アンチワーク哲学 入門講座
※これはアンチワーク哲学の入門記事である。アンチワーク哲学という名称こそ新しい物を使っているが、普段から僕が書いていることとほとんど同じなので、僕をフォローしてくれている人にとっては、目新しいことは何も書かれていないと思われるので、ご注意を。
※入門講座なので、必要最低限の情報に絞って書いているが、より詳しい情報を知りたい方向けに、随所にリンクを貼ってある。が、必ずしも読む必要はない。
■はじめに
ただ単に労働しないのではない。ただ単に怠惰なのではない。
労働とは罪であり、悪であると証明すること。そして、労働しないことを全面的に肯定し、実践すること。
その営みこそがアンチワーク哲学である。
これは世に存在するアンチワーク系の思想とは、明確に一線を画する。
なぜなら、労働しないことを全面的に肯定する思想や哲学はほとんど存在しないからだ。
寝そべり族、だめライフ愛好会、アンチワーク、アナキズム、コミュニズム、その他アンチ資本主義系思想など、世の中のアンチワーク系の思想や哲学は、極めて中途半端な仕事をしてきたと言わざるを得ない。
彼らは資本家を攻撃し、資本主義を攻撃し、金のために働くことから逃れようとする。しかし、どこかで認めているのである。「多かれ少なかれ、労働は必要である」「社会の何割かの人は必ず労働しなけらばならない」と。
つまり、彼らの主張は「8時間労働を4時間労働にしよう」とか「週休2日を週休4日にしよう」とかそのようなワークライフバランス主義なのだ。
あるいは「消費主義から逃れて山奥で、自分たちの必要な分だけ労働する自給自足をやるぞ!」といった清貧思想を唱える人もいる。
はたまた「AIやロボットで自動化して、労働なき世界を実現しよう!」といった安易なテクノロジー楽観論にすがりつくパターンも見受けられる。
もしくはFIREを目指すFIRE主義、とりあえずダラダラと過ごすことを推奨する怠惰系思想も存在する。
「アンチワーク哲学」という字面をみたとき、人はこれらのうちのどれかに分類しようと試みるだろう。しかし、アンチワーク哲学は、ワークライフバランス主義とも、清貧思想とも、テクノロジー楽観論とも、FIRE主義とも、怠惰系思想とも、根本的に異なる。むしろ、これらの思想は、資本主義や労働至上主義といった現在のメインストリームの思想を逆説的に強化していると考える。
これらの思想は、人々が無批判で受け入れている常識を前提としている。例えば、労働を全くゼロにすることは不可能であることや、生きるために労働が必要であること。また、労働とは畑を耕すような作業を指すという漠然とした定義。そして人間が何を欲望するのかについての一般論、などである。
アンチワーク哲学は、多くの人が疑ったことすらないこれらの常識が誤りであることを論証する。そして、そこから「労働なき世界」が可能であるという結論を導き出す。
「労働なき世界」とは、世界の誰1人として、1秒たりとも労働しない世界である。80億総無職。週休7日。完全失業率100%。GDPは0ドルである。
そこでは他者からの命令によって働くことはなく、誰もが自由に生きている。農業や畜産、工場生産やトラックの運転を楽しむ人もいれば、ゲームや漫画、バスケットボールやロックフェス、を楽しむ人もいる。1日中昼寝する人もいれば、あくせくと動き回る人もいる。金という存在は端的に消え去っているか、骨董品のような扱いを受けている。それでいて衣食住の必然性は当然の如く満たされている。そんな世界である。
繰り返すが、これはAIの進歩を盲信するテクノロジー楽観論ではない。AIが労働を代替することはあり得ず、むしろ労働を増やすことにしか役立たない。
また、縄文時代の暮らしに立ち帰るべきだと騒ぎ立てる清貧思想でもない。「労働なき世界」ではゲームや漫画といった娯楽もそこら中に溢れかえっている。
さて、そろそろ僕のことを論理的思考力が欠如している夢みがちな狂人であると結論づけて、このページを見なかったことにしたいという衝動に駆られる人が出てくる頃合いだろう。
僕は、そういう人にも理解してもらいたいという一心でこの文章を書いている。つまりここでブラウザバックされることは僕の本意ではない。
そろそろ本題に入ろう。そして可能な限り手短に済まそう。まずはアンチワーク哲学の前提であり根幹となる部分、すなわち「労働の定義」から。
■労働とはなにか?
少し長くなるが、拙著『働かない勇気』での哲人と青年の対話が、アンチワーク哲学における労働の定義をわかりやすくまとめているので引用しよう。
哲人が取り上げた農業と家庭菜園の違いは、アンチワーク哲学にとっては極めて重要である。
僕たちが普段使用している「労働」という言葉のイメージには1つの矛盾が存在する。あたかも僕たちは農作業やトイレ掃除、書類作成といった作業そのものの性質が、労働を労働たらしめているかのように考えている。そして作業そのものの性質によって、それが苦行であるか、娯楽であるかが決定されるかのように思い込んでいる。
もちろん、農業と家庭菜園の違いについて指摘すれば、人々は青年と同じように、すぐさまそうではないことに思い至ることになる。
しかし、日常的な実践のレベルでは、おそらく彼らは作業そのものを嫌悪していると感じている。カフェ店員が「働きたくない」という愚痴をXにこぼしたとして、それはコーヒーを淹れたくないとか、テーブルを拭きたくないという意味であると人々は受け取るだろう。
その反面、「もうコーヒーなんて淹れたくない」とか「テーブルを拭くのはもう嫌だ」などという愚痴を見かけることは稀である。仕事の愚痴というと大抵「あの上司がくそ」や「あの客が腹たつ」といったように支配との関係でしか生じない。
故に、アンチワーク哲学は、その作業が嫌悪すべき労働なのか、そうではないのかを決定する要因は、他者から強制されていると本人が感じているかどうかだと考える。
もちろん、異論は承知している。おそらくあなたが抱いた異論は以下のようなものだろう。
もちろん僕は「どんな仕事でもやりがいはあるのだから楽しんで取り組むべき」といった根性論を唱えたいわけではない。
実際にブラック経営者のやりがい搾取を耐え抜き、サービス残業にやりがいを見出すようになった人は幾らか存在するだろう。アンチワーク哲学の定義では、彼が行っているのは労働ではない。そこに至るまでのプロセスが苦行だったとしても、本人が満足しているのであれば、問題はないとアンチワーク哲学は考える(ただし、そのプロセスに問題はある。プロセスが強制されているなら、それは労働だからだ)。
ひとまず、アンチワーク哲学はこのように労働を定義すると理解してほしい。その上で、アンチワーク哲学が何を目指しているのか、順を追って説明していこう。
■アンチワーク哲学が目指す世界
労働が他者から強制される不愉快な営みだと定義するのならば、「労働なき世界」とは「誰もが自発的にやりたいことをやる世界」となる。
「成立するはずがない」「そんなことは不可能なのだから考えるだけ無駄」という考えを度外視すれば、このような世界は理想的であることに誰もが同意するだろう(成立するかどうかは後述する)。
アンチワーク哲学は徹底的に主観と主体的意思決定を重視する。
この仕事はエッセンシャルワークだから必要で、この仕事はブルシット・ジョブだから必要ない、などという理由で、オフィスワークを辞めて畑仕事を始めるように命令することはない。
アンチワーク哲学は誰も読まない資料づくりであろうが、やっている本人が自発的な意思に基づいて、楽しくやっているのであればそれでいいと考える。
ここで自発的な意思という言葉にも注意が必要だろう。僕たちの社会では誰もが自発的な意思のもと雇用主と契約を交わして労働しているということになっている。明らかにそうではないケースの方が多いことは誰もが知っている。
「今日は3時間だけ働きたい気分だなぁ」と考えてその通りに実行したなら、即座に彼はクビになる。「この仕事は気分が乗らないからやりたくない」なんてことを言っている人も同様だ。
僕たちは金がなければ生きられないという焦燥感から仕事をし、雇用主や上司、クライアントの命令に屈服する。明らかにやる意味がない仕事であろうが拒否することはできない。そして、やることが残っていようが残っていまいが、決められた時間まで職場に縛り付けられることを強制される。それは多くの場合で不愉快であることは誰もが知っている。
もちろんスキルを磨いてフレックスタイム制の仕事に転職することはできる。不愉快さを乗り越えてやりがいを見つけることもできる。繰り返すが、それで仕事が楽しくなって続けたいと思えるのなら、それは労働ではない。
しかし多くの人はそうはならない。逃げたくても逃げられないという状況から仕方なく妥協し、なんとか労働を受け入れているのが実情だろう。
彼らを労働から解放することがアンチワーク哲学の目的だ。さて、ここで最重要の疑問点を避けて通ることはできまい。すなわち「そんな世界は可能なのか?」である。
■そもそも労働をする必要はない
「労働から人々が解放されたなら、彼らは日がな一日ポケモンGOをプレイしたり、TikTokを眺めたりして、社会に必要な生産を誰も行わなくなるだろう」というのが、真っ先に思い浮かぶ反論である。
この点に関しては2つの角度から否定することができる。
まず1点、この社会における労働が、ますます無意味なものになっているという点だ。
軍拡競争のような営業合戦。誰にも使われることなく捨てられた商品。詐欺のような保険商品や投資商品。無駄な会議や資料作り。権力者を満足させるためだけの接待と癒着。
エッセンシャルワーカーの賃金は安く、常に人手不足。そして、何もせず土手っ腹を肥やすだけの禿げ上がったおっさんが大金を手にする。若者は土手っ腹の禿げ上がったおっさんを目指して、大手起業に就職しようとする。
その無意味な椅子取りゲームを教育産業が煽り立て、人材業界が煽り立て、意識高い系ビジネスが煽り立てる。教育産業は成長し、人材業界も成長し、広告・コンサル・マーケティング業界も成長し、意識高い系ビジネスも成長する。しかし全体の経済成長は止まっている。これは一体何を意味するのだろうか?
先ほどあげたビジネスはいずれも、「金儲け」を約束するビジネスだ。誰かが金儲けをすることは、全体のパイを増やして、社会全体を豊かにすることを意味していると漠然と想定されている(トリクルダウン理論をはじめ、金持ちが金持ちになり格差が拡大することは、全体が豊かになるという前提のもと正当化されてきた)。
ところが、経済成長が止まっているということは、これらの成長しているビジネスは、武器商人のようなもの、ということになる。椅子取りゲームを煽り立てて、人々を無意味な競争に晒し、全く全体のパイを増やしていないわけだ。
仮に、みんなが拳銃を突きつけあって強盗し合う世界なら、個人が拳銃を手にすることは理にかなっている。誰かが大砲を持ったなら、他の個人も大砲を持つことは理にかなっている。そして戦車、戦闘機、ミサイル、核兵器…とスケールアップしていくことになるだろう。その中で一人だけ核兵器を保有しないとすれば、すなわち学歴や広告やマーケティングに投資しないとすれば、一人だけ損をすることになる。
しかし、全体として見たときに、全ての個人が核兵器を所有する社会は、どう考えても馬鹿馬鹿しい。ならば同じように、椅子取りゲームを煽り立ててひたすらに学歴や広告投資、マーケティング合戦をスケールアップさせていく社会も、どう考えても馬鹿馬鹿しい。
しかし実際はそのような社会に僕たちは突入している。グレーバー『ブルシット・ジョブ』によれば、先進国の37%から40%は、自らの仕事が無意味なブルシット・ジョブであるという調査結果が得られたという。
ブルシット・ジョブが行われるオフィスビルを建てる仕事、ブルシット・ジョブに振り回されて過剰生産に陥った一次産業や二次産業を含めれば、50%以上は無意味な仕事だと考えてもさほど的外れでもあるまい。
繰り返すが、無意味な仕事だろうがなんだろうが、本人が楽しいならそれでいい。だが、楽しくないならやめればいい。ここで言いたいのは、みんながやめても実はそこまで困らないということだ。
■金儲けや競争はイノベーションを起こさない
「不毛な種類の競争があるとはいえ、競争にもメリットはある」と人は言うだろう。イノベーションを起こして社会を豊かにしてきたのは、「金儲けしたい」という欲望に突き動かされた競争であったというのが、その主張の骨子だ。
一理なくもないが、正しいとは考えずらい。まず、「イノベーション」と聞いて思い浮かべるインターネットやコンピューターに関連するテクノロジーの数々は、ほとんどが税金によって育てられた軍事技術の転用である。
戦争のために作られたテクノロジーは、当然のことながら赤字前提で作られている。コンピューターの発明に関わった人々は別に億万長者になっていない。彼らの発明を我が物顔で独占した人々が億万長者になっている。チューリングやノイマン、あるいはアインシュタインやニュートンが億万長者になったと言う話を聞いたことがあるだろうか。
イノベーションとは才能と知的好奇心に溢れた個人が、金儲けを度外視できるように、生活保障と研究リソースを与えられたときに生じると考えて方が理にかなっている。
■人は怠惰なのではない
「ならほど、世界の50%の労働が必要ないとしても、残りの50%は必要なのだから、やはりこれらの労働は必要なのではないか?」という疑問に答えるのが、もう1つの論点である。
この疑問は、人が怠惰であることを前提としていることに注目すべきだろう。すなわち、皆を自由に放っておくならば、誰も有益な作業を行うことはないだろう、というわけだ。
確かに人は労働を嫌悪する。だが、人が労働を嫌悪する理由は、人が怠惰だからではないとアンチワーク哲学は考える。
人が労働を嫌悪するのは、強制され、命令され、逃れられないからである。人は強制されればされるほど、その行為を嫌悪する。
例えば、「塩を取ってほしい」と誰かに頼まれたとき、普通の人ならば特に気にすることなく取るだろう。だが、「おい、塩を取れ」と言われたなら、取らないかもしれないし、取るかもしれないが嫌な顔くらいするだろう。
嫌がる様子を見て命令した側が「お前は怠惰な人間だ」とか「人は塩を取ることを嫌悪する生物だ」などと結論づけたなら、これほど的外れなことはない。しかし、「人間は怠惰である」と結論づけている人は、これと同じことをしている。
ワークライフバランス主義や怠惰系思想が見誤っているのはこの点である。彼らは次のように前提している。
この発想は誤りとまでは言わないものの、人が労働を嫌悪する理由を見誤っているのだ。カフェ店員の話からも明らかなように、人はコーヒーを淹れる作業そのものを嫌悪しているのではなく、他者からの強制を嫌悪している。ならば、強制の構造を無くしてしまえば、カフェ店員はコーヒーを淹れることを純粋に欲望することができるとアンチワーク哲学は考える。
■人は他者への貢献を欲望する
塩をとってほしい人が同じ食卓についていて、彼から命令されるのでなければ、塩をとってあげたい気持ちになるのが一般的な感覚だろう。むしろ、「塩をとってほしい」と言われて「嫌だ」と断る方が苦痛に感じるに違いない。
塩をとるといった些細なレベルだけでもない。たとえば文化祭の出し物の準備をしているときに、周りのみんなは一生懸命に準備をしているのに、自分ひとりだけ何もせずにボケっと突っ立っていることは苦痛以外の何物でもない。そそくさと帰って家でYouTubeを観ることに成功したとしても、その気持ちはチラリとも休まらないだろう。彼は明らかに「自分もクラスに貢献したい」という欲望を持っている。
僕の親戚たちは、僕の息子に対してあれこれと食べ物を提供し、世話を焼こうとする。何かと口実を見つけては一緒に飯を食おうとし、プレゼントを贈ろうとする。親戚に限った話ではない。そこら辺の名前も知らないおばあちゃんが急にお菓子をくれたりする。
彼らも明らかに貢献することを欲望している。しかし、年寄りが孤独に暮らしていると、貢献する相手がほとんどいないケースの方が多い。夫に食べ物を出しても碌に食欲はないのだ。だから、「子ども」という貢献を許された相手に対して、際限のない貢献を行う。
年寄りだけではなく子どもも同様だ。僕の息子は、ご飯を食べることは嫌がるくせして、料理を手伝いたがる。トイレに行くのも嫌がるくせして、掃除を手伝いたがる。もちろん、彼の能力は低く、戦力として数えることはできない。しかし、彼が貢献することや、少なくとも人への貢献と見做される行為を欲望していることは疑いようのない事実だ。
明らかに人は貢献を欲望している。アンチワーク哲学ではこれを貢献欲と呼ぶ。しかし、「貢献」に対して「欲望」という言葉を使用すると違和感がある。そんなものを欲望するはずがない、と誰もが感じているのだ。
「それは自分の評判を高めるためであって、貢献を欲望しているわけではない。貢献欲など存在しない」という批判が真っ先に思いつくだろう。しかしこれは少し考えるだけで的外れであることがわかる。「それは子孫繁栄のためにやっているだけであって、セックスを欲望しているわけではない。性欲など存在しない」などと言う人は誰もいないのだから。
実際に彼がセックスを求める行為を行っていたなら、人は直ちに彼は性欲に突き動かされていると判断する。しかし、彼が貢献をしていても、彼が貢献欲に突き動かされているとはみなされず、その裏側に真の動機なるものが存在すると勘繰るのだ。
なぜ、このような事態が起こっているのだろうか?
■金が、貢献への欲望を見えなくしている
先ほど、(たとえば塩をとってあげることのような)人が欲望する行為であっても、それを強制されれば欲望が喪失されることを指摘した。そして金とは、一種の強制のツールであることも確認した。
金とは他者を半強制的に行為させる権力である。店で何かものを買うやサービスを受けるとき、あるいは誰かを金で雇用するとき、多くの場合それを拒否することはできない。
金の対価として何らかの行為を行う場合、その行為を嫌悪する可能性が高まる。もちろん、100%嫌悪するとは限らない。彼が十分に経済的に豊かであり、依頼を拒否するも引き受けるも自由である場合は、その行為を嫌悪する可能性は低いだろう。しかし、家賃を何ヶ月も滞納して仕事を選ぶことができないような人は、仕事を嫌悪する可能性が高い。あるいは住宅ローンに縛り付けられて転職するにもできないような人も同様だ。
さて、金を渡されてトイレ掃除を命令される人は、その労働を嫌悪していく。その結果、人は一般的にトイレ掃除という営みを欲望することなどあり得ないという発想が社会に広まった。同様に、料理すること、年寄りのおむつを替えること、芝生を手入れすることなどといった、金を受け取って行うような行為に対しては欲望という言葉を使用しなくなった。
逆に、欲望という言葉は、金を払って他者を動員することで享受するような行為にだけ使用されるようになった。飯を食うこと。暖かい布団で寝ること。ゲームをプレイすること。服や鞄を買うこと。レジャーランドに行くことなどである。
しかし本来は、人の欲望は多様である。飯を食いたいという欲望と同じかそれ以上に、誰かに飯を食わせたいという欲望を抱くのが人間である。
もちろん、人は他者に貢献したいと望むのと同じように、他者を貢献させることも欲望する。しかし、他者を自分の思い通りに貢献させるのは簡単ではない。銃口を突きつければ貢献してくれることになるが、銃口を突きつけ続けるのは骨が折れる。だから命令のツールとして金が登場した。
そして金により人は怠惰であるということになった。人が怠惰であれば、命令する側にとっては都合がいい。なぜなら、彼が命令を行う正当性が生じるからだ。「お前たちは怠惰なのだから、命令されなければならない」というわけだ。
しかし、もし人は怠惰ではなく、自発的に貢献を行うのだとすれば、命令を行う上司も、金の存在も、つまり労働も必要なくなる。アンチワーク哲学の行う労働批判が革新的なのはこの点だろう。
逆に、この意味で、人を暗黙のうちに怠惰だとみなすアンチワーク系思想は、現体制へ本質的な批判ができていない。
■大切なのは主体的な選択
おさらいしよう。人はトイレ掃除そのものを嫌悪するのではなく、トイレ掃除を誰かから強制されることを嫌悪する。ここで重要なのは、彼が主体的に選択しているかどうか、だろう。
注意しておきたいのは、完全な自由意志などは存在しないという点だ。「塩をとってくれ」と言われて塩をとった人物は、そう言われなければ塩を取らなかっただろうという意味で、100%自由な意志によって塩をとったわけではない。しかし、明らかに彼は自発的に塩をとったという感覚を抱いている。
あるいはお腹を空かせた子どもにお菓子を上げる老人も同様だ。子どもが物欲しげにこちらをみていたという状況があったとしても、老人は自発的な意志でお菓子を与えたと感じることだろう。
つまり、「自分は主体的に選択した」という実感さえあればいい。彼は自分で選択したと思い込んでいるが、実際は選ばされているのではないか?などと邪推する必要はないのである。
言い換えれば、金で雇われていようがなんだろうが、彼に対して「あなたは強制されているのですよ?」などと嘯く必要はない。彼が「俺は俺がやりたいからこの仕事をやっているのだ」と感じているなら、彼は欲望が満たされているということになる。
アンチワーク哲学が目指しているのは、誰もが主体的な選択を行う世界である。誰もが主体的に選択を行っているのなら、彼は欲望が満たされ、幸福になれると考える。
■必要だと思うなら、誰かがやるはず
歯磨きが好きな人は滅多にいない。それは確実に退屈な作業だろう。
しかし、歯磨きを労働だと考える人もいない。めんどくさがりながらも人は歯磨きをすることを選択し、特段そのことに不満を抱くことはない。
なぜなら、必要だと感じているからだ。
必要だと感じていたならば、その作業が多少退屈だろうが人はやる。逆に歯磨きしない方が気持ち悪くなる。
真に人々が自由に選択できる社会なら、このような事態が社会全体で起きると考えられる。先ほど指摘した通り、他者への貢献は人々がイメージするほどの苦行ではないとは言え、それでも退屈な作業は存在するだろう。しかし、必要だと感じたなら誰かがやるのである。今のように労働に忙殺されていないなら尚更だろう。
■ベーシック・インカムが自由な社会が実現する
では、どうすれば自由な社会を実現できるのか? アンチワーク哲学の解答はベーシック・インカムである。
ベーシック・インカムの骨子は自由の解放である。ここでいう自由とは、命令に従わない自由や、嫌気がさしたら逃げ出す自由を意味する。どこで何をしていようと生活が保障されているのなら、不愉快な職場からはすぐに逃げられるし、学校や家庭からも同様だろう。
そうして人は主体的な意思決定により仕事を選ぶ。あるいは全く仕事をしないことを選ぶ。人が他者への貢献を欲望することは先述した通りだ。生活の必然性に脅されていないのであれば、理論上あらゆる行為が自発的な行為となる。銃口突きつけない限り、誰もあなたに命令できないのだから。
イノベーションはいま以上に加速するだろう。
必要な仕事は誰かが必ず成し遂げるだろう。
■金は必要なくなる
金とは命令のツールとしてだけではなく、他者の貢献を測定するツールとして機能している。では、そもそもなぜ測定する必要があるのか?
単純である。人は怠惰であると想定しているからだ。
「これだけ貢献したのだから、これだけよこせ」という発想は、自分も相手も怠惰であり、貢献を嫌がるものだと想定するから生まれる。しかし、皆がそこら中で好き放題に貢献しているのだとすれば、わざわざ測定する必要はない。
金の測定には、膨大な労力が注ぎ込まれている。銀行、経理、税金、レジ、キャッシュレス決済、ポイント、現金輸送、金庫などなど。これらがなくなるなら、なくなるに越したことはないのである。
ベーシック・インカムによって、金のために行動する人が減っていけば、人が自発的に貢献するという事実が白日の元に晒される。そのとき金の存在に疑問を抱かずにいることは難しいだろう。
アンチワーク哲学は、最終的には金の廃絶を目指す。その方が合理的で、効率的だからだ。先述の通り、金は人のモチベーションを損なう効果がある。その上、管理に膨大なコストがかかっている。人の社会を組織化する上で、とんでもなく非効率なツールなのだ。
■規模の経済をどうやって実現するか?
金のない社会で最も苦労するのは規模の経済を実現することだろう。なるほど100人やそこらなら自発的に連携することはできるかもしれない。だが、現代のグローバルサプライチェーンに携わる人間は膨大であり、アメリカ人とベトナム人と台湾人と日本人が連携していたりする。またコツコツと単純作業をする東南アジア人を大量に動員しなければ規模の経済は成し遂げられない。これを、金というツールなくして実現できるだろうか?
こればかりはなんとも言えない。だが、7万人が金なしの経済を実現するバーニングマンなるイベント、グローバル企業からトップダウンマネジメントを排除したティール組織、国家なしで運営された石器時代の都市の数々、アナキストたちの社会、クラウドファンディングなど、様々な参考例はある。
恐らく、画一的なやり方ではうまくいかないだろう。それぞれの組織が、それぞれ最適な方法を見つけ出すほかない。
とはいえ、いきなり金がなくなるわけでもあるまい。ベーシック・インカム後しばらくは金を頼って人を組織化していけばいいし、最終的に残ったっていい。ベーシック・インカムがあれば金の「強制」という側面は弱体化する。そうなっているのなら、大した問題はないだろう。
■人が自由を恐れることはない
さて、自由な社会などという理想を掲げると、「自由を与えられても困惑する人が大半であり、自由を求めない人もいる」などという批判が出てくることも想定される。自分の頭で考えられる自立した個人などというのはほとんど存在しない、というわけだろう。
確かに一見すると自由を恐れているように見える人は多い。だがよくよく考えてみれば、彼が本当に恐れているのは自由ではなく評価なのだ。
企業説明会の場で、服装自由と言われて短パンとサンダルで出かける人はいない。無難にスーツをきてくる人がほとんどだ。一見すると彼らは自由を恐れているように見える。しかしそれは、そこにいる面接官に好印象を与えなければ就職の見込みがないことから、面接官の好む服装を邪推し、結果的にスーツが無難であるという結論に至っただけに過ぎない。採用か不採用を決定するということは、ある意味で生殺与奪を握られていると言える。
生殺与奪を握る相手に評価されるとき、人はどう振る舞えばいいのかわからず狼狽える。間違っても自由に振る舞うことなど論外であると考える。だから自由を恐れているように見える。
しかし、ベーシック・インカム後の世界においては、誰一人として生殺与奪を握られることはない。誰にどう評価されようが路頭に迷うことはないからである。つまり、人々は自由を謳歌することができるはずだ。
自由や主体的な決定は、強い意志と優れた人格を備えたエリートの特権などではない。人は生まれたときから自由であり、主体的な決定を繰り返して生きている。しかし、単にそれを抑圧するシステムが存在しているだけである。
それに、本当に自由や主体的な決定ができない人は、誰かの命令下で働けばいい。そうする自由すら、ベーシック・インカム下の社会では与えられる。ただし、いつでも抜け出すことができるという点で、今の社会とは根本的に異なっている。
■あらゆる価値観が転倒されていく
支配の構造が消え去れば、「欲望をセーブして労働し、欲望の解放として余暇を楽しむ」という構造が崩れ去り、すべての行為が欲望のままに行われ、すべての行為が余暇となる。
このとき、「生きるため」「食っていくため」という僕たちを究極的に縛り付けている前提条件も更新を迫られるだろう。
また、家族や学校の概念も更新されるだろう。
■まとめ
駆け足になってしまったが、これでアンチワーク哲学の概要は掴めたと思う。細かい論点は抜け落ちているので、これを読んでくれている人はおそらく疑問点や反論をいくつか思いついたことだろう。そういう方は是非コメントいただきたい。アンチワーク哲学はまだまだ発展途上だ。議論を経て磨き上げる必要がある。
アンチワーク哲学は人間の欲望を解放することで労働の撲滅を目指す。誰もが自由で主体的に生きられる社会が理想的だということに反論する人はいないだろう。「不可能である」という反論を除けば。
だが、僕は可能である根拠をここに書いてきた。不可能であるとする僕たちの思い込み(人間は怠惰である、といった類の)は社会的に作られたフィクションであると指摘した。
これは社会全体を揺るがす思考革命である。この社会の基盤にある、ありとあらゆるフィクションを攻撃し、覆そうとしているのだから。過激思想と呼んでも差し支えないだろう。
難しいことは何も言っていない。ただ、あまりにも常識とかけ離れているが故に、難解な印象があることは否めない。
ただ、これからの社会に間違いなく必要な哲学であると確信している。労働が引き起こす問題を、僕たちはもはや無視することはできない。
労働を撲滅しよう。それは未来の子どもたちのためであり、僕たちのためでもある。
※さらに理解を深めたい方は以下の電子書籍も参考にしてほしい。対話形式に仕上げているので、比較的読みやすいと思う。
※この記事にいただいた質問に対する回答はこちら。