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世間一般のアンチワーク系思想と、アンチワーク哲学はどう違うのか?

■はじめに

突拍子もなく労働哲学者からアンチワーク哲学者に肩書を変えた。その理由を簡単に言えば「今よりもわかりやすい肩書をつけたかった」というだけの話である。

そして、確かに前よりわかりやすくなった。一目見れば「あー、とにかくこの人は労働に反対してるんだなぁ」ということはわかるようになった。とは言え、僕の言っていることは一言で言い表わせるようなものではないことも事実。

にもかかわらず人はある単語を見ればそれを「一言で言い表している」と思い込みたい生き物である。つまり「アンチワーク哲学」という字面だけをみて「あーはいはい、そっち系ね」と訳知り顔でスルーされる可能性が高い。

実際アンチワーク系の思想は世に溢れかえっていて、「そっち系」とはそのうちのどれかを指しているのだろう。アメリカではそのまんまの言葉で「アンチワーク」というムーブメントがあるらしいし、中国には「寝そべり族」、最近の大学生の間で流行っている「だめライフ」などだ。他にも色々と種類はある。

それでもなお、僕がわざわざアンチワーク哲学なるものを主張し始めるということは、僕が他の思想は不十分だと感じているからである。そして、自分で言うのもなんだが、僕はそれらの思想が全く到達し得なかった新たな視点から主張を展開していると自負している。

つまり「あーはいはい、そっち系ね」という印象を抱いた人は十中八九、勘違いしているということだ。

それがどう違うのか、という話は別の記事でまとめるとして、まずは世のアンチワーク系思想を大まかに大別したい。そして、アンチワーク哲学はそのどれとも異なることをお伝えしておきたい。


■世間一般のアンチワーク思想の雑な分類

1.ワークライフバランス主義

残業は多いよりも少ない方がいいし、週休2日よりも週休3日の方がいいし、実働8時間よりも6時間の方がいい。こういう発想を僕はワークライフバランス主義と呼ぶ。最も一般的な思想であり、おそらく多くの人が受け入れている思想だろう。

ではどうやって労働時間を短縮するのかと言えば、AIやロボットの活用、リモートワーク、無駄な会議といったブルシットジョブの削減といった処方箋があげられるケースが多い。つまり「もっと効率化を!」という思想だ。

ワークライフバランス主義者の中でも過激派は「とりあえず休め!あとはなんとかなる!」というタイプの主張を繰り広げる人もいる。つまり、効率化の見込みがなくても強引に週休3日にしてしまえば、あとは勝手に週休3日で収まるように仕事が調整されていくというわけだ。

アンチワーク哲学は労働時間を短縮することは良いことであると認める。しかし、ワークライフバランス主義とは根本的なレベルで異なっている。

端的に言えばアンチワーク哲学は週休7日、実働0時間にすべきであると考えている。ワークライフバランス主義者は、週休3日や4日を主張することはあっても週休7日を主張することはない。不可能だと考えているからだ。それがなぜ可能なのかについて説明したいところだが、長くなるので次に行こう。


2.清貧思想

テクノロジーが進歩しているのにもかかわらず労働時間が削減されていないのは、僕たちが最新のiPhoneや少年ジャンプやマクドナルドを手放さないからであり、それらを手放して質素倹約を徹底することで労働時間を削るべきである。こういった思想を僕は清貧思想と呼ぶ。

アンチワーク哲学は「労働なき世界」の実現を目指すが、この言葉は清貧思想に結び付けられるケースが多い。が、アンチワーク哲学は清貧思想とは似ても似つかない。

清貧思想は人間の欲望が過剰労働の原因であると考え、欲望を制限することで労働時間を減らそうとする。アンチワーク哲学は欲望が抑えられていることが過剰労働の原因であると考え、欲望を解放することで労働時間を削減しようとする。つまり真逆である。

意味不明だと感じる人も多いだろうが、詳しい説明は別記事に譲るとして、次へ行こう。


3.テクノロジー楽観論

もしかすると先ほど僕が「週休7日を目指す」と書いたのを見て「AIやロボットが進歩することで労働の必要がなくなる」という楽観論を唱えているのだという印象を抱いた人もいるだろう。こういう考えを僕はテクノロジー楽観論と呼ぶ(1と組み合わされるケースが多い思想でもある)。

アンチワーク哲学はテクノロジー楽観論とも異なる。僕はAIやロボットは労働を代替するよりも、労働を増やす結果にしかならないと考えているからだ。もちろん詳しい説明は割愛し、次に行く。


4.FIRE主義

AIやロボットで代替するのでもなく、清貧思想でもなく、週休7日を実現するならFIREを実践するしかない、と思われるかもしれない。労働から逃れるためにFIREを目指す思想を僕はFIRE主義と呼ぶ(FIREの実践者は比較的ミニマリストの傾向があるので清貧思想との親和性も高いと思われる)。

もちろんこれもアンチワーク哲学とは似て非なるものである。そもそもアンチワーク哲学は資本主義や貨幣経済そのものを否定するので、FIREを成り立たせる株式や投資といった概念を否定する。

それ以上に決定的に異なる点がある。FIREが成立するためにはFIREを実践していない人が労働している必要がある。つまり全員がFIREを達成することはできない。FIRE主義とは言い換えれば「俺さえ良ければいい」という思想なのだ。

しかしアンチワーク哲学は、地球上の80億人全員が労働時間ゼロの状態を目指す。

もちろん疑問は無視して、次へ行く。


5.怠惰系思想

資本家の思惑通りになることを嫌い、ニートになったり、だめライフを過ごしたり、ストライキをやったり、寝そべったりする。とんでもなく雑にまとめると「とりあえずダラダラしとけ」という思想を僕は怠惰系思想と呼ぶ。

怠惰系思想は多くの場合、現在の労働のあり方が非効率であることや無意味に苦しいものになっていることを指摘する。あるいは企業が必要もない商品を買わせようと躍起になっていることに対する抵抗も行う。つまり、ワークライフバランス主義や清貧思想とも部分的に重なっている。それらと異なる点は「とりあえずダラダラしとけ」というアプローチ方法だろう。

労働を行うことなく、ゲームをしたり、漫画を読んだり、人によっては日曜大工や農業なんかもしたりして、好きなことだけやろう。実家暮らしならニートをやればいいし、いざとなれば生活保護もある、というわけだ。

怠惰系思想は比較的アンチワーク哲学とは親和性は高いものの、根本的な価値観は異なる。怠惰系思想はニートの生活はニートではない人々の労働によって成立すると考える。一方で、アンチワーク哲学は80億総ニートが可能であると考える。

また、怠惰系思想は「人はそもそも怠惰であること」を前提としているように思われるが、アンチワーク哲学は「人は怠惰ではない」と考える。


6.アナキズム

だめライフや寝そべり族の中でも比較的アグレッシブな人々はアナキズム的なアプローチも好む。つまり、自分たちで自分たちを組織化して、BBQをしたり、家を建てたりすることで、「俺たちは支配される必要はないんだ!」ということを証明しようとする。この手のアプローチはアナキズムと呼ぶべきだろう。

実を言うと、アンチワーク哲学は実践レベルではほとんどアナキズムと一致する。

しかしその前提となる理論は、アナキズムとは異なる。アナキズムが「いやいや、市場やトップダウンマネジメント、官僚制は必要だろう?」という批判に対してしどろもどろになりがちなのに対し、アンチワーク哲学はスムーズな説明を提供する。そして、実践と理論をなめらかに接続することができる。


※パッと思いつく限りで6つ挙げたが、「ほかにもあるよー!」という人は教えてほしい。


■アンチワーク哲学とはなにか?

ここまで、あれとも違う、これとも違うと説明してきたが、アンチワーク哲学は、サーカスの輪を潜り抜けてせせこましい領地を陣取る逆張り思想ではない。

労働したくない一心で、弱者男性がこねくり上げた屁理屈でもない。

アンチワーク哲学は、明らかに観察される人間についての現実を取り上げる。その後、明らかに社会に通底している価値観や社会システムを分析する。そして、その2つが明らかに乖離していることによってさまざまな悲劇が起こっていることを指摘し、別の社会システムを採用することで人間の幸福が実現すると主張する。このプロセスは論証である。

哲学とは論証である。思想とは究極的には無根拠の主張である。例えば「平等な社会を目指すべき」との主張は思想だが、「平等とは何を意味するのか?」を問い、その証拠を集め、本当に平等を目指すことが理にかなっているのかを考えることは哲学である。アンチワーク哲学は思想の側面も含まれるが、哲学の側面の方が大きい。故にアンチワーク思想ではなく、アンチワーク哲学を名乗っている。

では何を論証するのかと言えば、大きく分ければ4つである。

  1. 労働とはなにか?

  2. 経済とはなにか?

  3. 人間の欲望とはなにか?

  4. 金とはなにか?

アンチワーク哲学はこの4つの論証を経て、「労働なき世界」が可能であり、望ましいと結論する。そして、そのためのファーストステップとしてベーシック・インカムが有効であると主張する。その後、最終的に金は消えるか骨董品のようなものに成り下がり、国家や市場も消える世界が実現すると考える。

これらを全て説明し、理解してもらうには時間を要する。なぜなら世間一般に流布する価値観とは大きく異なるからである。世のアンチワーク系の思想すらも、世間一般に流布する価値観を前提としている。そのため、一見すると類似するアンチワーク系の思想を、アンチワーク哲学は部分的に批判する

それでも実践レベルでは同じ理想を掲げていることから、アンチワーク哲学は両者の連携を望んでいる。そして、願わくばアンチワーク哲学がアンチワーク系思想の実践者の理論的バックボーンをより強固なものにすることを願っている。

アンチワーク哲学は決して難しくない。しかし、世間一般に流布する価値観を一度クリアにする必要があり、そのプロセスには苦労する人もいるかもしれない。それにそもそも僕が単なるお花畑を夢想する狂人であると結論づけたい人からすれば、わざわざそんなことに労力を割こうとしないだろう。

繰り返すが、僕はそういう人にもアンチワーク哲学を理解してほしい。賛同するかどうかは別として、である。僕が知る限り、他に類を見ない哲学なのだ。真面目に受け止めてみれば、いい思考のトレーニングになると思われる。

※ ラッセルやフーリエ、ポール・ラファルグも、世間一般の価値観を前提としている。アンチワーク哲学に最も近づいているのはボブ・ブラックの『労働廃絶論』である。だが、アンチワーク哲学は『労働廃絶論』よりも高い解像度で労働を批判している。

結局、この記事ではアンチワーク哲学とは何かをほとんど説明していない。近いうちに入門記事を書こうと思っている。せっかちな人は以下のマガジンに雑多に散らばった情報を掬い上げてほしい。

あと、本なら比較的綺麗にまとまっていると思われる。『働かない勇気』の方が対話形式なので読みやすいし、おすすめだ。

アンチワーク哲学。僕は真面目に普及させたいのである。応援してくれる奇特な人は、メンバーシップという名のパトロン募集もやっているので、以下より。

それでは、入門記事に乞うご期待を!

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