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2023年映画ベスト10/「映画は映画である」と告げること。

ワースト デミアン・チャゼル『バビロン』(2022)

 選出した10作は全て『バビロン』への批判として機能している。昨年ゴダールが「よそ(there)」へ旅立った直後に本作を観て、本当に映画が死んでしまうのかと絶望したが、映画について語っておきながら映画ならざるものへの超越を試みて散っていったチャゼルに対し、ノーランとロブ・マーシャルは作品世界の内に映画を留めることを選び、ウェス・アンダーソンもスピルバーグもヴェンダースも北野武も映画が映画にしかなり得ないことを示した。

10位 北野武『首』(2023)

 「女は女である」というゴダール的法則に則り、ニヒリズムはニヒリズムであり、茶番は茶番であると北野武は言う。彼がヤクザをヤクザであるとして物語を紡いでも、その存在の本質を探られるばかりで彼の映画における空虚な刑事やヤクザの親分はその空虚さ故に、述語を付随されてしまうのだが、空虚なものは空虚なものとして捉えるべきであった。北野武がその最新作で自らの才能を放棄したのは、侍は侍である必要があり、その結果カメラを侍に向けるだけに留めることとなる。しかし、北野武印の切断を欠いた時代劇において、カットの中で侍が刀を振ることで切断が生じてしまうことは、映画の「逃れられなさ」であるとともに、北野武の才能なのである。

9位 クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』(2023)

 近年のクリストファー・ノーランの映画は、サスペンスの不在を克服するのではなく因果関係を逆転することで良しとする『TENET』(2020)然り、自らの不器用さに自覚的なところがあるように思われる。初期作のように散らかった本作の編集は見苦しいこと限りないが、一人の戦争加担者の危うい好奇心と狂気を表している一方で、原爆投下後に映画がまとまりを見出している辺りは、分裂と融合という全体のテーマをその映画自体で示している。その中間に位置する被爆者の現れは表象不可能性なものとして自らの不可能性を顕示し映画は映画であるという諦めの宣言を突きつけるのだ。

8位 ロブ・マーシャル『リトル・マーメイド』(2023)

 ロブ・マーシャルは近年のノーランとは異なり自分の才能のなさに無頓着な監督であるが、本作はその無頓着さが功を奏し、水泳映画の傑作を作り上げた。人魚アリエル(ハリー・ベイリー)の身体はフレームに対し常に寝そべった状態で全身が収まっており、カメラは彼女との距離を変えるだけでその優雅な水泳を記録する。陸に彼女が上がるといつも通り御粗末なマーシャル映画を観る羽目になるのだが、そこで切り刻まれる人魚の身体とは、声を失い脚を得たが故に縦方向に伸びる欲望なき主体としての身体であり、御粗末ささえもその無頓着な性格から生まれた演出の一つなのではないかと疑ってしまいたくなるのだ。縦構図の移動によって物語が進むのも気持ちが良い。

7位 イ・ジョンジェ『ハント』(2022)

 俳優が監督を兼任する時、俳優を如何に撮るのかについて着目してしまうが、イ・ジョンジェ初監督作品である本作は顔の映画であった。クローズアップではなく、異なる政治思想を持つ男二人の顔の配置こそが、彼らの友情と対立、それが好感される瞬間を強調する。向かい合い、同じ方向を見、異なる方向へと向かうその顔と顔は、南北朝鮮の歴史を象徴し、その未来をも見つめているのだ。

6位 ジェームズ・グレイ『アルマゲドン・タイム』(2022)

 開かれた世界を前にカメラを置くことを強いられる映画において、孤立や孤独を描くことは難しいのではないだろうか。時折挿入されるズームは世界が空間ごと吸収されていく魔術のようであり、アメリカの分断、もはやマシな方で生きざるを得ないその分断の中で子供が如何に脆い存在であるのか教えてくれる空間の歪みなのだろう。

5位 ショーン・ベイカー『レッド・ロケット』(2021)

 保留。

4位 ジュゼッペ・トルナトーレ『モリコーネ』(2021)

 『ター』(2022)『マエストロ』(2023)と指揮者を主人公にした映画が撮られたが、最も身体的かつ視覚的に音楽を奏でるその運動に着目できていたのはドキュメンタリー映画である本作だけだった。冒頭のモリコーネの体操から彼の手を通して蘇る20世紀と映画史、後者については好きな映画しか出てこないためずるい映画ではある…。

3位 スティーヴン・スピルバーグ『フェイブルマンズ』(2022)

 映画の制御できなさから生じる傷つけやすさやプロパカンダ性は確かに劇中語られるが、その批判を受けた主人公がジョン・フォード(デヴィッド・リンチ)の教えに従いその後50年間に撮った映画を観て本作を鑑賞すれば、そうした映画の呪いに克服していることに気づくはずだ。制御できなさとプロパカンダ性を弁証法の冒険としてぶつけ合い、運動という絶対知にスティーヴン・スピルバーグは達したのだ。

2位 ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』(2023)

 「動く」ことと「見る」ことから成る反小津安二郎的身体を纏う役所広司が素晴らしい。「見る」ことは「見上げる」こととして『ベルリン・天使の詩』(1983)の天使(ブルーノ・ガンツ)による「見下ろす」身体と対立し、「まっすぐ見る」こととしては『パリ、テキサス』(1984)の父親と共鳴している。この見方はヴェンダース映画にて共通の法則で働いており、歓待性を語る上で欠かせないモチーフであるわけだが、歓待性が崩壊した東京でその残酷さに触れるとともに、他者との対話を拒んだ後に訪れた他者と対峙せざるを得ないときにこそ真の歓待性が開かれると説くヴェンダースは、映画監督が天使であることしかできないことを自覚しているのだろう。

1位 ウェス・アンダーソン『アステロイド・シティ』(2023)

 映画に写ったものは映画でしかないとするウェス・アンダーソンの教義は保守的なものでありながら、それでも映画になり得ないものを提示している点で優しいものである。それは死と叶わなかった願いであり、そして映画を観る観客である。視覚の二項対立の中で「見られる」俳優たちは生き、願いを叶え、そしてスクリーンを超越することができない。彼岸に位置付けられた我々観客はプラトンの説いた洞窟の囚人の如く、影を観る特権を与えられている。それを観ているときにだけ死から忘却することができ、願いは果たされる。映画は夢以上に願望充足の装置であり、死とは別の形で幸福を享受することができるのだ。そして死者を翻弄するために俳優たちはカメラの前で動いて見せるのだ。

計75本

文:毎日が月曜日

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