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食べることは生きること、ではない

「食」という領域が神聖視され過ぎていると感じている。

これはおそらく戦時のトラウマが、僕たちを食事依存症とでも呼べる状況に追い込んでいるように思う。『火垂るの墓』や『はだしのゲン』に出てくる子どもたちは、おはじきをドロップだと思い込むくらいに常に飢えていたし、日本軍の死因の大半が餓死だったことも有名な話だ。だから、「食べることは生きること」「食べていくために働かなければならない」といった食事至上主義的な執着が生まれたのだろう。

しかし、いわばこれはトラウマ体験のようなものだと言っていい。高山病に罹った人が下山してからも酸素スプレーを持ち歩いているのだとすれば、周囲の人々は精神科にかかるように勧めるだろう。それと同じことが、食という領域で僕たちの社会に起きているが、残念ながら僕たちの社会全体を診察してくれる精神科医は存在しないのだ。

生きるために食え。健康になるためには食え。むしろ食わねば健康になれない、というのが、社会からのメッセージである。ダイエットの最短ルートは飯を食わないことだが、それすらも「食事制限はリバウンドしやすい」とか「食事制限は不健康」などと制限される。

それが楽しくてやっているのであれば、別にいい。だが、食の大半は義務感や恐怖心にとらわれているように思う。それに、食以外の楽しみが失われていることも不幸だ。

子どもは食事を忘れて遊びたがっているというのに、大人は無理やり食べさせようとする。その長い長いトレーニングのプロセスを経て、ようやく子どもは大人になり、食事を人生における数少ない楽しみだと解釈するようになる。子どもは食事至上主義というプロパガンダに毒される前の生物だ。だから、遊びたいという欲求も、食欲と同列に扱うどころか、遊びたいという欲求の方を優先させる。おそらくこれが人間の元々の姿に近いはずだ。三大欲求が嘘のように思うくらいに、人という生物は食事にそこまで依存していない。

では、なぜ大人はそうならないのか? おそらく戦時中のトラウマ体験を利用して、資本が僕たちに食べ物を売ろうとしてきた結果、食に対する執着が定着したのだろう。

大人は、欲求を解放する先をかなり、限定されている。欲求を解放するにはおおむね金がかかることになっていて、食事はその代表例と言える。食事は、社会(というか資本)が推奨する数少ない欲求の1つだ。僕たちはその辺で遊びまわることを欲求の解放であると解釈することができない。だから、子どもにも小さいうちからレジャーランドを我慢しながら楽しむというトレーニングを積ませる。欲求の解放先を社会から推奨されるものに限定することが、僕たちの社会で大人になることの意味である。

だが、本来僕たちは100もの欲求を持ち、100個全てを人生の中で満たすことを望む。食欲はそのうちの1つに過ぎない。あるいはせいぜいが、誰かと食事をとることで社会関係を構築したいという欲求のおまけについてくるポテトのようなものだろう。

それなのに食をあまりに過大評価するのは、僕たちにとって不健康なのだ。

もちろん、僕は全人類が1口も食事をしないブレサリアンになればいいと言いたいわけではない。もしかすると訓練すればそういう生き方も可能なのかもしれないが、全くエネルギーを摂取しない生き方は普通は無理だ。それでも、僕たちはあまりにも食べ過ぎている。1日3食はいらないし、なんなら1食でもいいのだ。そして何より、心持ちの問題である。「食べることは生きること」ではない。仮にそうなのだとすれば「人と話すことは生きること」であり「1人でぶらぶらほっつき歩くことは生きること」であり「手を動かして道具を作ることは生きること」であり「うんこをすることは生きること」なのだ。全てが「生きること」だ。

狩猟採集民も、食べるために死に物狂いで働いていたわけではない。多少、食べることに対して宗教的な意味合いを付与することはあったろうが、おそらく現代ほどに食べることに執着していなかったのではないだろうか。

狩猟というのも、おそらく彼らにとっては半分遊びのようなものだったはずだ。実際、狩猟で消費するエネルギーと、狩猟で得られるエネルギーを比較すると、多くの場合、赤字だったらしい。

20世紀の狩猟採集民のわずかな集団に関しての概算によると、最も高いエネルギー純利益を出していたのは、ある種の根茎の採集だ。エネルギー1単位が消費されるごとに30から40単位もの食物エネルギーが獲得されていた。対照的に、多くの狩猟作戦、とりわけ熱帯雨林の比較的小さな樹上性哺乳類や穴居性哺乳類を狙った狩猟では、エネルギー収支が純損失になっているか、かろうじて同等になっている程度だった。

バーツラフ・シュミル『エネルギーの人類史』

彼らはエネルギー的に赤字なのに狩猟するのである(もちろん、彼らが厳密にカロリー計算をしているわけはないが、直感的に赤字だと感じていることだろう)。なぜそうするのかといえば、狩猟することと、食事することの両方が彼らにとってエンタメであり、同列の欲求だったからだろう。決して狩猟を労働だと捉えていたわけではあるまい。少なくとも、僕たちがいま思い描いているような「労働」ではないはずだ。

食を過大評価し死に対する恐怖を感じていることは、馬車馬のように働かせる資本には都合がいい。人を支配するには生殺与奪を握るのが一番だ。本当のところはそこまで握られていないのだとしても、そう思わせれば勝ちなのである。

そして、僕は食の価値観をひっくり返すことは、現代の労働観の更新につながっていく考えている。

つまり、食べるため、生きるために止むを得ず欲求にセーブをかけて労働し、残りの時間でピザを齧りながらNetflixを観るなどして欲求を解放する、という概念を更新するのだ。食べることは戯れであり、何か労働と呼ばれるような作業を行うことも戯れであり、欲求の解放としてNetflixを観ることも戯れなのだ。全てが余暇になる。そして食べることと、食べ物を人に与えることや、料理すること、畑を耕すことがすべて同列の戯れになり、欲求の対象となる。そうすれば、支配や権力や、金すらも必要ない。

僕が書いてあることは日本人の99%からすれば意味不明だろう。それだけ、食の神聖視は宗教的盲信のレベルに達している。だが、改めて考えれば食なんてほとんど娯楽目的にしか存在していないことに気づくはずだ。

観光の1番の目的は食である。別に食べなくてもいいものをわざわざ食べるのだ。フードファイトが成立することは、食べ物はおもちゃであると認めていると言っていい。古代人がわざわざ小麦をパンにして食べたのは、面白半分の娯楽だったとしか考えられない。

食が数多くの娯楽の1つに過ぎないとわかれば、僕たちの欲求や娯楽はもっと多様な目的に向けられる。僕たちが欲求のままに生きれば、誰かが子どもの面倒を見るし、誰かが老人の世話をするのである。それは食事と同じような欲求の1つなのだから。

必要に迫られた活動と、自由に行う活動とは、グラデーションであり、おそらく区別する必要はそこまでない。多少の必要に迫られてやっているうちに戯れと化していくケースもあれば、戯れが気づいたときには義務になることもある。戯れが真面目に変化していくプロセスは、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』に書かれている通りである。

僕が言いたいことは要するに、人間の行為の全てを自由のうちに戯れとしてスタートさせることができるなら、現在必要とされる衣食住やエンタメ、教育、介護といったあらゆるサービスは提供され、人々は健康で幸福になれるという主張だ。そのための第一歩がベーシック・インカムなのである。


※まとまりがなくなってきたのでこれくらいにしておく。ちゃんとまとめてもう1冊の本にしたいのであるが、なかなか時間が取れないものだよ。


※最近は食のことばかり書いているので、ついでにこちらも参考までに。


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