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アンチワーク哲学Q&Aのコーナー

アンチワーク哲学についての入門であり、総まとめのような記事を書いたら、ありがたいことに反響と質問をいただいた。

馬鹿馬鹿しいくらいに常識外れなことを主張する記事を書くと、誤解曲解を招くのが常だ。ところが今回に関しては今のところそういったコメントはなく、むしろ理解していただいた上で、アンチワーク哲学にさらに磨きをかけてくれるような質問をいただいている。ありがたい。

いただいた質問に対する返答はnote社が用意した4畳半コメント欄では収まり切るようなものではないので、あらためて記事を立てることにした。

では、さっそく質問について考えていこう。


Q1
人は本当に自由を求めるのか?

自説を自ら批判したもののなかで、最も手強いのは「自由を与えられても困惑する人が大半であり、自由を求めない人もいる」というやつかなと思った。「彼が本当に恐れているのは自由ではなく評価」という論はひとまず脇に置かせてもらうと、大半の人間は自分で決められる”自由”よりも、誰かに決めてもらうほうに安心を感じるのではないか?という根源的な問い。人間の本質理解に関する議論を避けては通れない気がする。

「世界の普通から」さんより

アンチワーク哲学は、人の自由な意思決定をとことん重視する。人は自由に意思決定できるなら、自ら幸福を掴み取るだろうし、社会全体はそれでうまく調整されていくはずであると考える。

いただいたのは、それに対する「本当に人は自由を求めるのだろうか?」という問いである。

アンチワーク哲学自体、「世界の普通から」さんが指摘するように、世論と逆行することは確かであり、この質問は間違いなくこれからアンチワーク哲学が向き合っていかなければならない問いだ。

誰かに、決めてもらった方が安心するという感情には、僕にとっても馴染みがあるし、逆に優柔不断に右往左往する人々を見て「さっさと決めろよ」とイラつくような事態も何度も経験してきた。

とは言え僕のスタンスは変わらない。「人は自由を恐れるのではなく、評価を恐れている」というものだ。

ここで、決めてもらった方が安心する状況が、どのような状況なのかを、冷静に考えてみよう。たいていその状況にはなんらかの正解が存在していると感じていて、その正解を探り当てる自信がないときや面倒なときに、人は「決めてほしい」という感覚を抱くのではないだろうか?

学校や職場というものは、自由を押さえつけて単一の正解を押し付ける割に、「やりたいことをやれ」という全く矛盾したダブルバインドを押し付けて人々を困惑させていることで悪名高い。ここでのメッセージは明らかである。「自由に、学校や職場が理想とする振る舞いを行え」である。そして、そうしなければ怒られたり、内申点がもらえなかったり、クビになったりするのだ。最悪の場合、路頭に迷う。

仮初の自由になど、全く魅力はない。むしろ不自由よりも不幸だと言える。なぜなら、自由に振る舞った途端に禁止が慌ただしく駆けつけてくるというのに、建前上は自由を満喫していることにさせられるからだ。ならば、仮初の自由などいらないから、さっさと正解を教えて欲しいと思うのが人情だろう。

そして、その最上位にあるのは、金という評価システムだ。

金も、自由市場という名目で同じく仮初の自由を押し付けながらも、金を稼がなければならないという単一の価値観を押し付ける。つまり、金というシステムに気に入ってもらえる範囲内での自由しか与えられていないのだ。

金を稼ぐという行為はかなり特殊な行為であり、当然のことながら「人の役に立てば金がもらえる」などと単純な仕組みになっていない。当然、好きなことをやれば金を稼げるなどということもない。じゃあ、金なんていらないから自由にやるぜ!と言えば家族も自分も路頭に迷ってしまう。ならば自由などかなぐり捨ててさっさと金が稼げる受験戦争や大企業のシステムを踏襲したいという気持ちになるのが人情というものだ。

しかし一方で僕たちには自由が与えられていることになっている。「会社辞めても何したらいいのかわからない」とか「大学卒業してもやりたいことがない」というのは、自由という建前と、金というシステムに評価されなければならないという矛盾の前に、立ち尽くしているだけなのだ。

一見、自由から逃走しているように見える人々は、学校や会社、そして金という単一の評価システムの前で仮初の自由を与えられつつ、正解を探り当てるように指示されている状況に嫌気がさして、仮初の自由を放り投げている人なのだろう。

子育てをしていれば「人間が自由を恐れる」などという言説が、どれだけ馬鹿馬鹿しいかを痛感する。息子は、次から次へとやりたいことや欲しいものを見つける。癇癪を起こすのは自由を損なわれたときだ。息子の同級生たちも同様だ。それでも「やりたいことがわからない」と立ち尽くす子どもがいたとしたならば、おそらくその子は親による評価システムにがんじがらめにされているのだろう。

また、人から命令された途端に、やる気がなくなるという現象は誰しもが味わってきたと思うが、それも人間が自由を求めている証拠だと思われる。本来自由な領域ですら、あれをしろ、これをしろと命令されればやりたくなくなってしまう。

以下の記事はそのことがよくわかる。ゲームとは、学校や家庭で自由を奪われた子どもが唯一、自由に能力を発揮できる空間であるがゆえに人気があるわけだが、そこに評価や命令が加われば即座に苦行になるのだ。

さて、ベーシック・インカムは、人を評価から部分的に解放する。金という評価システムに全面的に服従する必要がなくなり、学校や会社の正解を探り当てる必要もなくなる。とはいえ、全く他人に評価されない人生というものも存在しないし、全く他人の評価を気にしないこともあり得ないだろう。しかし、今は明らかに評価が過剰であり「あれがしたい、これがしたい」という純粋な欲望を追求することが難しくなっている。そういう力学を弱めるのがBIというわけだ。


Q2
アンチワーク哲学は無意味な仕事を肯定するのか?

「誰も読むことのない会議資料を夢中になって作るサラリーマンも、彼らがそれを自発的に楽しんでやっているのなら、それは労働ではない」
このような(本人は)自発的で楽しいが誰の役にも立たない活動について、アンチワーク哲学は、それを肯定する立場なのでしょうか? 人間は貢献欲をもっているとするならば、誰にも何にも貢献しない活動を欲して楽しむ人が(けっこうな数)いることをどう説明したらいいんだろう。

再び「世界の普通から」さんより

さて、2つ目の質問も1つ目の質問と関連するものだ。

アンチワーク哲学は主体的な決定を重視し、他者の評価によってその人の行為を左右することを避ける。それなのに「いや、あなたのそれは無意味な仕事なのだから、早く辞めて役に立つ農業や林業を楽しむようにしなさい」などと仕事の価値を決定しようとすれば、即座に中国共産党のような集団を生み出すだろう。あるいは、清貧思想へと逆戻りする可能性もある。

そうではなく、アンチワーク哲学は「本人がいいのなら、それでいい」というスタンスを徹底する。また、役に立つとか、立たないとか、それを客観的に評価することもない。自己満足の無意味な仕事も全て肯定する。

そもそもアンチワーク哲学は本人が自由に楽しんでいるかどうかをKPIとしているのだから、アンチワーク哲学にとって、本人が楽しんでいる無意味な書類仕事は「役に立っている」と考える。

ただし、「そもそもなぜ無意味な書類仕事を満喫する人がいるのか?」については考察の余地がある。

貢献欲は人間の欲望の1つであって、欲望の全てではない。人はあらゆる行為を欲望することが可能である。ハイヒールで踏みつけられながら排尿される行為を欲望する人もいれば、わざわざ死にそうになりながら山に登る行為をライフワークにする人もいる。

ならば無意味な仕事につくことを欲望することも可能だと考えられる。現代の僕たちのように無意味な服従を余儀なくされたとき、本来、服従したくないのにもかかわらず服従を続けることは認知的不協和が起きる。ならば、無意味な服従を欲望しているのだと自分を言い聞かす方向に人間は向かうと思われる。

それが無意味な仕事を楽しむ人の正体だろう。

では、彼らはBIが支給され、会社や上司に服従をし続ける理由がなくなったとき、果たして服従を続けるだろうか?

もしかしたら続けるかもしれないが、多くの人は本当に自分がやりたいことを見つけ出すのではないだろうか?

「定年退職したら、カフェを開くんだ」とかなんとか言いながらブルシットな会議に出席するサラリーマンなら掃いて捨てるほどいる。金という束縛によって諦めてきた壮大なプロジェクトの1つや2つくらい、誰にだってあるだろう。

服従しなければならない状況なら服従を欲望していたとしても、自由がやってきたならきっとそのプロジェクトに着手しようと思うはずだ。

それに、無意味な仕事のうちには、無意味な仕事を部下に割り振り、無意味にイチャモンをつけるような仕事も多いわけだが、その部下が退職しカフェ経営を始めたならば、その無意味なイチャモンはつけようがなくなる。

結果的に、無意味な仕事はなくなっていくのではないだろうか?


Q3
アンチワーク哲学を10行でまとめると?

頼みが一個だけある。噛み砕かなくて良いから、難解でいいから、
頼む! 10行でまとめてくれ 頼む 合掌

「とび」さんより

どういう意味で10行にまとめて欲しいのかはわからないものの、合掌されてしまったものは仕方がない。まとめようと思う。

ちなみにくだんの記事は1万3000文字ほどある。個人的にはかなり端折ったと思っている。これを10行にまとめるとなれば、もはや詩だろう。

だがやってみよう。


労働とは支配されること
支配とは自由を失うこと
自由とは欲望に生きること
僕たちの欲望は
気まぐれで
思いやりがあって
愛で溢れている
だからすべては許され
労働だけが罪となる


ぎゅっと凝縮するとこんなところか。普通に読めば意味がわからない。だが、僕が言いたいことは詰まっている。


■まとめ

駆け足になったが、これにてひとまずコメントへの回答とさせていただく(勝手に自分で1日という期限を作ってしまったので、とりあえず今日の日付が変わるまでには返答したかったのだ)。

これが完全な回答かといえば自信は持てない。やはりアンチワーク哲学は発展途上なのだと思い知らされる。

まだまだブラッシュアップせねばなるまい。ついかでなにかあれば、みなさんもぜひコメントを。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!