという他者、またそれだけでなく映画に写る数多くの人物に彼女は驚いたことであろう。では、なぜ顔を真似るのだろうか。
 フランス精神分析理論家のジャック・ラカン(1901-1981)による「鏡像段階論」を参照すれば、産まれたばかりの幼児にとって外の世界はイメージによって提供されるという。そのイメージをとらえるために我々は言語を使ってそれらを名指す行為を日々行っているが、言語を授かる前の幼児にとってそれは不可能だ。また、幼児にとって主体と対象とは不可分なものである。なぜなら幼児は一人では自分のイメージを掴むことができないからだ。よって幼児は自分の前に現れる他者を自分として認識しそれに順応していこうとする習慣があるという。しかし、ある日鏡を前に自分の身体像を見、それが自分であると名指されるイベントによって幼児は言語を修得するのとともに自我を獲得し、また自他の間に境界線を張ることができるようになる。
 『籠の中の乙女』の「長女」がはじめて出会う他者(スタローン)の顔真似をするのは、彼女が鏡像段階論における幼児に位置付けられていることを表している。これを裏付けるのは、彼女に名前が与えられていないことである。同時に『ジョーズ』(1975)を観たであろう彼女は自分を「ブルース」──『ジョーズ』のメイキングでスタッフ間で共有されていた鮫のロボットの名前──と呼ぶように「次女」に命じる。「ブルース」と呼ばれた彼女はそのたびに嬉しそうに振り返るが、これはラカンの精神的師である精神分析家のジークムント・フロイト(1856-1939)が「いないないばあ」などの遊びに幼児が熱中するのは、彼らが主体を獲得する前後で揺れ動くときの快感を反復するためであると語るところのパロディとしてとらえることができる。
 加えて主体を確立した彼女に訪れるのは、快感とともに不快である。子どもたちは親の教育に反した場合肉体的な罰則を受けるが、それまではそれ限りの指導で次のシーンでは明るい家族関係を継続できていたものの、映画を観た後の「長女」──映画を観た事によって指導された彼女──はその指導者である父親に不快感を抱いている様子が見受けられる。また、クリスティーナを解雇した後、「長男」の性の相手として選ばれることも彼女を不快にする。同時にこれは、フーコーが家族における性の装置の条件としていた近親相姦の禁止を侵害することにあたり、そこからこの家族が崩壊していくもの興味深い。
 両親の結婚記念日の祝いの後、彼女は強引に犬歯を破壊する。口元が血に濡れた彼女の顔から我々はあることに気づく。この映画において「長女」と「次女」が似たような顔立ちをしていることに意図があったことだ。つまり、二人の女性は鏡像を表しており、自他の区別のない関係であったということだ。「長女」は自ら顔に痕跡を残すことにより妹との鏡像関係から抜け、完全な主体として家を飛び出す。
 彼女が飛び込んだのは父の車のトランクである。家族は彼女を必死で探すが見つからない。そのまま朝を迎え、父は車に乗り職場へと向かう。内側から開くことが難しいトランクを外側から写して映画は終わる。その結末を宙づりにしたいのか。車はまるで妊娠しているかのようにそこに子を宿している。このラストシーンは再出産として表されているのだ。

結語

 我々はフーコーを頼りに『籠の中の乙女』における家族が、社会の戯画であるのとともに、我々の知る家族そのものであることを理解した。それに加えて支配構造から逃れる行動原理にラカンを照らし合わせることで後半の展開を明確にできた。ここで面白いのはランティモスの映画に対するその位置づけである。
 彼女に異なる世界を教えた映画、それは規律権力や生政治から逃れるアイテムとして劇中示されるが、映画さえ一つの権力によって構築された物語であり、かつ現実において規律権力が利用するメディアである。ランティモスは映画監督として、そうした映画の負の要素に見て見ぬふりをして映画を崇高な装置として露呈させている。

文:donotkickme、毎日が月曜日

参考文献

  • ミシェル・フーコー『性の歴史 Ⅰ 知への歴史』(1976),  新潮社, 渡辺守章訳, 1986年

  • 『思想』2019 no.1145, 岩波書店

  • 大橋洋一編『現代批評理論のすべて』, 新書館, 2006年

  • 千葉雅也『現代思想入門』, 講談社現代新書, 2022年

  • 渡名喜庸哲『現代フランス哲学』, ちくま新書, 2023年

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