無題①

新味、登場

 時は10月某日、近所のセブンイレブンにておよそ半年ぶりに"アレ"の顔を拝めることが出来た。

"やさしい甘さの"ver.

 三種類の中で一番売れていた(っぽい)もの(上写真)を購入。大小、厚薄の不揃いなチョコを咀嚼してパリパリ、とした快音が口の中にこだまする。これぞ至福。この味わいは、森永がお菓子の方で販売してるミルクキャラメルに近いもの(恐らくそれ)だった。

 発売される度に店舗を覗けば既に売り切れていることもしばしばある、このしましまうまうまバー。あと二種類、売り切れる前に食べねば…と時間は流れて11月某日、残り二つとも購入して無事三種類全制覇達成。舌が肥えてないので、どの味もあまり区別がつかなかった。あくまで勘だが、濃さに違いがある気がする。知りたい方は是非ご賞味あれ。

"まったりおいしい"ver.
"コクうまうま"ver.


秋から冬へ

 登下校中、街の木々が細々とした枝を露わにして頼りなくなっていく姿を目にしている。思えば、毎日のように雨が降っている。ある日は透明の雨が、別のある日は赤黄色の雨が、そのまたある日は橙色の雨が。それら全てが降った日もあった。透明な雨は地面を濡らしたのち乾いていくが、他二つは志のある人たちによって道の端に除かれて薄く層を成し、そして萎びれていくのが性だ。

 毎日、少しずつ寒さが増していく。本格的な冬に、そして年末に近づいている。小さい頃に冷え込みの激しい土地で過ごしていたからなのか、今でも暑いよりは寒い方が過ごしやすい。冬は好きだ。自分では厚着をするのがとても楽しく、他人の厚着姿を見るのも然り。見ていると不覚にも口元が緩んでしまうことがある(悪意はないので誤解なさらぬように)。

 そんな中で一際目立つのは、一部の小学生男子の服装だ。彼らは時期が時期だからといっても、半袖半ズボンで外を歩いている。それもふくよかな子だけではなく標準体型の子までもが、だ。ちなみに僕の従兄弟も同様の格好で登下校している、と叔母さんが言っていた。そこで連想されたのは、外国人の格好だ。彼らの一部もまた、時期が時期とはいえ上下半袖で街を歩いている。彼らの体つきは、屈強な人やふくよかな人が多い印象。そこに国民性の違いというか、性格というか、同じ人間で顕著な差が表れるのが面白い。

 そんな話を親にすると、宇宙人扱いされた。何故そう言われたのかは分からなかったが、一方で”宇宙人”と言われたことに嬉しさを感じたからか嫌な気持ちにはならなかった。というか、子が宇宙人なら親も同じはずだろうに。屁理屈を言えば、地球に住む人は他の惑星に住む生物から見れば全員宇宙人という見方も出来る。恐らく親から言われた意味合いは”変わっている人”というものだろう。真面目な常人よりは宇宙人の方が楽しそうな気がするし、寧ろ奇人の方がいいのかもしれない。


服を探して数千里

 服装の規定がされない生活になり、少しは流行を意識したコーデを考える時間を作るようになった。所詮は人類皆共通の素材、だが自らの個性とも言えるものを飾ろうと融通を利かせるのに時間を掛け過ぎて余裕を自らの手で消してしまっていることに何故か嬉しくなったり、微かな寂しさもあったりするというか、なんというか、感情が混同していて言い表せない。述べたいことが山積みになっている。”今は”、この辺が限界。

 親が適当に買ってきた服で生活する時期はとうの昔に過ぎて、自費で物色したりまだ見たことのないデザインを発見したりすることなどが、服を着る醍醐味になっている。一番に優先するのは価格で、その次に色、デザイン、機能性などといった順だ。比較的誰でも手が届き易いくらいの価格帯で、色はベージュやブラウン系が好み。デザインはシンプルめか奇抜かと言われたらやや後者に惹かれる方だが、着ている服の殆どは前者寄りだ。奇抜な服ほど高価なものが多い印象なのでなかなか手を出そうとは思えず、またそこまで自己主張がバリバリに強そうなデザインを好まない。見るだけで事足りている。

 また、他の人が着てなさそうな服を着たい、という思いが人一倍強い自信がある。ネットの海で一目惚れした服を買おうか否かと、迷いながら外出先でその服と全く同じもの(色含め)を身に纏っている人を見つけた瞬間、心の中で左右に震えていたお買い物メーターの針は”買わない方向”に一気に振り切れ、それまで抱いていた感情が塵と化してしまう場面にこれまで幾度となく出くわしてきた。これに思い当たる節としては、あまり人と被りたくない性格の所為だろう。もし被ったとしても、一見してどの店で買ったのか分からないようなものを買いたい。

 そこまでこだわる必要は無いのでは、と感じる方もいることだろう。流行に片足を突っ込みながら多少凝って選ぶことは宝探しに似た感覚があって面白く、その点で非常に効率がいいのがネットショッピングだ。時間を掛けずに商品の情報が瞬時に得られ、普段は目にしないような服に出会えることも珍しくなく、買いたい時にすぐ買える機動性が頼もしいし、自分の探しているものがピンポイントで見つけられる。だが店舗を歩き回った末に自分が求めている服を見つけられて湧き上がる高揚感というのを、意外と頭の片隅で憶えている。要は五分五分ということだ。


19段目の階段と酒

 僕の10代は、例えるなら箱根駅伝で鶴見中継所から大手町への出発直後のような感じで、とうとう10区に突入した。そのゴールテープを切るときの自分はどうなっているのだろう、と想像が膨らむ。髪を派手な色に染めてピアスを耳や口や舌にと、蜂の巣のように開けているかもしれない。シェアハウス暮らしをしているかもしれない。海外に留学しているかもしれない。留年の危機に直面しているかもしれない。と、このように挙げていけばキリがないように、未来というものは極めて不確定である。

 確実に言えるのは、一年後には(合法的に)酒を飲める齢になること。ついこの間まで高校生だったガキが、人生における一種の大台と言えるものに立つのだ。正直、自覚はない。その時は権利を全うし、自分の友人たちとくだらない過去の話を酒の肴にして笑い合いたい。そんな機会の訪れが待ち遠しいし、とても楽しみでもある。弱いか否かはさておき、嗜み程度に色んな酒を飲み比べして、一つくらいお気に入りを見つけておきたい。酒豪キャラにはなりたくない。理性が壊れたように飲んで、挙句には泥酔し平然と他人に迷惑を掛けるような人擬きの猿にも。

 先程の服の話のように、二十年程の生活の中で培ってきた脳内の語彙力を総動員しても未だあのような気持ちに取り囲まれることが多々ある。未熟故の壁に阻まれるという歯痒さ。生涯勉強という言葉もあるくらいだし、あらゆる無知を超えても物事を完全に表現できる時は来ないのだろう。だがこれからも歳を重ねていく過程で感性をより豊かに、より研磨にしていくことは決して惜しまない。


人が人で在る為に

 ”普通”が突如葬り去り、見えない恐怖に怯えて見えない力に籠居することを強いられ、手元や目先から悪意に塗れたような情報に頭をかき乱され、世界が自分だけで完結していたあのとき、人間が一人では生きていけないことを重々思い知った。自分が引き籠れない人であることを実感したし、他人から刺激を浴びることがどんなに楽しかったかと思うと、もっと他人と関わって生きていきたくなった。他人の顔が生で見れることは、決して当然のことではなかった。それ故に人と話し、共に笑い、共に泣き、争うことは営みに必要不可欠なのではないかと今は思う。

 出力される顔や音声の偽証が可能になった現代。そのせいか、テレビ電話やオンラインチャットにはどうも現実味が欠如したような印象を受けてしまう。煩わしい思考だが、ディスプレイの向こうに映る人は本当にその人なのか、と思わされる場面に遭遇することがある。そのうち技術の進化に伴って、SF作品に登場するようなホログラム映像で会話する時代が来るのだろうか。より人とネットとの境界が曖昧になっていき、最終的には二つが融合するかもしれない。Wi-Fiが無くとも自分の体をクラウド上のネットワークに接続し、取り入れたい情報を選択して眼球上に表示させる、なんてことも不可能ではない気がする。技術は着実と、僕らが思っている以上にそれらしいものに近づいているからだ。

 結論、その人がその人であると認識するためには、実際に五感を用いて、相手の顔を見て対面するしか術はないのではないかと思う。普段滅多にお目にかかれないような著名人に生で会って、「あの人ってホントに実在するんだ」と、感じるように。それ以上に現実感のある術があろうか。あったら是非ともご教授頂きたい。なお、「変装マスクを被り、頸部に変声機シールを貼っていたら分からないだろ」という某有名スパイ映画の設定を持ち出したようなツッコミは、一切受け付けない。キリがないからだ。この映画に準じて脱線するが、最新作が来年公開予定なので楽しみにしている。自分の人生よりも三倍近く歳を重ねた俳優が、決死の覚悟で”不可能”を実演する作品に出合えたことのなんと素晴らしいことか。人間の限界に挑むその演技が更新される度に、興奮と、驚異と、活力を貰っている。


色付く芝生か、透ける芝生か

 高校生までは周囲の人々と親しい関係を築くことが当然だというスタンスでいたが、最近になってその土台が崩れかけているのを悟った。”素性がよく分からない他人に話しかけるゲーム”に参加して、積極的にコミュニケーションを取り合える者達が”友人関係を築ける権利”を得るわけだが、そこで出会った人とお互いの胸の内を曝け出して心の底から笑い合うことがないような、上辺だけの関係で惰性のまま付き合っているような、いつも一緒に過ごしている人が苦境に陥った際に手を差し伸べることがないような、楽しさの微塵も感じられそうにない薄っぺらい人間関係には辟易させられる。

 とはいえこのまま薄い人間関係でいた方が良さそうな人もいるし、そうでない付き合いの方が適している人もいる。顔見知りが増えていくことは、決して不正解では無いと思う。しかし友人を増やしたいが為に過度に顔を広げては、次第に話さなくなっていく人を生んでしまうだろう。そんな半端な人付き合いをするよりも、奇跡だと言える出会いを果たせた友人を大事にしたいし、その為にも取捨選択は手抜き無くしておきたい。自らの幸せを描くべく、犠牲の代償として選ばざるを得ない状況に追い込まれても仕方がないと思うくらい、関係を整理するのに疲れたような気がする。

 自分と出会った人がそれまでに、どこで、何をして、何を感じ、生きてきたのか。誰もがきっと、他人の過去について質問したことがあるだろう。彼等が積んできた経験は伝わっても、それは殆ど自分の想像で占められてしまう。その時にその人が体感した記憶は、その場にいた人しか分からない。ここでもっと相手のことを知りたいと思うか否かによって、その先の関係性が分かれてくると思う。その人と共に時間を過ごしたいが為に相手を理解したいと思う気持ちが尽きることなく深くなっていけば、”無関心”を乗り越えたのち関係は親密になっていくと信じている。”今の時代では人間関係の軽薄化が進んでる”だのと言われようと、その山を越えない人はいない。

 また、今の自分が座っている席は自分以外の誰かのものになっていたかもしれないし、自分が知らない他人が座っている場所は自分のものになっていたかもしれない。残酷にも、誰かそこに座っていたかった人がやむを得ず席を離れ、代わりに自分がその空いた席に座っているかもしれない可能性もある。そして、いずれは自分がその席を離れてその席にまた別の他人が座るのも然り──これら一連の流れを繰り返すということ。見知らぬ人との椅子取りゲームだ。人生はその繰り返しを含んでいる”自分と感情や出来事を共有してくれる人を探す旅”なのかもしれない。その過程で当然ながら、出会いの数だけ別れも増えることだろう。

 だからその時までに、自分が彼等と如何に接するかという気持ちを肝に銘じておく必要があるのではないか。でなくては、他人と関わる意味は無に等しくなる気がする。そして別れの後も、また別の人と出会い、旅を続けていく。その反復は尽きないのだという現実に向き合うと、自然と今が愛おしく思えてはこないだろうか。分かり合えないはずの生き物が一つの環境で出会い、同じ時を過ごせるということに特別な意味を感じてはこないだろうか。そんなことを、この曲を聴きながら考えた。


終わりへの入口を覗き込んで

 先程営みに欠かせないと述べた”争い”、これが起こるのは仕方ないのかもしれない。認め合ったり受容し合うことには限度があり、互いに譲れぬ意思や相性の良し悪しもある、違う生き物なのだから。日常茶飯事的に、世界のどこかで起こっているものを完全に無くすことはほぼ不可能に近いと思う。寧ろ、バチバチに争い合った方が両者の関係がより良い方向に行くことだってあり、討論はその類だと思う。一概に、争いが悪だとは言えないだろう。相手と無駄な火花を散らさないためには可能な限り、互いに一方的な欲望を押し付けないような対話を望む。だがしかし何かしらの進展も見られないのなら、決裂を視野に入れた対峙も有効なのだろうか。

 消した方が良い火種が存在すると思う。上述の主張と矛盾しているように聞こえなくもないだろうが。現に2022年、「消した方が良い火種を消さなかった場合」の具体例として馴染み深い出来事になったのが、遥か遠方で起こった例の惨状だ。最近発表された今年の漢字も、それを象徴するようなものだったと思う。たった一人の身勝手な行いが内外に火の粉を降らせ、今この瞬間にも計り知れない憎悪を生んでしまっている。平然とそこにあった風景が簡単に破壊されて瓦礫の山と化していく様子は、先の歴史から何一つ変わっていない。初めて見る映像や写真は、何故か見慣れてしまっているものばかりだ。

 これを対岸の火事と見るか、自分事として見るか。前者になればこの問題とはそれまでだが、いざその火の粉が自分に飛んできたときに適切な判断が執れるのだろうか。後者になれば、枠にはまらない発想を駆使して万が一の有事に備えられるし、いざその有事が起こった時でも(余程のことでは無い限り)対処するのは苦にならないのではないか。もし人種という分類が存在しなかったら争いは起こらないかもしれないが、それでは没個性になる。逆に個性があり過ぎては纏めるのが困難になるという、それは現在彼方此方で叫ばれている多様性の欠点とも言えるもの。その中間点に丁度良く収まるということは簡単ではないから、せめて時によって左右に振れている状態が良いのかもしれない。つまり一貫した姿勢では器用に対処できそうにないので、臨機応変に動くことが一番なのではないかということだ。規模は違えど、通用するものであると信じている。

 この世に生まれたからには、いつかは死がやってくる。しかも、何かしらに殺められるのだ。どうせなら、老衰でもなんでも自然と逝くような楽な死に方がしたい。なんて思うのは、いつも自分が比較的穏やかに過ごせて生きているという心地良さ、そのありがたみを感じさせられたからだ。何気ない日常は、一瞬のうちに消える可能性を常に孕んでいる。適度な自由を謳歌できるのは今だけかもしれないから、この有限な時間を可能な限り有効なものにして過ごしていたい。こんなことが言えるのは僕がそこから遠方、それも自由や安全が保障されている地に居るが故という、紛れもない現実がある。


さよなら2022年

 さて、堅苦しい言葉遣いはここまでにしよう。今回はちょっと実験がてらに、ですます調を使わない文章に挑戦してみました。である調って言うらしい。なんか謎の説得力みたいなものを感じた。言葉に一貫性があるような、主張に強い芯が通ったような印象を自分でも感じました。今回はなかなか良い題が思いつかなかったので、あのような簡素な題になりました。”①”と付けたくらいなので、”②”もいずれ作ると思います。今回は結構ボリューミーなものになりましたから、読むのに疲れた方もいることでしょう。僕も八〇〇〇字近く書いてきて流石に疲れてきました。今回はこれで最後です。

 今年を振り返れば、まあ、色々とあったなあ、と。それに尽きてしまいますね。個人的には受験という大きな波を乗り越えて大学合格という目標を達成できたことや様々な別れ、そして新たな出会いを経験しました。世の中は自ずと考えさせられるような事件や情勢、人々を夢中にさせたスポーツの話題や著名人の訃報などに溢れていたし(←今年は特に多かった印象)、何とも一言で表し難かった。以前の投稿に「物騒な事件」なんて書いたことがありましたが、今思うとあれは表現者として失格でした。そんな一言で片付けて済まされるようなものじゃなかった、と後悔しています。

 自分で言うのもアレですが、中高生の時よりも感受性が高くなった気がしています。五感をフル活用するようになった、とも言えるかもしれない。なんか、以前は無関心のままに避けてきたことが今じゃ無関心なものとして扱えず、自分に無関係でも無視できそうにない、直視しなくてはならない事例が増えたような。それは大学生になったからなのか、単に興味の幅が広がったからなのか、それとも物事に触れる時間(余裕?)が増えたからなのか正確には把握できていませんが、謎の実感だけはあります。これは良い傾向なのではないかと思うので、継続して一つでも多くの思考を深掘りしていけたら尚良き。教養も見聞も、今から蓄積しておいて損はないだろうから。

 生まれて初めて、歴史を生きている気分で一年を過ごしていました。年がら年中、見えない壁に阻まれて円滑に物事が進展しないような重々しい空気が漂っていたし、それくらいに時代の閉塞感とやらを感じてました。新しい時代になってからというものの、特にそれといった明るい話題も希望の欠片も降ってこないからでしょうかね。特にコロナ禍の出口が見通せずにいるのは、何とも鬱陶しい。僕はなんとなく、根拠は無くとも希望の塵みたいなものを感じてはいるのです。来年にはそんな不穏な空気を打ち破ってくれるような、消し飛ばしてくれるような、良い意味で世界に変化をもたらしてくれるような、そんな出来事が訪れることを望んでいます。

 ここ最近の日中は風が冷たくも暖かい日差しが降り注ぎ、夜には街がイルミネーションに彩られていますね。昨日はクリスマスでした。宗教間の隔たりを軽々と飛び越え、お祭りを本気で楽しむ国民性が顕著だなあといつも感じさせられますし、海外の人々がこの文化を不思議がる理由ってここにあるように思います。宗教の自由が認められている日本ならではないでしょうか。他の国が模倣しても、その国の背景とかが根本に置かれてしまって同一性が見受けられない気がするから。カオスな文化を一つにしてしまう、自由って素晴らしい。

 今週で今年が終わる。残りの日で何をして過ごそう。ゲーム三昧か。ちゃんと読んでなかった漫画を読むか。ずっと観たいと思ってた作品全部借りてきて一日中潰すか。それとも気が済むまで遊ぶか。決めた。全部やろう。この一年頑張ったんだから、そのくらいやってもいいよね。やり切れてないことを思う存分やって、気持ち良く年を跨ごう。一旦今は冬休み明けのテストのことは忘れよう、うん(笑)。部屋の掃除はしとくか。


 では、この言葉をもちまして私の年内最後の挨拶に代えさせて頂きます。


 皆様、良いお年をお迎え下さい。
 また来年、ここでお会いしましょう。

 では。