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自由をKPIにする

ヴィーガン思想について誰かと話すと必ず返ってくる発言がある。「でも、卵とか牛乳は、鶏や牛を殺して作るわけじゃないし、食べてもいいんじゃないの?」というものだ。

彼は家畜のことを「飯食って寝て、とにかく生きていれば満足する肉の塊」とみなしている。畜産現場がどれほど過酷かを知っているか知らないかは置いておいて、ともかく「生きているのだから何はともあれOKでしょ?」と考えているのは確かだろう。

この考え方は、人間にも適用されているというだけではなく、人間社会を支配し、規定している。これを生命至上主義と呼んでも、差し支えないと思う。

※感銘を受けたので勝手にインスパイア記事書かせてもらいます。失敬。

生命至上主義とは、僕なりに勝手に解釈すれば「飯を食って寝て生き延びることを最優先する思想」である。

確かに、生き延びることは、生命にとって前提条件である。生きていなければお気に入りのラーメン屋に行くこともできないし、息子を抱きしめることも、友達と深夜までスマブラをすることも、1日中スポッチャで遊びまわることもできない。ならば生きることは何よりも大切ではないか?と考えるのは一見すると自然なことだ。

もちろん、卵用鶏や乳牛にはスポッチャに行く自由はないもののも、ぼーっとしてても勝手に飯は出てきて、そこそこ長生きできるのだから、別にいいじゃん?となる。

この発想を究極的に突き詰めた人物が金子みすゞである。

海の魚はかわいそう。

お米は人につくられる、
牛は牧場でかわれてる、
こいもお池でふをもらう。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうしてわたしに食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。

金子みすゞ『お魚』

金子みすゞの世界観では、お米も牛も、飯を与えてもらって生かしてもらったのだから、食べられても仕方がないし、不幸ではないということになる。命のための食物をもらうことは、命を取られても仕方ないくらいの恩義であるというわけだ。

人間は、取って食べられることはないにせよ、海のお魚よりも牛近い状況に置かれているのは確かだ。一挙手一投足までコントロールされる学校や工場、オフィス。生命延長主義に満たされた病院や老人ホーム。これらの環境では飯(あるいは飯を食うための金)を与えられ、健康を与えられることを最優先して、ひたすら規律に従って自由を手放すことを推奨される。社会全体で見ても、「生政治」という言葉が象徴するように、生き延びることは政治の最優先課題とされている。

「でも、生きるためには仕方ないよね? それの何が問題なの?」と一般的な感覚の持ち主は考えるだろう。

僕は逆に解釈したい。生命維持のために飯を食い、歩き回り、仲間を作るのではなく、その逆なのである。僕たちは飯を食い、歩き回り、仲間を作るために生命維持しているのではないだろうか。

いやむしろ、そのような直線的な関係性を思い描くことが間違っているのかもしれない。生命は何らかの目的のために生まれるのではない。自ら目的を生み出し、目的に向かって行動し、目的を達成していくプロセスの全てが、生命という営みそのものなのだ。

つまり、自由それ自体が、生命なのである。

しかし、生命の持続だけを最優先したとき、自由を手放すことになる。生き延びるためには、あらゆるリスクを避けてシステム通りに生きることが最適解なのだから。それはつまり自ら目的を設定する自由を放棄することになる。

生命至上主義の発想に基けば、ブルシット・ジョブを肯定することになる。なぜなら、その労働が生命維持のための金を得ることに役立つのであれば、退屈であろうが他者に貢献しなかろうがどうでもいいというロジックが成立するからである。

生命至上主義者にとって、人が1日8時間楽しく働こうが、8時間屈辱に耐えながらに働こうが、それで1日3食飯を食えるなら、たいした差はないのだ(もちろん、8時間労働か、8時間余暇か、なら全く別物である。生命至上主義にとっては生命維持のための労働と、生命維持に貢献しない余暇の時間の区別は決定的である)。

では、生命至上主義に対抗するにはどうすればいいのか?

答えは明白である。自由をKPIにするのである。

彼がどれだけ自己決定しているか。彼がどれだけ強制された退屈な作業を避けられたか。彼がどれだけ他者からの干渉の度合いを避けられたか。その度合いを評価し、議論し、目的化するのである。

彼が自主的にパチンコを打ちにいくなら、それは素晴らしいことである。彼が強制されて退屈な書類仕事を就くなら、それは改善されるべき事態である。そのような価値観をインストールするのである。

「自由を与えてもどうしていいかわからない人やくだらないことばかりするもいる」や「みんなが自由に生きれば社会はトラブルまみれになる」というのが、次に返ってくる反応である。

まず、自由を恐れる人など存在しないことは明らかである。人は自由ではなく、評価を恐れる。

そして、くだらないことをする人ばかりになることは、いいことである。なぜなら、周囲から見て「くだらない」と感じるということは、彼がそれだけ周囲の価値観から自由に発想し、自由に行動していることを意味するからである。

では、そんな社会はトラブルまみれになるのか? もしかしたらなるかもしれないし、ならないかもしれない。だが、そこまで酷い事態にはならないだろう。

そもそも、自由が存在する場所では、他者への攻撃は起こりづらいと考えられる。

他者への攻撃とは、他者を自分のおもちゃとして扱い、なんらかの反応を引き出して楽しむ行為である。それは他に面白いおもちゃが存在しないから起きるのであって、人間が根本的に他者を傷つけて喜ぶ生き物であることを意味しない。

人はそもそも、自己の決定により周囲に影響を与えることそのもの(すなわち自由)を欲する。しかし、例えば学校や監獄、オフィスではそのような自由が制限される。だからこそ、そういうジメジメした場所でしか、いじめのような他者への攻撃は生じない。極端に制限された自由を解放する先が、他者しかいないのだ。

子どもが他者を傷つけがちなのも、子どもには自由がないからである。子どもは世界から思った通りの反応を引き出す能力が比較的低い。しかし、他者にアプローチすれば、比較的思った通りの反応を示すのである。だから他者へのアプローチばかりに固執し、いずれ攻撃する。

つまり、子どもに必要なのは、世界から思った通りの反応を引き出す能力の開発であり、そのために教育は存在すべきなのである。料理することや、椅子を組み立てること。野菜を育てること。絵を描くこと。そういった能力の拡張は、子どもに自由を与え、他者への攻撃によって反応を引き出したい欲望は消えていく。

もちろん、能力開発のプロセスすらも、自由でなければならない。特定の能力を付与しようと大人が意図してはならない。能力の開発は、思った通りの反応を得ようとして、成功と失敗を繰り返すことで得られる。

そして何より能力は、自由の拡張ために開発されねばならない。生命の必然性や金のために開発されてはならないのである。

自由をKPIにしたとき、僕たちの社会から生命至上主義が一掃されるだけでなく、労働も一掃される。なぜなら、労働とは自由の欠如そのものだからである。

僕たちは自由でなければならない。つまり、ヨカ神の言う通りであった。労働だけが罪である。

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