金が生む責任感は果たして必要か?
僕は仕事において〆切を破ることはほぼない。というか、記憶にない。なんだかんだ言って真面目なのだ。
なぜ僕は〆切を守るのか? それはお金をもらっている責任感のおかげなのかもしれない。
お金をもらっていない趣味活動においては、中途半端なまま放り投げているものはたくさんある。曲にしようと作りかけて放置しているラップ詩も、アイデアをメモして放置している小説のネタも、作りかけのラージャン装備も、無数にある。
このように考えれば、お金をもらう仕事でなければ、何かを成し遂げることは難しいと結論づけることもできる。しかし、果たして本当にそうだろうか?
人からの誘いを断るのに、仕事以上に使い勝手のいい断り文句は存在しない。仕事はなによりも優先すべきものであると誰もが認識しているからだ。
そして、仕事を優先しているうちに可処分時間が消え、申し訳程度の自由時間はそのほかの誘いや家族サービスに消え、そうこうしているうちに趣味の時間が消失する。
ならば、もし仕事がなくなり、趣味がなによりも重要な世界がやってきたら、「ごめん俺今日ラップ作りたいから行かれへんわ」という断り文句が力を持つとは考えられないだろうか。
そうなればラップを作ることとか、小説を書くこととか、畑を管理することとか、家の中にリサイクル工場を作ることとか、デモ行進することとか、そういうプロジェクトも着実に進行できるのではないだろうか。
お金が責任感を生み出しているのではなく、お金がお金を生まない活動への責任感を圧迫しているのだ。
例えばベーシックインカムが実現し、お金を第一義に考える必要がなくなったとき、人はもっと有言実行になれるのかもしれない。
ベーシックインカムが実現すれば、誰もやりたがらないトイレ掃除とか、道路工事とか、そういうものに取り組む人がいなくなるという反論も一理ある。だが、なんだかんだ言って誰かがやるのではないだろうかという気もする。
家事労働には賃金が発生していないのに、誰しもが家事をしている。今の日本でも、同居人に掃除とゴミ捨てを押し付けあった結果、誰も自分の家を掃除せず、そこらじゅうにゴミ屋敷が溢れているという事態が起きているわけではない。誰しもが無償の労働に取り組んでいるのだ。それは怠いことではあるが、なんだかんだ誰かがやるのだ。もちろん僕もね。
デヴィッド・グレーバーは、資本主義の基盤にはコミュニズムがあるとよく言っていた。その通りだと思う。合理的経済人になりきって費用便益計算をしている時間なんて、僕たちの人生のごく一部だ。なんの得にもならないのに、同僚にコーヒーを奢ったり、職場のゴミ捨てを手伝ったりしている。
(まぁ、僕は1回の飲み代を奢るよりも30回の缶コーヒー代を奢る方が慕ってくれるからコスパが良い理論を提唱していて、思いっきり費用便益計算をしているわけだが、これは半分ジョークだ)
金というよりも、誰かの期待のために人は行動するのかもしれない。水道工事が得意な人には、誰もしもが期待する。ならば水道工事をやらずにはいられなくなるだろう。人手が足りなければ誰か手伝ってくれるだろう。水道は必要なのだから。
仕事やお金という概念は、人の善意や労働力を分断して、効率な悪い形で組織化している。お金が生む責任感なんてものはマッチポンプなわけだ。
てなわけで、そろそろ金を手放してみないか人類?
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!