見出し画像

vol.33 岡本かの子「鮨」を読んで

素敵な文章にほれぼれした。なんとうまい文章なのだろうと思った。前回の「老妓抄」と同じく、この「鮨」も心に柔らかい感情を残してくれる。

鮨屋の常連客で50歳ぐらいの男性「湊(みなと)」の息がかかるような描写がいい。彼の生まれや育ち方、現在の心境や生き方などを探ると、この作品に込めた作者の思いが伝わる気がした。また、鮨屋の看板娘「ともよ」にある「湊」に対するあやふやな感情描写が、この作品をさらに深いものにしていると思った。

この小説は大きく分けて前半と後半がある。前半は、東京の下町の「福ずし」という鮨屋を舞台に、その店の看板娘「ともよ」とその店に集う客との関係や、「ともよ」の内面を描いている。後半は、その鮨屋に来る男性客「湊」と「ともよ」が街で偶然出会った時、「ともよ」が「湊」に「あなた、お鮨、本当に好きなの」と問われ、「湊」が子どもの頃の育った環境を語り出す。

前半の「ともよ」と後半の「湊」は、ともに「生きにくさからくる孤独」とか、「流れに乗れない疎外感」のようなものが重なっていて、似た者同士だと思った。

それにしても、作者はこの「湊」という幽霊みたいな男を、どういう意図で登場させているのか、ここがこの作品の味わい方だと思った。しかし「湊」には分からないことが多い。

「湊」は子どもの頃、現在の生みの母は大好きだが、他に「お母さん」と呼ぶ女性がどこかにいそうな気がしていた。どういうことだろう。

「湊」は子どもの頃、食事が苦痛だった。体内へ、色、香、味のある塊を入れると、身が汚れると思っていた。腹は減るが死んでも構わないとさえ思っていたが、母に辛い思いをさせたくなく、頑張って食べたが全部吐いてしまう。母親以外の女の手が触れたと思う途端に、胃袋が不意に逆に絞りあげられた。この極端な状況はなんなんだろう。

「湊」の母親は、なんとか我が子を健康な体にしようと、「湊」を縁側に座らせ、玉子焼鮨を握って食べさせようとする。母親が目の前で握ってくれた鮨を一つ食べると、「体を母に拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた香湯のように子どもの身うちに湧いた」とある。

このシーンは、感動的だった。母と子の温かさが心にしみこんでくる素晴らしい描写だと思った。母親の我が子に対する愛情がにじみ出ている。岡本かの子自身も、我が子次男を亡くしている。太郎同様に深い愛があったに違いない。

「湊」は母が握ってくれた魚の鮨も続けて食べた。そして、中学へ入る頃は見違えるほど美しくたくましい少年になった。それとは反対に家は潰れ、大学を出た頃には父母や兄姉は死んでしまう。2度目の妻も死んで、50近くになったとき、投機で儲けてたので職業も捨て、一所不定の生活をしている。

なんだか得体のしれない、不思議な「湊」。そこにこの作品の味わいがあると思った。

ちなみに、「湊」が買った「ゴーストフィッシュ」という「骨が寒天のような肉に透き通って」いる観賞魚、YouTubeにあった。動画を見た。半透明で頭でかくて目が大きく、幽霊のようにフラフラと泳いでいた。これは「湊」自身ではないか。また、「ともよ」が買った河鹿もYouTubeにあった。こちらは夏に美しく鳴くカエル。これは「ともよ」自身か。いい比喩だと思った。

そしてますます岡本かの子が気になった。彼女の写真をじっと眺めてみた。画家岡本太郎の母である彼女は、愛の生活をバクハツさせていたようだけど、「メイクバッチリのふとったおばんさん」からは、太陽のようなエネルギーを感じてしまった。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?