自由とは、他人に評価されないこと

「人は自由から逃走する」とか「人は自由の重みに耐えられない」とかそういうことを言う人は多い。自由というのは自立した強い個人でなければ耐えられないし、自由になることを恐れる人もいる、というわけだ。

僕はこの言説にずっと違和感を持っていたが、その正体がわからず、明確な反論を思いつかずにいた。しかし今日、街をぶらついているときに、「自由を恐れる人もいる論」の過ちに気づいた。


そもそも‥

子育てをしたことのある人なら、自由が人間の本能であるということを疑わないと思う。子どもは、どこまでも自由を求める。

やりたいと思ったことをやる。誰になんと言われようとお構いなしだ。そして、よくわからないことに創意工夫しながら、自発的に取り組む。それがなんらかの成果になろうが、ならまいが関係がない。

それなのに、大人になれば変わる。大人の中には「なにたべたい?」と聞いても「なんでもいいよー」と答える人は多い。「スーツの方が楽、何を着るか考えなくて済むから」という人も多い。明らかに自由を放棄したがっている。


なぜか?

結論を述べよう。人は自由を恐れているのではない。他人からの評価を恐れているのだ。

社会の中では、他人からの評価が大きな力を持っている。評価一つで進学が決まり、就職が決まり、出世が決まり、結婚相手が決まる。

他人から評価に生殺与奪を握られていると言っても過言ではない。それくらい他人からの評価は重要なものだ。

「なに食べたい?」と聞かれて「なんでもいい」と答える人は、デートな相手にセンスのない人間と評価されることや、自分の意見ばかりを主張するワガママな人間と評価されることを恐れている。そうでなければ食べたいものを決められないわけがない(サラダバーの前でなにを選ぶか決められず、永遠に立ち往生している人を見たことがあるだろうか?)。

では評価されるとはどういうことか? それは「誰かが想定する特定の振る舞いに沿っているか、沿っていないかを判断されること」だ。つまり特定の振る舞いに合致していればプラスの評価になり、合致しなければマイナスの評価になる。

例えば、就活生なら、黒髪にスーツという特定の振る舞いに沿っていればプラス評価(というよりプラマイ0だが)になり、金髪に私服で面接に臨めばマイナス評価になる可能性が高い。

自由とは、誰かの設定した基準を度外視して、自分の基準に沿って行動することを意味する。俺が金髪にしたいから金髪にするのだ!という感じだ。

自由に振る舞えば他人からマイナスの評価を与えられる可能性が高い。マイナスの評価を与えられれば、社会からつまはじきにされ、生活の糧を失う恐れすらある。ならば、自由を放棄しようと人が考えるのは当然だろう。

「私服でもOK」という面接では、私服で行っても確実にネガティブな評価を下されるとは限らない。しかし、どのような私服がプラス評価につながるか判断が難しいため、マイナスになる可能性が少ないスーツを着るという選択肢は理にかなっている。

「部下に自由を与えても、うまく対処できない」というような愚痴も、このように考えれば理解できる。名目上、自由を与えられたところで、上司によって半ば生殺与奪を握られている部下は、上司の評価基準に合致するやり方を模索せざるを得ない(つまり本来の意味での自由ではない)。しかし、「自由」という建前がある以上、上司の評価基準が明文化されていないため、部下はそれを推測することとなる。もちろん部下はエスパーではないので、上司の心の内を知ることはない。自分で自由に考えればもっと素晴らしい方法で問題に対処ができたにもかかわらず、上司の心を当てるという曲芸にチャレンジした挙句、頓珍漢なやり方で対処することになるのだ。

つまり、人は自由を恐れているのではなく、「誰かにマイナスの評価をされること」を恐れている。評価さえなければ、人は自由を求める。そして、自発性を持って行動し、創意工夫を始める、と僕は考える。だって子どもがそうなのだから、本来人間はそういうものだと考えた方が自然だ。

「弱い人間ってのは自由を嫌がるのだ」と主張するのは、人前でセックスしないことを理由に「人には性欲はない」と主張するようなものだ。エーリッヒ・フロムもサルトルも間違っている(キルケゴールは、微妙なところ?)。

こういう話をすれば、「みんなが自由になれば、世の中が大変なことになる」という反論をされる可能性が高い。つまり、自由=他人に迷惑をかけることと解釈しているのだ。しかしこれは間違っている。例えば「今日からあなたは、日本国の法律に拘束されません」と宣言されたとして、あなたなら誰かの顔面をぶん殴りにいくだろうか?

1人や2人殴りたい人はいるだろうが、実際に殴るところまでには至らないと思う。では、万引きをするだろうか? 空き巣や強姦はどうだろう?

僕ならしない。あなたも同様ではないだろうか?

中には生粋のサイコパスもいるだろう。だが、サイコパスはごく一部だ(ごく少数のサイコパスのための特注のオートクチュールが、大多数の人が自由を差し出す今の社会だ)。

つまり自由とは、本来誰かに迷惑をかけるようなものではない。自由に振る舞うことで結果的に迷惑がかかるなら、それは他者からの評判に由来するものだ。例えば、金髪で面接に行けば、評価者の気分を害する。そして、就職先が決まらなければ、親が悲しみ、近所の人に白い目で見られるようになる。結果的に親に迷惑をかける形になる。

仮に採用されたとしても、そのポジションが営業職なら、営業先でマイナスの評価を下される可能性が高い。ならば、結果的に会社に迷惑がかかる。

これは自由がもたらした結果ではなく、評価がもたらした結果だ。自由とは本来誰かに迷惑をかけるものではない。評価が迷惑をかけているのだ。


じゃあどうすべきか?

自由が本能なら、いまは本能が抑圧されている状況ということだ。

それに僕は、人は自由になれば、自由でないときよりも誰かの役に立つことをするだろうし、自由でない時よりも創造的になれると信じている。

ならば、みんなが自由になれるように、社会を変えていくべきだと思う。

どうすればいいのか?

まずは、評価の影響力を下げることが必要だろう。評価によって生殺与奪を握られているからこそ人は評価を恐れるのだ。ならば、評価に関係なく生きられる社会になればいい。

万人の生活を保障するのもいいだろう。あるいは、会社というシステムの中で言えば、完全なる年功序列を採用するのも悪くない。年功序列とは、社長をラップバトルでボコボコにしても、就業時間中デスクに座って鼻くそをほじっているだけであっても、エリート社員と全く同じ給料がもらえるというシステムだ(ゆえに、そんな会社は日本に存在しない)。

そうなれば、人は評価を恐れず自由に振る舞える。上司にNOを言うことも簡単だし、金髪で営業にいくことも可能だ。最高じゃないか。

そうなればみんながうまく自由を活用できる。自由を阻害する評価がなければ、人は誰もが例外なく自発性を持っていて、創意工夫する能力があるのだから。

評価なんてクソだ。そもそも人を値踏みしようとする根性はクソだ。

値踏みしてくるな、クソが。すべて僕が決めるのだから、黙っておけ。ファッキン、パターナリズム。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!