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食の祝祭性と生命維持

人間が生きていくにあたって必要な食事量は、恐らくそこまで多くない。全人類が食事量を今の半分に減らしても、餓死する人はわずかだと思う(むしろ健康になる人の方が多いはずだ)。

「食べること」とは、ほとんど祝祭的な楽しみや、コミュニケーションの口実として機能している。あるいは、必要以上の「食べといた方がいい」という義務感によって駆り立てられている。

食の大部分は、おそらく過剰なのだ。

僕は以前、1日1食だった時期がある。いまは祝祭を楽しむために1日2食食べているが、体重はほとんど変わっていない。つまり1食分は、料理を作る喜びと、家族とテーブルを共にする喜びと、暴食する喜びのために食べていて、栄養的な意味では垂れ流しである。

生命維持と祝祭は厳密に二分できない。が、生命維持に必要な栄養がそこまで多くないことを考えると、祝祭が人間の生をほとんど覆い尽くしていると言ってもいい。

本当か嘘かは知らないが、ブッシュマンのような狩猟採集民は1日3時間か4時間しか働かないらしい。本人たちはそれを仕事だと考えているのかどうかも怪しい。

特に狩猟は飛び抜けて祝祭性の高い行為だったのではないだろうか。平均すれば狩猟のカロリー収支は赤字で、狩猟採集民の生命維持はほとんど採集によって賄われていたと聞いたことがあるが、そのことを仮に狩猟採集民たちが知っていても、狩猟をやめることはないだろう。狩って、食べる。この行為は祝祭なのだから、それ自体が目的となる。パチンカスが存在する理由も同じだ。

では、採集は忌々しい重労働だと考えられていたのか? わからないが、1日に4時間かそこらなら、きっとお祭り感覚とまではいかなくても、僕たちが風呂に入って歯を磨くくらいの感覚だったのではないだろうか?

文明レベルとしては決して高くない彼らは、「生きるため」という理由にそこまで固執していなかったのかも知らない。それなのに僕たちは「生きるために仕事をしなければならない」と言う。資本は物理的な欠乏状態だけではなく、心理的な欠乏状態も生み出したのだろうか。アレントは、現代は生命の必要性を満たすための「経済」が公的空間を満たしてしまったことを嘆いていた。この必要性は人工的に生み出されたものだったわけだ。フーコーとかアガンベンがやたらと口にする生政治というのも、元を辿ればこういう欠乏状態に由来するのだと思う。

1日3食という考えも、心理的欠乏状態の生成装置として機能している。そして知らず知らずのうちに人は食による祝祭性を消費しているのだろう。普通、人は楽しいことをしていれば寝食を忘れる。たまに寝食を忘れるくらいが、人間にとってちょうどいいのだと思う。寝食にしか祝祭性が許されていないのであれば、寝食にばかりやとらと時間と金が取られ、太っていくのも頷ける。

食が祝祭であることを認識できないことは不幸である。なぜなら、義務感で飯を食うことになるからだ。そして、食べる量が減っても生命維持にはなんら支障がないことを知らないからだ。食べる量が減っても大丈夫だとわかっていることは、収入が減ってもいいことを理解することである。それが理解できるだけで不安の大部分は消えていく。

そして、思いっきり祝祭を祝祭として楽しむことができる。仲間たちと語らいながら、うんことして垂れ流すだけの食べ物を腹に詰め込んで、腹一杯で寝る。それは楽しい。楽しむだけ楽しめばいいのだ。

そして、別の時間は食以外の祝祭を楽しむ。僕の言葉で言えば人生を余暇で埋め尽くすのだ。きっと楽しいと思う。

余暇とは、自発性に基づいた行為に取り組む態度を意味するのだが、このことは必要性に駆り立てられていないことを意味しない。例えば僕にとって『労働なき世界』という本を書くことは紛れもなく内発性に基づく余暇だったが、同時に「この本はこの世界にとって必要だ」と感じながら書いた。つまり、必要性に迫られて書いたものだ。内発性と必要性は両立する。より正確に言えば、必要性は内発性を通過して発露される(生命の必要性とそれ以外の必要性は、先述の通りあまり区別できない)。

では、「本を書け!」と嫌いな上司に命令されていたならどうだろう。この場合は強制性(これもある意味で必要性とも言える)からスタートし、そのまま内発性に変換されない可能性もあるが、嫌々書いているうちに楽しくなってきて、強制性を通り越して内発性に変わる可能性もある(『夜と霧』とはそういう本であった)。

こういう奴隷道徳を内発性に変えられるのが、僕たち人間の強みでもあり、弱みでもある。もし世界中の社畜が幸福に満ち溢れているのなら、24時間戦うことを僕も止めないだろう。だが、強制性を内発性に変換するプロセスは曲芸じみていてむずかしい。

脱線してきた。食の話だった(内発性と強制性の話は、また別の機会に論じるとしようか)。

といってもオチはない。美味しいご飯を、無意味に食べよう。それでいっか。

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