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ベーシック・インカムは学校制度や家族制度をどう変えるか?

いつでも嫌な仕事や会社から逃げられる点は、ベーシック・インカムのメリットとしてよく指摘されるが、逃げられるようになるのはそれだけではない。学校や家庭からもまた逃げることが容易になる。

例えばBIがないとき。いじめを受けている子どもが親に「学校に行きたくない」と悩みを打ち明けたとすれば十中八九、「頑張って続けろ」と言われるだろう。なぜなら引きもりになってしまったら最後、進学や就職といった未来が閉ざされ、ニートまっしぐらだ(と思いこむ親が多い)からだ。

一方で、BIがあるとき。いじめを受けたなら無理して通学する必要はない。仮にニートになったとしても、穀潰しにならないからだ。それに、比較的親の方も、少々お高いオルタナティブ教育を選択する余裕が生まれる。

また、家庭の方も、これまでなら子どものために夫のDVを耐え忍んでいた母親が子どもを連れて出ていくという選択肢が容易になる。いつ踏み倒されるかわからない養育費をめぐって長く辛い裁判をする必要もない。子どもと自分の生活は永遠に保障されるのだから。

あるいは、子どもの家出も比較的容易になる。親に不満が溜まったなら、別の家の子になればいいのだ。BIがあれば、別の家に金銭的な負担はない。友達の家から帰りたくない子どもに対して「もう貰ってもらおか」と言うのは親の常套句だが、それもシリアスな響きを持って受け止められることになる。

これが良いことなのか、悪いことなのか、判断が分かれるところだろう。人間関係に忍耐強く取り組むことなく、さっさと諦めるドライな子どもばかりが育つだろうか?

もしかしたらそうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。だが、そもそも逃げるという選択肢が与えられていないという状況の方が異常だとは考えられないだろうか?

逃げることができない人、自分に依存している人に対して、人は権力者として振る舞うことが可能になる。よっぽどのことがない限りは、傍若無人に振る舞っても、彼が裁かれることはない。逃げるという選択肢がないのだから(これが現代のオフィスや家庭、学校の状況だろう。多くの人は善良であり、権力によって他者を縛り付けようとするケースは稀だが、その選択肢を容易に取り得るという状況であることは間違いない)。

しかし、実際に逃げないとしても、逃げるという選択肢を持たれているとどうなるか? あんまりやりすぎたら逃げられると考え、相手の要望や不満にも耳を傾けるようになるだろう。

と、考えるとこれは良いことだ。それに、理論上、いじめと家庭内暴力が消え去るのである。東横やグリ下に集まる不良少年といった問題も解決に向かうはずだ。これらの問題に僕たちの社会はずっと頭を悩ませてきた。それが一挙に解決するのだから、多少のデメリットには目を瞑っても良いだろう。

石器時代の人々は比較的、不満があれば家族や部族の縁を切って別の部族に逃げ込むようなことが日常茶飯事で、受け入れ側も比較的柔軟だったという話も聞く。

つまり、今ほど家族やコミュニティを絶対視していなかったのだ。僕らは違う。家族のつながりを切らしてはならないと思い込み、学校に行かなければ人生が詰むと思い込んでいる。

しかし実際のところ、血縁などという概念はフィクションに過ぎない。DNAの何パーセントが引き継がれているからといって、仲良くする必然的な理由にはならない。たまたまお腹から出てきて、たまたま一緒に暮らして、たまたまお世話しただけであり、お互いに気に入らなければ逃げ出してもいいのである。

もちろん、だからと言って家族の絆に価値がないと言いたいわけではない。僕も妻とはたまたま出会って、たまたま結婚して、たまたま子どもが生まれた。一緒にいる必然的な理由はないが、一緒にいることを選択している。それだけである。仮に子どもが僕の子どもでないことが判明しても、僕は相変わらず子どもたちを育てていくだろう。好きだからだ。

それに、血縁という運命に導かれるまま仕方なく一緒に暮らすよりも、自分たちで選択して一緒に暮らす方が、強い絆が生まれるのではないだろうか?

つまりBI最高である。早くしてくれ政府よ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!