触れ合う主体同士の性愛/精神分析のパロディである『ピアノ・レッスン』は悲劇か?
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4Kデジタルリマスターによる再上映(2024)を機にこの傑作と向かい合う時、違和感は拭えないままだ。「女性」であるジェーン・カンピオン監督による「女性映画」として、また女性が搾取される映画としてこの『ピアノ・レッスン』(1993)について、「女性」の解放のドラマが安易に読み取られることを懸念している。実際本作から多大なオマージュを受けたセリーヌ・シアマの『燃ゆる女の肖像』(2019)は疑うことなきフェミニズム映画の傑作であったし、ギレルモ・デル・トロによる『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)も抑圧される、喋る術を持たない女性のモデルに本作の主人公であるエイダ(ホリー・ハンター)を想定していることは容易に理解できる。しかし、ここで問う。『ピアノ・レッスン』は「フェミニズム映画」であるか。
筆者が本作をはじめて観た際(2021年早稲田松竹の特集にて)、その出会いが衝撃的だったのは、この寓話的な物語が内包する精神分析理論を私自身が見抜けたことだった。本作の裏には明らかにジークムント・フロイト(1856-1939)とジャック・ラカン(1901-1981)による精神分析理論が組み込まれている。精神分析理論それ自体は性差別的ではあるが、もちろん映画はその骨格から脱したりそれを否定したりすることでハッピーエンドを迎えることはできる。しかし本作で問題となりうるのは、物語がこの理論を温存したまま終わる点である。換言するなら、本作は主人公であり「女性」であるエイダが家父長制から脱して比較的マシな家父長制へと移る物語である。その問題が長い間筆者を悩ませていた。再上映をきっかけに今回それを解き明かしてみたい。
本稿ではまず、筆者の主張する『ピアノ・レッスン』の裏にある精神分析理論を読み解く。主にフロイトとラカンを参照するが、前者の理論は主人公エイダと彼女を取り巻く登場人物との間に見受けられ、後者の理論はエイダの人物設定に相当する。よって、論を進めやすいようにまず第一章でラカンの理論とエイダの人物分析を扱い、次に第二章でフロイトの理論の確認と映画における人物関係、物語展開とを照らし合わせる。この二つの章では、精神分析理論とそれに相当する映画の部分に触れるのとともに、『ピアノ・レッスン』が内包する問題点に触れる。最後に、その問題点の解決については第三章で自論と共に展開することとする。
第一章 ラカンと言葉を持たない主体
まず、我々は主人公エイダの人物設定を確認していく。その中でまずジャック・ラカンの理論を確認し、それが如何に彼女の造形に影響を与えているかを見ていく。
第一節 喋らない女性
エイダは喋らない。冒頭にナレーションで語られる通り、それは身体的な原因ではなく、彼女が自らの意思で6歳の時に喋ることをやめたことを我々は知る。しかし、その理由は自身にもわからないと続く。
ヴィクトリア朝時代にスコットランドからニュージーランドへと渡り縁談により知りもしない男性スチュアート(サム・ニール)に嫁がされる展開からして、声を失った女性とは文字通り当時抑圧されていた女性の表象として本作では機能を果たしてはいるものの、その声を失った原因は自分にあることは何を意味するのだろうか。
フロイトのエディプス・コンプレックス(詳しくは第二章第二節にて後述する)の書き換えとして、ジャック・ラカンが主体の確立を語る際、言語は重要な要素となる。人は生まれるとまずイメージの世界(想像界)に生きることとなる。目の前を流れるイメージを掴むことのできない幼児はここで自我を持つ事がない。自我を宿すべき身体は目の前に現れず、本来対象となるイメージの方が自分の目の前を漂うため、住まいを探している状態にあるようなものだ。しかし、ここで(鏡に映る自分を見ながら母親という他者から)名指されることによって自我は生じる。名指し(名づけ)という言語的行為によって自我は現れるとともに、同じ作用で対象も現れる。自我と対象はその切り離しによって生じることとなるのだ。
自我を持った幼児は自分を確立するのと同時に自分以外のものをとらえ自他を分離する。しかし、その言語の介入はイメージを完全には捉え損ねる。言語とは象徴的なイメージの代理物であり、言葉を発したり文字を書いたり目の前にあるものを心の中で唱えることはその目の前のイメージを置き換えてしまう行為であるため、イメージと完全に触れ合えていた状態への回帰願望が生じる。なぜならイメージとの触れ合いは自我が生じる前の主体も客体も入り乱れる状態であり、全てに差がない平穏な世界であったからだ。よって幼児が言語の世界(象徴界)で求めるもの──名付けられたもの──は彼の中で真に求めるイメージとは別物として(母乳などによって)提供される。幼児は主体を確立させる──存在する──代わりに欲求不満を強いられる。
この理論を参照すれば、自らの意思により喋らないエイダとは、言語を棄てた人物であり、よりイメージと戯れることを許された人物であることがわかる。言語の拒否は象徴界への参入の拒否を意味し、象徴界に入ることで幼児は主客関係に組み込まれることから、エイダの喋らないことの目的とは、主体として確立されることへの反抗──それは一度果たされたら打ち消すことのできないものであるため、彼女にとって反抗でしかない──とともに対象となることの拒否である。しかし、性差別的な時代において対象となることから逃れるために言葉(主体)を棄てること、これは「声なき女性」として男性権力によってより結局は客体化されるものとなる危険性を含んでいる。ラカンの理論の内でも、自我を持たない幼児は外界の他者──それは、既に言語を獲得している他者──に晒されており、それらから逃れるためにも言語を獲得するとされる。エイダに与えられた設定とは「声なき女性」の再生産にしか過ぎないのではないだろうか。
我々は次にエイダが言語を利用しない代わりにその意思の伝達のため媒介するものを取り上げるが、それは言語を棄て「声を失った女性」の再生産として主体を失うことについても彼女が反抗していることを示すためである。
第二節 触れること
声を用いない代わりにエイダが言葉を伝達する上で代理するものに着目してみよう。
まず一つは娘のフローラ(アンナ・パキン)である。彼女はエイダの手話──エイダ役のホリー・ハンターによると、それはエイダとフローラの間で創作された手話──を翻訳する役割を担うだけでなく、彼女の心の声となるナレーション──冒頭と結尾にのみ用意されている──も担当している。フローラはエイダの実の娘ではあるものの、観客にとって父親は不明なままだ。父に関する情報はフローラがエイダにより伝えられたという御伽話によって語られるが、どうやら彼女は婚約の「外」で宿された子であり、父親は彼女に対する責任から逃れたことが示唆される。
二つ目は首から下げたタブレットであり、フローラが不在の場合、エイダは力強くそこに文字を書き記す。この筆記は道具としてのタブレットだけでなく、そこに文字を書くためのペン、そして手の存在感を強調する。エイダにとって手とは最も動きある身体の源であり、指は力強く動作する。
そして、その指によってピアノは弾かれることとなる。これがエイダの声の代わりとなる三番目の媒介者だ。ピアノは言葉を持たないが彼女の感情を表す。
声の代理としてフローラ、タブレット、ピアノは媒介者・媒介物として現れるが、それらに声なき言葉を吹き込むのはエイダの指である。その指は空気をなぞり、物を掴み、そして鍵を打ちつけるが、同時にそれは彼女自身が対象を認識する役割も担う。彼女を前にした対象は指によってなぞられる事が多い──翻って、触れられない人物・事物とは彼女が恐れる相手である。指で触れる事によって対象を捉える様子は視覚よりも重要なものとして扱われているように見える。
ここで本作の冒頭のシークエンスを参照したい。それは大部分が影に覆われているショットであり、光の部分はぼやけている。2番目のショット──エイダが自分の手で目を覆うショット──から、その光と影は指で手の隙間から見える風景を捉えた主観ショットであることがわかる。
映画では一般的に視覚が知覚の上位に挙げられるものであることを顧みれば、この動作──本作の始まりの動作──はとても意味深いものであり、この2つのショットにより、エイダは触覚によって視覚を制限していること、つまりそれは触覚が知覚の上位として構成されていることがわかる。したがって、本作では触覚が視覚以上に対象を志向する知覚として機能していることを証明できる。
視覚以上に触覚が重要であることは何を示すのか。これは結論部分(第三章第二節)にて振り返ることとなる。ここでは、その触覚によって動かされる媒介者・媒介物をみていこう。
さて、媒介者・媒介物としてのフロラ、タブレット、ピアノ、そしてそれらを働かせるための指を並べてみたとき見出せるのは、それらは発話の代理行為に過ぎないことだ。発話において言語を働かせるのは口である。要するにエイダは発話を避けてはいるものの代理的に言語行為を行なっている。ここでエイダの発話の拒否としての代理行為によって結局エイダがその拒否の目的──象徴界への参入の拒否──を果たすことに失敗しているようにも見える。しかし、カンピオン(=エイダ)は、発話行為をエイダの身体で象徴的に表すことにより、言語とは何かを再度強調しているようにも思われるのだ。
第三節 象徴的な父
ここで今一度ラカンにより扱われる言語の特性を持ち出す必要がある。(母という大他者により)幼児に与えられた言語、その言語とは世界と対峙するためのアイテムであるという見方ができる。それをラカンは「法」と提唱した上で、それを構築するのは「父親」であると説く。(フロイトの理論から精神分析に入るとこの「父親」を実際の家族関係における登場人物と見誤ってしまうが)それは象徴的な「父親」であり、家庭においては家父長制構造の頂点に立つ人物、国家においてはその権力者に相当する。幼児は一つの権力の下で、その権力者により公布された「法」に従属することにより存在を許され、世界と対峙する。であるならば、言語とはそうした従属するものから与えられた言葉であり、そこで発せられる言語はその権力者(象徴的「父」)の言葉(=欲望)である。国家と家庭の図式が共通しているのはこうした権力構図にあることがラカンにより説明できる。
では、エイダにとってフローラとは、タブレットとは、ピアノとは何だろうか。
まずタブレットだが、これは言語を彼女に強制する道具であることはわかりやすい。彼女がそれを使うのは対話を強いられる状況であり、それは彼女を救うとともにやはり言語を用いることを課す。
次にフローラは、現れない父との間にできた子であるが、まさしく現れない父とは象徴的な「父親」であり、父との間から生まれたものとしての言語そのものである。彼女は最も言語に近い存在として設定されている事がわかる。フローラは同時にエイダの鏡像の役割も担っている。フローラはエイダの声であるという設定がそれを示す他、彼女たちが隣り合って同じ方向を見つめ同じ表情を作る場面があるし、エイダが鏡に映っている時、その鏡の隣にフローラを立たせるなどの演出が見られる。カンピオン曰く、フローラ役のキャスティングではエイダ役のホリー・ハンターと容姿の似ている子役を探したという。言語とは自分の意志の象徴的な伝達手段であるのとともに父の言葉でもあることを我々は確認した。フローラはそうした言語──エイダであるのとともにエイダを支配する父の法を吹き込む装置──である。新たな父親(スチュアート)について、フローラは物語が進むにつれて、エイダほど嫌悪感を抱くことはなく、逆に家父長制に反した行為をエイダが行なった際には、フローラはスチュアートにそれを伝えにいく。まさしくフロラは言語として父の「法」に従う記号的なキャラクターである(その記号性については次章にて後述する)。
そしてピアノ、それは彼女を幸福にする道具のようであるが逆にやはりエイダを縛るものでもある。マオリとして生活をしている元英国人のベインズ(ハーヴェイ・カイテル)はエイダに意見を求めることなくスチュアートと、ピアノと土地とを交換する。その後エイダはピアノを取り戻すため、ベインズと性的な「契約」を結ぶこととなるが、この構図は『美女と野獣』のオマージュである。野獣とベルの間で取引されるのはまさしく父親であった。エイダの実の父親はスチュアートとの縁談を組んだ人物であり、父と娘の関係が悪いことはうかがえるものの、本作においては冒頭に一瞬姿を見せるのみでそれ以後画面に映ることはない。それはまるでエイダが父を意識の彼方に抑圧しているようでもある。しかし、エイダの不幸を招いているものとしてピアノは呪いのように彼女の文字通り重荷として付きまとうのだ。
フローラ、タブレット、ピアノは言語の代理媒介として言語から逃れるための存在かと思われたが、実際にはエイダを縛り付ける象徴的な言語であり、父の代理の言葉であり父そのものであった。
筆者が『ピアノ・レッスン』を精神分析のパロディとして扱うのは、そこに批判が介在していないようにみえるからだ。エイダは性差別的なこの理論を強調するための悲劇的主人公であるように見える。しかし、それでも彼女が屈せず生きる姿に我々は何を見出すべきなのか、引き続き追っていく必要はあるだろう。
第二章 フロイトと「法」の内と外
本章では、『ピアノ・レッスン』における搾取と暴力について、フロイトの精神分析理論を紹介しつつ主に二人の男性キャラクターについてみていく。エイダの夫となるスチュアートは、一見害は無さそうに見えるが、家父長制にどっぷり浸かった男性である。彼が決定的な暴力を発動するのは物語後半であるため、彼については第二節で扱う。よって最初に扱うのはエイダと愛人関係になるベインズだ。本作を観た人──特に#metoo以降を生きる我々──にとって、エイダを「救う」者が最初に取る行動は断罪すべきものであるように思える。まず第一節でベインズの「加害」を確認し、それに対してエイダがいかなる反応を示すかを見ていく。次に第二節で物語に沿ってスチュアートの人物造形、主にフロイトによる「父親」としての役割を彼が如何に担っているかを分析する。ここでは、エイダとスチュアートとの関係だけではなく、実際の父親としての役割を彼がいかに演じているのかを見る必要があるため、フローラとの関係、加えてフローラの人物造形について続く第三節で扱う。
第一節 ベインズによる暴力
ニュージーランド到着後、浜辺に置き去りにされたピアノを弾くために、エイダはベインズに案内をさせ浜辺に戻る。その演奏を見たためか、帰宅後ベインズはスチュアートに土地との交換でピアノを要求する。エイダは最初これに怒るが、どうやらベインズはエイダのため──そうでもしないとピアノは村まで運ばれることはなかったようなので──ピアノを自宅に設置させたことがわかる。ベインズはエイダを自分のピアノ教師として自宅に招くことを、スチュアートに要求するが、やはりその目的は、自分がピアノを習うことではなく、エイダに演奏させることだけだったようだ。
しかし、2回目のピアノ・レッスンで事件が起こる。無許可で行われるベインズからエイダへの接吻に対し彼女は拒否反応を示す。そこでベインズは謝るどころかピアノの鍵ととある要求の交換を持ちかける。その要求は性的な要求であり、次第にヒートアップしていく。毎回ベインズが無許可でエイダの身体に触れ、エイダが戸惑うと、約束以上の数の鍵盤を条件に要求の内容を伝え、エイダはそれに許可を与えるというものだ。
これは買春であり、レッスンの終盤でエイダはベインズと性交を迎える。もちろん女性には身体を売る自由がある。エイダは、ピアノを取り返し、鍵盤と身体の交換を終えた後もベインズと会い愛し合うまでになる。しかし、エイダとベインズの関係はその端緒においてベインズの暴力が常に認められる。結果的に2人の愛は、性被害者がその加害者を愛するというステレオタイプを幻想を生産しているようにも見られる。結末では、エイダはスチュアートと別れベインズとスコットランドで暮らすこととなるが、ベインズというスチュアートよりは理解はあるが性暴力の加害者の家父長制へとエイダは自分の居場所を移行したようにも見え、そう考えるとあまりにも希望のないラストのようにも見えることから筆者は疑問を抱くに至ったのだった。
二人の出会いについて、これ以上考察を加えることはしない。ベインズによる性加害は本作の批判すべき過失だ。ただし、まだ疑問は残っている。なぜエイダは彼を愛しスチュアートよりもマシな方として選択したのだろうか。それはエイダの勝手ではあるものの、実際に画面から見出せる要素はある。(それは第三章にて触れるとして)ひとまずここでは、「法」の外に位置付けられた性暴力と「法」の内側にある家父長制の対比について、本章では引き続き論述を進めたい。
第二節 原父スチュアート
スチュアートは夫としてはあまりにもエイダとの間に距離を設けられているし、本人もエイダに気を遣っているようにも見えるがこれは間違いだ。彼は家父長として監視し罰を下すものとして君臨しているのだ。夫というよりは父としての距離がここに認められる。
彼が取る行動でいちばん不可解なのはエイダとベインズの情事を、家の隙間越しに眺める場面だろう。決してその場に介入しようとしない彼の姿は我々に単なる監視者としてのみうつる。また、家父長としてそのすぐ後でエイダを罰するわけではなく、エイダの次の訪問がわかると彼女を追って引き留め罰する(強姦しようとする)、こうしたベインズの態度は妻の不倫ではなく娘の「不純性愛」について悩む父親のようだ。実際フローラに対してスチュアートは父親としての役目を遂行する。特にベインズと母親の絡み合いを覗き見したフローラが、それを真似て木に性器を当てる遊びをしているところを目撃した際は、その木(=ペニス)を洗うように命じる。
父と子の近親相姦的な関係をここに見るのであれば、フロイトのエディプス・コンプレックスを参照する必要があるだろう。ラカンが主体の確立を語ったその元祖の理論として、フロイトも幼児が自我を獲得するメカニズムを提唱したが、それは性的なスキャンダルだった──ラカンにおいてもそれは性的な言説であるが、それを省いた説明をすることは可能であったため前章ではその説明を用いた。
フロイト曰く、子供は生まれながら性別を問わず母親と結ばれることを望む。なぜなら母は自分を満たしてくれる存在であり、生き存える上で必要な存在であるからだ。しかし、そうした欲望は父という存在を知るのと共に打ち破られる。不純な行為に及んだ場合、ペニスを切断される恐怖──それは父に支配される母=「女性」になること──を父は子に与える。そうした恐怖に打ち勝つために子は母を愛することをやめ、父と同様の人物になることを(自分を攻撃してくる相手の属性を取り入れ真似ることによって不安を乗り越えようと)目指す。その同一化によって、子は母親のような対象を外に求めるのと同時に自我と超自我(理性など、欲望を禁止する心の働き)を持つに至る。これが(去勢コンプレックスも含んだ)エディプス・コンプレックスの基本的な理論だが、フロイトは後にこれは男児における説明であると訂正する。
では、女児はどうか。女児は男児と同様に初めに母親を愛するが、父のペニスの存在を知ると自分が去勢された(という幻想)に驚き、それを持つ男性を妬む。そしてペニスを有しそれを与えてくれるであろう父親を愛するようになる。鏡像関係の母親から他者として父を認めることを通して女児は自我を確立する、というのがフロイトの説明である。
なんと性差別的か、と読者は思われるに違いない。もちろんフロイトのエディプス・コンプレックスを基本とする精神分析理論は当時から性差別的とされ、女児のエディプス理論については狂言としか思えない。フロイト自身も元々のエディプス理論が性差別的であると批判されたため、女性についてはわからないと言いながら女児版の理論を構築したなどの背景もある。しかし、本稿でこれを取り上げざるを得ないのは、まさしく女児のエディプス・コンプレックス理論がフローラの人物造形を説明するからだ。よってここではスチュアートとエイダに留まらず、スチュアートとフローラの関係、同時にフローラの人物設定についてみていく必要がある。
第三節 天使フローラ
フローラは父を知らずニュージーランドへ向かう。望まない結婚に悲観的になる母に対し味方であり、新しい父(スチュアート)を愛するはずがないと宣言する。しかし、彼女は母から段々離れ父に加担し、最後には母を裏切り、彼女の密告によってエイダは罰せられてしまう。彼女の前に現れたスチュアートはペニスを持つ父であり、彼女はその羨望の対象として彼に従うことになる。こうしたフローラの記号的な設定はスチュアートの父権性を際立たせるものであると筆者は考える。
その父権性を最も強調しているのは、エイダがベインズへの想いを綴った鍵盤を託されたフローラが、それをベインズに渡しに行かずにスチュアートへと持っていく展開だ。着目すべきはフローラが母を裏切る理由である。
一つは母が家父長制という「法」から反することをしたために、それを父に報告しにいく一面が見られる。フローラはある時から演劇の衣装である天使の羽根をつけているが、その衣装を着たまま山の上にいるスチュアートのもとへと駆けて行く姿は象徴的だ。頂上に立つ神は天使の知らせにより下界にいる女を罰しに山を下る。
二つ目はエイダの裏切りを報告することでスチュアートから愛されるようになるというエディプス理論におけるフローラの欲望である。ただし、フローラにとって父とはスチュアート一人ではない。ベインズに対しても彼女は父性を感じている。興味深いのは、エイダ-ベインズ-フローラからなるエディプス三角関係において、フローラはベインズに嫉妬をしている点だ。同じくフロイトのナルシシズム理論によれば、我々は母や父との同一化を通して彼らを愛する経験をしているため、愛する対象に自分の影を見ることがあるという。そこから還元してフローラは同一化の経験があるエイダをその対象としてベインズと争っているのだ。よって、ここで三つ目の裏切りの理由が明かされ、そこにはベインズを亡き者にする目的があるのだ。
父の使者として、父から愛されるため、父を殺すため。フローラのこうした捻じれた欲望はフロイト理論に正確に則っていることがわかる。
では、なぜスチュアートは不倫の現場を眼差した後ではなく、愛を伝えた時に罰を働かせるに至ったのだろうか。エイダはここではじめて(タブレットを除いて)文字を綴る行為を行った。ピアノの鍵に刻まれた文字は彼女が完全に象徴界へと参入したことを示すのとともに、それが愛のメッセージであるということがわかる。「父」としてスチュアートはエイダを罰するが、それは彼女が他人を愛するために、「父の法」に入ったためだ。換言すれば、ベインズを愛するがためにそれまで拒んできた「父の法」を利用されたことに、スチュアートは嫉妬したと考えられる。もともと「父の法」は父の欲望を叶えるためのものであったのだから。
そこで彼が罰として指を切り落とす行為は、もちろん去勢の象徴行為であるのと同時に、まさしく去勢そのものである。なぜなら、指がなければエイダは言葉の世界にアクセスすることがそもそも果たされないからだ。よって、この去勢によってエイダは男性的主体として生きることを否定され、スチュアートにとってペニスを持たない「女性」として客体化されてしまうのだ。
しかし、スチュアートはそれ以降、彼女を隷属させることなくベインズと一緒に島を出ていくことを禁じない。またベインズも、スチュアートによるエイダの去勢に怒り、彼に復讐することを誓うがそうした行動は実行されない。反対に、夜中スチュアートの方がベインズの寝床に忍び込み、銃を向けながらエイダを連れニュージーランドから出ていけと警告する。そして、エイダは主にスチュアートの警告により島を出るベインズに連れられて生き延びることとなる。
この時点でエイダは男たち(二人の「父」)の交換の人質として主体性を持たないようにも思える。ただし、続く船からピアノを捨てる行為は彼女自身の意思によって行われる。もはや弾くための指を持たず、主体性をも否定された彼女がピアノを捨てるのは、父殺しであるのとともに、生存を与えられた世界から消え去ること、死を意味する。よって、彼女は自らの意思で海の底へと落ちるピアノを結んだロープに脚を絡ませ共に沈んでいく。悲劇である。しかし、彼女は生き延びる。それもやはり彼女の意思によって。だからといって、これは悲劇の回避となるのだろうか。
スコットランドに戻り、ベインズと共に暮らす彼女の手には鉄でできた義指がつけられる。そしてその家には新しいピアノが置かれている。そして彼女は発声の訓練を受ける。このシークエンスから考えられるのは、エイダは言語の世界、「父の法」の下に生きざるを得ないことに屈服したことだ。スチュアートよりはマシな男ベインズの家父長制の中に入ることは彼女を救うことになるのだろうか。
第三章 キアスムの性愛
さて、我々はここまでピアノ・レッスンにおける精神分析理論の構造を読み取ってきた。それは決して破壊されることのない構造であり物語世界を牛耳る法そのものである。しかし、再考する必要があるとすれば、それはスチュアートとエイダ、ベインズとエイダの間の関係の内側の差異だろう。確認したようにこれまでは精神分析的枠組み、要するに登場人物を記号的に捉えた本作の象徴作用について触れたのみだが、そこで演じられる愛や性交については触れることがなかった。よって、ここでは如何にベインズがスチュアートよりもマシであるのか、その「マシ」の内容をみていくことで、もしかしたら最後にエイダが属することになるベインズとの共同体とは、家父長制と言い得ないものかもしれないという指摘をしてみようと思う。
第一節 「見る」主体と「見られる」客体の性愛
フロイト以降、精神分析理論が女性差別的である決定的な理由は、女性の性愛を男性の性愛の言説の枠組みで語ったからだ。そこにおいて女性は対象であり、男性を導く「母」であり、男性が愛する「他者」である。女性は主体である男性の客体として、ペニスを持たない者として、マゾヒストとして存在している。フロイトの弟子たちは彼を慕いつつ女性を救うためその理論を修正したり、ラカンもフロイトへの挑戦として晩年女性理論へ取り組むこととなるが、大前提となる「男性」と「女性」の二項対立から脱した者は多くない。フロイトの弟子たちは「女性」を語るためにわざわざ「男性」の理論から説明を始めるが、これがそもそもの間違いだ。
本稿で既に何度か登場しているリュス・イリガライ(1930-)の理論を参照すれば、「女性」を如何に語るべきか──イリガライに則れば、「女性」は言語の中で語ることができない──に関する考察を進めることができるが、ここでは「男性」と「女性」の二項対立が根底にあるフロイト-ラカン間の精神分析から脱しない。なぜなら、『ピアノ・レッスン』の物語世界は「男性」の理論によって書かれた世界であり、エイダはその世界から脱することができないからだ。では、この世界でエイダは如何によりマシな状態、要するに客体から脱して主体を勝ち獲るのか、またそれは果たされているのだろうか。
「父」であり、「主人」であり、「神」であるスチュアートは二項対立に縛られた近代的な人間である。彼が常に求めているのは自分(夫/父/主人=神)に対する「他者」(妻/子/奴隷)である。そんな彼にとって行為とは一方通行なものである。現代思想が二項対立的価値観を覆す直前のジャン=ポール・サルトル(1905-1980)の他者論が彼の中に見出せる。
サルトルの主体とは、自由に意識を働かすことのできる主体であり世界から超越した存在だ。主体が宿す意識とは常になにものかについての意識であるため、主体とは空っぽの器(無)であり意識を向けることで生きているという。そんな主体を脅かす存在とは他者である。なぜなら他者も意識を備えており、主体は他者にとっての意識の対象として利用されてしまう恐れがあるからだ。サルトルの主体と他者との間には常に相剋関係にあり、主体が存在するためには他者は主体のための意識の受け皿になる必要があるし、他者が存在するためには主体は自らを他者のために差し出さなければならない。
そうした二者の間で愛とは如何に語られるのだろうか。他者を愛する主体にとって、他者はその存在を所有したい存在であるのとともに、他者自身を存在させたい欲望の対象である。サルトルは決して二項対立を脱することができず、常にどちらかが思い思われる関係によって愛の成立不可能性を説いた。
スチュアートとエイダの間にある性愛とはまさにサルトルの恋愛観だ。彼らの関係がやはり珍妙なのは、エイダがスチュアートを完全に拒絶しているわけではなく、進んで彼の身体に触れる場面があることだ。彼らがベッドを供にする場面は限られているが、常にどちらかが相手の身体に触れる時、その相手は硬直している。ここに動く身体と固まる身体が認められるが、それが決して動く「男性」と固まる「女性」でないのは、サルトルの考えを受け入れつつ、その枠組みの内で女性も男性と同じようになるべきであると説いたシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-1986)のフェミニズム思想を想定できる。
具体的にはスチュアートはその男性性を以てエイダのベッドに入って行くが、エイダはそこで彼を強く眼差す。するとスチュアートは羞恥に襲われたかのように身体の動きを止める。別の機会には、今度はエイダがスチュアートの身体を嬉しそうに触る。その時、スチュアートは自分の身体を見られること、触れられることを恥ずかしがっており、その状態から逃れたいようだが、エイダが動いている間はそうできない。そして、エイダの去勢後、我が物となったエイダのベッドに入って行くが、そこでも彼は眼差されたことによって、エイダに手を出せない。エイダはサルトル的なスチュアートを全否定せず、ボーヴォワール的批判において彼と関係を築いているのだ。
同様に注目すべき場面は先述したエイダとベインズの情事をスチュアートが覗く場面だろう。それは本来スチュアートにとって許せないものでありながら、彼がそれを止めに入らないのは第二章で確認したように、彼とエイダの間にあるのは夫婦的関係ではなく、親子的関係であるからであったが、同時に彼は監視する者として、一方的な窃視者として──フロイトが語るところによると、サディストとして──スチュアートはそれを楽しんでいると考えられる。要するに、小さな穴から部屋の中を覗く彼は、安全な位置におりその存在を脅かされることはない。そうした安堵の場で、その犯行が隠された状態において眼差しの対象にある性愛を搾取する人物として、ポルノグラフィの鑑賞者として対象と関わることこそがスチュアートの欲望だといえる。言い換えれば、彼はスクリーンの中の人物から決して告発されることのない映画観賞者的な眼差しの所有者である。『ピアノ・レッスン』において、我々がエイダとベインズの性愛を見ざるを得ないのは、スチュアートという主体とカメラの眼差しが同一化されているからに他ならない。そして、眼差し(視覚)とは、男性的な感覚であり、ジェーン・カンピオンの映画史に対する問題提起をここに見出せる。
単なる暴君でないスチュアートの奇妙な設定からこうした一方通行の行動原理を見出すことができた。そしてその原理の上でしか関わり合えない他者(=主体)を結局エイダは愛することができないのだ。一方でベインズはどうだろうか。
第二節 触れ合う主体同士の性愛
私の左手と右手が触れ合う時、果たしてどちらが「触れる」側なのだろうか。目の前にいる他者と見つめ合う時、どちらが「見る」側なのだろうか。そこに主体と客体の間に引くのは常に「私」であるが、「私」がその境界線を引かない選択をすることはできるはずだ。
エイダとベインズの間にあるのはこうした主体と客体の絡み合いの原理だ。主体でありたいエイダにとって、ベインズも欲望を持った主体である。最初はベインズの方からエイダを対象として扱ってしまう場面もあったが、ピアノの鍵の交換という同意の下、また身体を売る自由への同意の下、そこで演じられる二人の性愛は、どちらの身体も動いている。そしてその運動により互いの皮膚が触れ合う時、もはやどちらが愛撫を「する」側なのか、「される」側なのかはわからない。「ペニス」さえもヴァギナに入った途端、その所有者は曖昧になるのと同じように、エイダとベインズの身体は二人の主体としてそこにある。
エイダが、視覚よりも触覚によって世界と向き合うキャラクターであると我々は第一章第二節で確認したが、全方位に向けて開かれる視覚に対して、触覚とは自らの意思によって触れるものを限定し、意思をそのまま身体的に表現しやすい感覚である。それこそ視覚は曖昧であるが触覚は手段としてはっきりしており、反対にその結果において触覚は曖昧になる。全体から一点に絞られる視覚に対し、一点より全体へと入って行くエイダの指は、イリガライが性差を設けて定義する流動的な「女性」像そのものだ。ここにサルトルの共犯者としてのボーヴォワールに対するイリガライの批判が見出せるのと共に、スチュアートとの関係に対するベインズとの関係による批判が相当される。
ベインズのマオリ族に入植した元イギリス人という設定は、記号的であるが帝国主義的な「主体」と「客体」の混合性を見出すことができる。エイダが「女性」でありながら「父」の言語に抗い力強い「指」と「眼差し」を持つことに似て、ベインズも「男性」でありながら「少数民族」である。決して脱出不可能な二項対立世界だからこそこれら二人の設定が活きるのである。
また、ベインズはスチュアートに対して主体となれない。演劇祭のシーンでエイダがスチュアートの手を握る時のベインズの反応は、父と母の愛に嫉妬する子供のようであるし、覗きのシーンにおいてスチュアートに眼差されることによりベインズはその対象として晒されてしまう。島からの脱出の過程で、それをスチュアートがベインズに決定するのは、まさにエディプス関係における父から子への命令であり、この物語においてエイダ、ベインズ、スチュアート、そしてフローラの四人が常にエディプス・コンプレックスの三角形の内側で何度も位置を変えていることがうかがえる(そして三角形から疎外された人物は決して自由ではなく、反対に三角形の中心に囚われ交換の対象となる)。
したがって「主体」であるのともに「客体」であるがゆえにベインズは、「客体」ではあるが「主体」であるエイダに愛されるのだ。
我々は第一章でエイダは客体化されることを拒む上、言語の主体として確立されることを望まない人物であることを見た。要するに、言語を獲得する以前の幼児の状態がエイダの望む在り方であったが、客体を拒むことで主体性をも失う危険な状態は、反対に客体と主体とが混ざり合うことによってお互いを打ち消し回避されるのだ。モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)はラカンの主体確立のプロセス(鏡像段階論)に同意した上で、そうした絡み合いの知覚作用が主体の確立後も依然として働いていること、主体と客体という規定は常に後から主体自身によって線引きが成されることであって、いくらでも還元可能であることを説く。そして、私と他者が関り合うとき、そこには一つの行動しかないと言う。
他者と触れ合うまでもなく、共に在ることで生じる曖昧さ。そうした曖昧な関係の中で愛し合うことはそこに搾取される他者を生むことがない。故にエイダはそうした曖昧さを提供し合えるベインズを選んだと考えられる。
このようにスチュアートとの関係に対するベインズとの関係は、エイダにとってマシな関係性である。それは比較的彼女が客体となることなく主体として愛し合える関係性であり、また相手を客体化しない気遣いがここに見られる。しかし、主体同士による、その曖昧さによる主客関係を築く気遣いがエイダの理想であるというわけでもないだろう。そもそもその気遣い自体が気遣いである以上主体と客体が一つになる状態はあり得ないわけであるから。繰り返すように二つの選択肢の内、エイダはマシな方を選んだのだ。取捨選択の中で二元論的・西洋中心主義的・男性至上主義的──これもまた極端な二元論──な価値観からの脱却を手助けする新たな価値観を示すこと、カンピオンの意図はそこにあるのではないか。
結語
本稿は、女性監督ジェーン・カンピオンによる女性主人公の映画である『ピアノ・レッスン』が、主人公による妥協ともとれるその行動によって物語を終えるため、悲劇ではないかという問いから出発した。その悲劇を補強する要素としては物語世界と登場人物に割り振られた女性蔑視的な精神分析のパロディであり、その精神分析論の枠組みの中でしか生きられない女性は不幸に見えた。しかし、そうした脚本上の設定を打ち破るように画面にはその否定の運動が表れており、確かに最後にエイダは別の家父長制の中で生きることとなるが、そこから脱する希望は満ちている。なぜその希望が具体的に示されないかと言えば、そうした女性が自分で語ることのできる世界がまだ現実にあり得ていないからであり、そうした現実なしにはカメラを置く場所すら定まらないからだ。
およそ120年間の映画史の方法に反した映画を撮る女性映画監督として、シャンタル・アケルマンとケリー・ライカートが挙げられる。彼女たちの映画は、我々観客を常に裏切り、一般的な映画の物語構造が男性的眼差しによって作られたものであることを女性主人公の表象を通して暴く。男性的な欲望の主体である観客の欲望を裏切ることによって、見られる側の映画は主体性を宿し、その眼差しを返す現象が認められるのだ。アケルマンとライカートに比べるとカンピオンの映画は男性的方法で撮られているが、カメラを男性の眼差しに置くことと並行して、その先にいる対象に運動を与えることで観客の運動の不自由性を示唆し、「見る」ことしかできないかりそめの主体性を脅かす。そうしたカンピオンの沈黙の言葉に耳を傾けること、そうしてはじめてエイダは自分の言葉で喋ることができるようになるのだ。
18,071字
文:毎日が月曜日
編集:donotkickme
参考文献
リュス・イリガライ『ひとつではない女の性』(1977) 勁草書房、棚沢直子・小野ゆり子・中嶋公子訳、1897年
イリガライ『基本的情念』(1982) 西川直子訳、日本エディタースクール出版、1989年
ジークムント・フロイト「ナルシシズム入門」(1914)中山元編訳『エロス論集』収録、ちくま学芸文庫、1997年
フロイト「女性の性愛について」(1931)同上収録
北村婦美「精神分析とフェミニズム──その対立と融合の歴史」共著『精神分析にとって女とは何か』収録、福村出版、2020年
ジャン=ポール・サルトル『存在と無』(1943)松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫
モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(1945)、竹内芳郎・木田元・宮本忠雄訳、みすず書房、1945年
マーティン・ジェイ『うつむく眼』(1993)、亀井大輔・神田大輔・青柳雅文・佐藤勇一・小林琢自・田邊正俊訳、法政大学出版局、2017年
川本徹『フロンティアをこえて ニュー・ウェスタン映画論』(2023)森話社
Julia E. Hanigsberg「An Essay on The Piano, Law, and the Sear , and the Search for W ch for Women's Desir s Desire」(1996), Columbia University School of Law
町山智浩「映画のその他ムダ話」『ピアノ・レッスン』
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