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無職やワーキングプアは人格者である

高収入を得ている人は、必ずしも富を生産しているとは限らない。むしろ富を生産せず、富を都合よく分配するよう働きかける「政治活動」に成功し、高収入を得ている人物である可能性が高い。

言い換えれば、合法的な略奪である。

一方で、ワーキングプアは何かを生産したりケアしたりする仕事に就いている可能性が高い。居酒屋のホールスタッフやライン工、介護士、清掃員など低賃金の職業はそういう意味で「経済活動」に従事している。

しかし、彼らが生み出した富は「政治活動」によって奪い取られ、彼らの手元には最低賃金スレスレの時給が残るだけである。

派遣業界をイメージするとわかりやすいだろう。派遣会社の社員はあたかも高度な知的生産を行っているかのような顔をして、オシャレなオフィスでクールにMacBookのキーボードを叩いているわけだが、やっていることはピンハネである。さらに、派遣社員が生み出した富は、マーケティング会社や広告会社、コンサル会社、不動産会社、銀行などによっても吸い上げられる。彼らがやっていることも究極的にはピンハネである。

派遣社員はあたかも最低賃金分の富しか生産していないかのように扱われるわけだが、実際は派遣社員を見下すコンサルタントや銀行員、マーケッターたちの分の富も生産している。オフィスで涼しい顔でキーボードを叩く彼らは怠け者である。よってたかって派遣社員に依存しているのだから。

これは古臭いマルクス主義的発想であるかのように思われるかもしれないが、何も間違っていないようにも終われる。もちろん、広告や金融、営業、マーケティングなどの富の移転も必要なプロセスなのかもしれないが、そちらが無意味に肥大していることは疑いようはないだろう。

コンサルタントや銀行員、マーケッターたちによる政治活動は過当競争となっていて、搾取のプロセスすらも苦行と化している。実際はフリーライダーだというのに、フリーライドするための労働があまりにも過酷なのである(だからこそ、彼らも自分たちは富を生産しているのだと勘違いする)。

朝から晩まで営業電話をかけたり、真夏にスーツで出勤したり、取引先の偉い人をキャバクラで接待したり、夜中までキラキラしたパワポ資料を作ったり。こうしたブルシット・ジョブは当然何も生み出さないが、運が良ければ富の搾取に成功する。しかし、全体として見れば膨大な無駄である。

そして、そういうブルシット・ジョブを拒否しているという意味で、無職も人格者である。

無職はブルシット・ジョブを拒否することで、無意味な活動が世界に生じることを防いでいる。さらに言えば、他者から搾取することもしようとしない。

「だったらワーキングプアのようにエッセンシャルワークに就けばいい」と思われるかもしれないが、エッセンシャルワークすらも、政治活動によって無意味に煽られた活動であることが多い。ブルシット・ジョブまみれのオフィスビルを建てる労働や、広告に踊らされた人々のクローゼットで眠り続けることになるチープなシャツを縫う労働、最終的にゴミ箱に行く食べ物なんかを生産する労働を行うくらいなら、働かない方がいいのである。

無職は怠け者ではない。むしろ、勤勉である。なぜなら、労働とは無益な営みである可能性が高いのに対し、彼の送る日常生活には無益な営みなど存在しないからである。

ネットゲームに熱中することであれ、延々とWikipediaのリンクをクリックし続けることであれ、それが彼の意志で行われているのであれば、彼の意志を満足させているという意味で善行であり、有意義である。

しかし、労働すれば、彼は不満を抱く上に、世界に対して意味のある貢献もしない可能性が高い。つまり、労働とは怠惰なのである。意味のある貢献をしないまま金を得ようとする怠惰な行為であり、パチンコと似たような物だ。いや、パチンコよりも酷い。パチンコはやっている本人は楽しんでいるのだから、まだマシである。

そして、このような労働を疑問視し、拒否することこそが、道徳的な態度である。なぜなら、そうすることで次世代に無益な労働を残さない可能性を高めているからである。逆に、文句を言うことなく労働を続ける人は、次世代へと無益な労働を受け渡しているという意味で不誠実なのである。

これは単なる逆張りや屁理屈のように見えるかもしれない。しかし、あながち間違いではないように思えるレベルで、世界の労働は無益なものと化している。

「こんなの意味ないからやめよう」という一言がどれだけ大切か、誰もが知っているはずである。

僕は言い続けたいのである。そして、労働なき世界を実現したいのである。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!