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『プレステージ』による映画(複製装置)史敗北宣言

 本稿ではクリストファー・ノーランの監督術を見出すために彼の傑作である『プレステージ』(2006)を映画史的観点から分析する。第一章は前提として筆者のノーランに対する解釈とその疑問、初期作品の特徴について叙述したものであるため、『プレステージ』の批評のみ興味のある方は第二章から読んでいただいて構わない。なお、『プレステージ』に関してはネタバレとなる終盤を主に扱うため、鑑賞後に読むことをおすすめする。

第一章 クリストファー・ノーランの映画的欲望

第一節 「撮る」よりも「創る」「壊す」

 まず、筆者はクリストファー・ノーランのファンである。彼のオリジナル脚本による世界観に魅了されてきた。しかし、一方で映画監督として評価することの難しさがある。もちろんノーランの創る物語は映画に特化したものであることは間違いない。モノローグ、モンタージュ、サウンドトラック、何より実写撮影による再現・破壊描写は小説やアニメーションより映画において最大に表現が活かされる。ただ、その実写撮影によるスペクタクル──「再現・破壊」をはじめとする視覚的に印象深い光景を本稿では「スペクタクル」と呼ぶことにする──については、実写撮影であることがその映画的性質を支えていることを保留すれば、それ以外の部分、要するにスペクタクルとは映画的と言い得るのだろうか、と疑いを向けたくなる。換言すれば、撮影をしなくても一つのスペクタクルは作れるというわけだが、その再現したもの・あるものが破壊される瞬間にカメラを向けた時、ノーランの映画監督としてのこだわりは無に等しい。IMAXカメラを用いているとはいえ、ホームビデオと変わりない拘りで美術スタッフにより構築されたものを撮る姿勢にはもはや興味深さを感じる。『スペクター』(2015)で世界記録となった大爆発を立体感を無にして撮影したホイテ・ヴァン・ホイテマを撮影監督に起用し、機動力を制限されるIMAXカメラを最大限に導入し始めた頃から、初期ノーラン作品にあったせめてもの映画的アクションである軽いカメラワークは消失し、スペクタクルをただ見つめる行為を観客は強いられることとなる。したがって、ノーランの映画は「スペクタクルを撮る」ことではなく「(創る・壊す=)スペクタクルを起こす」ことに焦点化しているといえる

サム・メンデス『スペクター』(2015)

 筆者がそれでもノーランの映画監督としての評価を保留したくなるのは、そうした撮影よりもスペクタクルを優先する彼の欲望に、彼自身が自覚的と思われるからだ。そうした態度は最新作『オッペンハイマー』(2023)でも示されることとなるが、他方初期の傑作『プレステージ』においても表明されているとするのが本稿の主題である。

第二節 アクション・タイムスリップ・モンタージュの系譜

 次にノーランの初期の映画にあった映画らしさについて言及したい。これにより、ノーランが『プレステージ』以前と以後で何を捨て去ったのか、またその理由についての結論を補強することとなるだろう。
 ノーランが最も映画的であったのは初期であることは間違いない。『フォロウィング』(1998)から『プレステージ』まで、ウォーリー・フォスターを撮影監督に起用しそしてIMAXカメラを導入する以前、ノーラン作品のカメラワークはインディペンデント出身を思わせる軽々しい手持ち撮影と大胆な振り向きのアクションが多かった。そのカメラワークは結果的に編集によってアクションとアクションを繋げる役割を担っていた。そこで繋げられる2つのアクションは異なる時系列のものであり、一つの身振りが一人の人物・物語の中で反復、対比される効果があった。
 文学作品においては19世紀後半に流行った手法と言っても良いかもしれない。道家英穂の『死者との邂逅』(作品社、2015)によればヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、プルーストにかけて、意識における過去の反芻をその主題とした文学作品が確立されていったという。一つの匂いが過去の思い出を想起させる表現は『失われた時を求めて』(1914)最初の章で示される有名な表現である。このような一つの出来事から主人公の意識を探るように過去へと時系列を遡る表現は映画にとって(もちろんアラン・ムーア作品などの漫画にとっても)特化した表現であったことは間違いない。
 しかし、映画において、例えば主人公が匂いを嗅いだことによる過去の想起は生じ難い。映画は運動しなければならないため、映画においてアクションがそうしたタイムスリップへの継起とならねばならない。例えば、イングマール・ベルイマンは『夏の遊び』(1951)や『不良少女モニカ』(1953)において人物のアクションによって過去へと時系列を移動させている。『ファニーとアレクサンドル』(1985)は道家が同書で取り上げるシェイクスピアの『ハムレット』やウルフの『灯台へ』(1927)、『失われた時を求めて』を強く連想させ、時系列は一方向に進むものの、ベルイマンの過去作やこうした文学作品への参照が、我々観客には見えない主人公の亡き父との過去を想像させてくれる。
 『夕陽のガンマン』(1965)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984)のセルジオ・レオーネはベルイマンにおける文学的テクニックを継承した監督だろう。彼は人物のアクションだけでなくズームを基本とするカメラワークにより過去への超越を目指す。精神分析的に現在と過去が交錯した男を描いたジョン・ブアマンの『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(1967)は一つ一つの行動が過去へと接続されてしまうことを描くことによって、映画の編集そのものに観客は着目してしまう作りとなっている。ノーランが継承しているとすれば、それはブアマン型と言えるだろう。過去に悩む男のふとした行動が過去へと接続されてしまう編集は『フォロウィング』、『メメント』(2000)、『インソムニア』(2002)で主人公の動きに合わせたカメラワークにより接続される。ダークナイト三部作が最初の『バットマン ビギンズ』(2005)のみ特異な理由は、そうしたアクション・タイムスリップ・モンタージュ──筆者の造語である──の有無にある。『ダークナイト』(2008)以降それがないのは脚本の都合上でもあるが、同時にIMAXカメラの起動性の制限に一つの原因があると考えられる。筆者はかたくなにIMAXカメラの導入が映画から運動を消し去る方向にある可能性に言及するが、その一番の被害者はノーランであると思われる。

ジョン・ブアマン『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(1967)

 ただし理由は他にある。ノーランが自らその映画らしさを手放した理由が。これより『プレステージ』の分析を始める。

第二章 『プレステージ』論

クリストファー・ノーラン『プレステージ』(2006)に登場する複製装置

第一節 『プレステージ』概略

 さて、『プレステージ』は前節で指摘したアクション・タイムスリップ・モンタージュ群最後の作品である。ノーランはここで『ダークナイト』以降、彼の映画が映画の最も肝心な撮影の興味から離れていくという宣言をしているように筆者は考える。
 本作は二人のマジシャンの殺し合いを描いた一見変な話である。物語にはいくつかの語り手がいるが、主軸となるのはアルフレッド・ホールデン(クリスチャン・ベール)が獄中で読むライバルであるロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)の手記である。映画が始まった時点では、この手記を読むシーンが時系列としては全体の終盤に位置付けられており、アンジャーがホールデンによって殺害され、逮捕されたホールデンが彼の手記を読みながら主にアンジャーの視点で振り返ることとなるが、その回顧録の中でも時系列が行ったり来たりする。手記の中には、アンジャーがホールデンのトリックのネタが書かれた書記を盗み、そこで解読に失敗した内容も書かれているため、その一つの手記が二人の人物を何重にも内包している作りとなっている。ノーランはそうして二人の人物の対立を色濃く描こうとしている。
 アンジャーがホールデンのトリックを探っていたように、ホールデンもアンジャーのトリックの真相を探る。終盤明らかになるのはニコラ・テスラ(デヴィッド・ボウイ)によって作られた複製装置の存在だ。テスラはSF科学を駆使して電流にかかったものを複製する装置を完成させそれをアンジャーに渡したと言う。複製された側は少し装置から離れた所に現れるということで、アンジャーは毎回のショーでその装置に自分をかけ、分身し、片方の自分を観客に見えない所で殺し、瞬間移動としてステージから離れたところに現れる芸を行っていた。ここで分身前のアンジャーとはオリジナルの彼であり、自我を持っているため、そこでの自死は強烈なものである。
 なんとコスパの悪い、と観客は思われるかもしれない。しかし、ノーランが複製装置を導入しなければならなかったのは、そのトリックの解決不可能性ではなく、その装置をこそ見せたかったからではないか。

第二節 映画史の語りなおしとしての『プレステージ』

 複製装置とは何か。勘のいい読者ならお気づきかと思われる。ヴァルター・ベンヤミンの名前を出す間もなく、それは映画装置としてのカメラの呼称の一つである。カメラとは撮ったものを複製する装置だ。もちろん映画発明以前の写真もそうであるが、映画発明初期には、映画のカメラによって撮影されたものはその運動までも複製されてしまう恐怖があったといわれている。
 ノーランが『プレステージ』における複製装置を映画のカメラとして扱うその根拠を補強するのは、ニコラ・テスラの存在である。一般的な科学史において交流のテスラは直流のエジソンのライバルであるが、エジソンと違って映画は発明していない。エジソンの映画とはキネトスコープ──映写装置であるが、覗き穴を通して映画を観る必要があるため鑑賞者は一人に限られる──でありリュミエール兄弟のシネマトグラフ──撮影装置と映写装置が一緒になったもので持ち運び可能、また映写の方法により大勢の観客の前での上映が可能──とは異なる。ここにエジソンとテスラの対立を重ねれば、

直流のエジソン:交流のテスラ=キネトスコープのエジソン:シネマトグラフのリュミエール

という図式が出来上がる。
 ニコラ・テスラをリュミエール兄弟として見るのはやや強引かもしれない。しかし、これを裏付ける根拠もある。アンジャーの存在だ。
 マジシャンが映画に関わる時、物語は生まれた。ジョルジュ・メリエスは元々マジシャンであったがリュミエール兄弟の上映会に足を運んだ際、スクリーンの上で行われたマジックに魅了されシネマトグラフの購入を決める。メリエスの映画は、映画ではあるものの一つの空間に縛られたショーである。それがショーの記録とならなかったのは彼が編集によって映像マジックを行っていたからである。

マーティン・スコセッシ『ヒューゴの不思議な発明』(2011)より、リュミエール兄弟に交渉するメリエス(ベン・キングスレー)

 『プレステージ』では、テスラは実験においてのみこの複製装置を作動させていた。彼から装置を受け取ったアンジャーはそれをショーに利用した。ここにリュミエールからメリエスへ、テスラからアンジャーへの複製装置の譲渡が認められる。更に、これは『プレステージ』の悲劇の結末を予感させる言葉として語られる、テスラからアンジャーへの「この装置はすぐに破壊すべき」という言葉は、リュミエールがメリエスへのシネマトグラフ継承の際に語った言葉そのものである。

発明したリュミエール:利用したメリエス=テスラ:アンジャー

 よって、クリストファー・ノーランは『プレステージ』において、映画史の始まりをマジックにおいて語りなおしているのだ。

第三節 ホールデンの勝利が意味するもの

 複製装置の利用はアンジャーに成功をもたらし、ホールデンを彼の殺害容疑で死刑にできたものの、次第にアンジャーを精神的に苦しめていく。追い打ちをかけるように、ホールデンの分身術のネタも明かされる。実はホールデンの付き人である人物はホールデンの双子であった。姿形を共にする二人が実際に一人の人物の分身としてそのショーを行っていたというわけだ。
 ホールデンの死刑によってその脅威から逃れたアンジャーを殺害すること、二重の殺人によって物語は閉じられるが、そこに至るまでに二重の自死があったことも忘れてはならない。オリジナルを殺したアンジャーのように、ホールデンもアンジャーに復讐するために、死刑になることを選ぶ。こうして二つの殺人、二つの自死による対決を『プレステージ』は描いているが、では筆者が提唱した映画史誕生のパロディとしての『プレステージ』を如何に見れば良いのだろうか。
 要するに、これはテスラ(=リュミエール)の警告を無視したアンジャー(=メリエス)の敗北の物語である。それに打ち勝ったのは、複製装置を用いない、もっとコスパの悪い、人生をかけたショーである。アンジャーのトリックだってショーであったが、それは装置を用いたショーだ。ホールデンは装置を用いないショーでのみその名声を勝ち獲ろうとする。このホールデンの姿に、複製装置を用いず自身の頭と指先でショーを再現し破壊する姿にクリストファー・ノーランの姿を重ねることはできないだろうか。

結語 グレイテスト・ショーマン

 映画とは常に変化し続けるものであるが、完成するものではないだろう。もしも完成することがあればそれはリュミエール兄弟の作品の中で常に完成されている。彼以降の映画は全てリュミエール兄弟の作品の模倣であると言い得る。『テネット』(2020)だって『壁の破壊』(1896)の模倣である。

リュミエール兄弟『壁の破壊』(1896)

 話を戻すと、ノーランは自分が映画の一つの在り方に反していることに自覚的なわけであり、その反撥はカメラを前にする以前の現象の再現と破壊にある。よってそれをどう撮るのか、その拘りは見出す必要はない。撮影前にスペクタクルを達成することは結果的にホールデンのように勝利を掴むことだからだ。よってそのスペクタクルの発生こそが、クリストファー・ノーランの映画監督というショーマンとしての欲望であり、筆者を含めた今の観客に受けている実態なのである。

文:毎日が月曜日

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