紅葉
「三島コハルの仲間か?」 階段の下に向かって、柊ナナはそう声をかける。 ――返事は無い。ブラックライトを点けると、ぱっと地面に足跡が浮かび上がる。建物の死角になっている場所に、フードを被った男が一人。 コハルは柊ナナに危害を加えたいという訳ではない。とすれば、少なくともこの男は三島コハルや小野寺キョウヤの仲間ではないのだろう。 柊ナナはポケットに手をやる。ナイフ、フォーク、プラスドライバー。それに、化粧水の瓶に入れた催涙ガス。万が一職質に逢っても乗り切れるも
それからしばらくの間、何事も無く。 柊ナナは派遣のバイトに向かい、日銭を稼ぎ、時々起きてはテレビなんかを見ているミチルと話をし、一緒のベッドに潜る。 そんな生活をしていた。 コハルから預かったケータイには充電器が無かった。それくらい自分で用意しろということだろうか。いま使っているものとは違う物だったのでわざわざ買いに行き、コンセントに差しっぱなしにしているが、未だ連絡は一度も来ない。あくまでコハルは柊ナナからの連絡を待っており、自分からアクションを起こす気は無いの
アパートに戻ってしばらくして、ミチルが目を覚ました。 あんな話をした後なので気にかけていたが、何事もなかったようで安心した。 帰りに買ってきた食材を冷蔵庫にしまう。コハルに不摂生を指摘されたからではない。ただの気まぐれだ。 冷蔵庫を閉めると、ミチルがこちらを覗き込んできた。 「どうしましたか?」 「いえ。ナナしゃん、昨日はなんだか不安そうな顔をしてました。今日は元気そうで、わたし安心しちゃいました」 「それは......」 気のせいだろう。だって、今日は仕
帰り際、柊ナナはコハルから一台のケータイ電話を受け取った。 スマホではなく、ここに来て所謂ガラケーである。 「金持ちというわけではないが、流石にスマホくらい持っているぞ?」 「いくら暗号化して通信しても、柊のスマホは監視されている可能性が高いわ。私との連絡にはそれを使って」 パカッと開く。懐かしい感触だ。時刻と日付、そして――壁紙には、何故か学生時代のミチルの写真が設定されていた。 「……」 「何よ、そんな目で見ないでくれる? 嬉しいでしょ?」 「まあ……」
「私が……」 柊ナナは暗殺者だった。いくら引退したとはいえ、無罪放免というわけにはいかないだろう。今でも恐らく、遠くから何者かに監視されているだろう。 だが――曲がりなりにも島から開放されたのだ。それなりに軍からは信用されていると思っていた。 コハルの話はこうだ。 鶴岡はじめ軍の人間は、柊ナナを暗殺者として育てるために洗脳を施していた。当然である、いくら能力者殺しの目的があるといえど、人間の形をした動物を殺すのに抵抗が無いわけがない。 古今東西、洗脳の方法は
「いらっしゃいませー」 小さな喫茶店だ。二人がけのテーブルとカウンター席。ぴかぴかに磨かれた焙煎機、壁に掛けられた名画のレプリカ、古いレコードから流れるジャズ・ミュージック。良い雰囲気の店である。 「ブレンドを二つ」 「はい」 コハルはテーブル席の窓側に腰掛けると、おしぼりを持ってきたウェイトレスの少女に声をかけた。高校生......中学生のアルバイトだろうか? いや、中学生はアルバイトができない。家の手伝いか何かだろうか? ――そんなことはどうでもいい。 「
何度かコンビニの派遣に行き、何度か私用でコンビニに行った。 先立つものがない生活は瞬く間に時間が過ぎるが、先立つものがある生活は光の速さで時が経つ。 週末。 前日は少し多めに酒を飲んだ。コハルが置いていった酒だ。 そのせいか、起きたら夕方だった。 急いで身支度をする。ジャンパーを着て玄関を出ようとする。 ミチルはまだ眠ったままだ。少し肌寒くなってきたことに気付き、タオルケットの上から薄い毛布を掛けた。 「行ってきます」 返事は無い。 喫茶店まで
どいつもこいつもナイフを持ち歩きすぎである。 自分自身もカッターナイフをいくつか忍ばせていることを棚に上げ、柊ナナは憂慮していた。 「ふぁ......どなたか、いらっしゃってたんですか?」 ビールの缶やら皿なんかを片付けていると、ミチルがリビングからひょっこりと顔を出した。 「ええ。起こしてしまいましたか?」 「大丈夫です。でも、ナナしゃんこそお疲れではありませんか?」 そう言って、ミチルは柊ナナの背に抱きついた。 柔らかくて、ひんやりと冷たくて、ほんの
味はそこまで悪くなかった。 「で、本題なんだけど」 「うん?」 「ミチルちゃんを私達で預からせて欲しいと思っているの」 「......私達、と言うと」 私達、と言うことは組織的な何かなのか。どのみち柊ナナはミチルを引き渡すつもりはない。今の生活が不安定で危険なものであることは百も承知だが、ミチルがいなければ何の意味も無い。 だが、そんなことはコハルも承知である。そもそも、家から一歩も外に出ていないミチルの存在を知られている。他に強力な能力者があるのか。果たして――
ビールを一缶ずつ空け、それまで何を語でもなくコハルは台所に立った。 「食器とか......なんか色々勝手に借りるわね」 「ああ」 包丁、まな板、フライパン、鍋。料理はしないが、一通りは揃っている。ミチルも食べるならと買いそろえてみたものの、そうでもないと知ってからはほぼほぼコンビニ弁当で済ませているためほぼ新品である。 コハルは冷蔵庫にしまった食材を取り出す。ベーコン、プチトマト、スライスチーズ。適当な大きさにカットして、油を敷いたプライパンに次々と放り込む。
十数分後。コハルはコンビニの袋を両手に持って帰ってきた。 「悪いな」 「気にしないで。あ、玄関の塗料はちゃんと避けたわよ」 「ははは」 コハルは靴を脱ぎ、冷蔵庫を開ける。ビニール袋の中身を次々入れていく。どうやら、柊ナナの食生活を慮って何かと買ってきたようである。 「......気を遣ってくれるのはいいが、私は料理しないぞ」 「分かってるわよ。生の食材は今日明日の分だけ。後はほとんど冷凍食品」 今度は冷凍庫を開け、もう一方の袋の中身を移していく。冷凍チャーハ
玄関で靴を脱ぐ。コハルはバイクに乗るのに適したライダーシューズを履いていた。この玄関に、柊ナナ以外の靴を置くのは初めてのことだ。 「ここが......」 「ここはとはなんだ」 「ミチルちゃんとの愛の巣というわけね」 「......」 ミチルは先程カメラで確認したときと変わらずソファの上で眠っていた。柊ナナが帰ってくると必ずといっていいほどすぐに起きるのに、珍しい。 後ろからコハルが顔を覗かせる。 「ミチルちゃんは?」 「眠っている」 「そうなのね......な
「そう言えば、バイクはどこに置いてきたんだ?」 「近くのコインパーキングに」 「案外律儀なんだな」 「高い買い物だったのよ」 最初見たとき、見覚えがある、いや警戒心からかひどく自分とはかけ離れた人間のように感じたが、こうして隣に並ぶと、短く揃えた暗めも髪といい容姿と言い、なかなか様になっている。似合っている、と言っても差し支えないだろう。 「今はミチルちゃんと二人で暮らしているのよね?」 「ああ......と言うか」 なんであんなまどろっこしい演出をしたんだ。
バイトの大学生と休憩時間を代わり、バックヤード。 スマホのアプリを開き、VPN*経由で自宅のネットワークに接続。部屋の各所に設置した監視カメラを確認する。 飲みかけのコップが机の上に一つ。ミチルはソファで眠っている。ミチルは基本的に柊ナナが自宅にいないときは眠っているが、流石に人が入ってくるような物音がすれば起きる。ということは、まだ家には誰も入っていないと考えられる。 六十四倍速で巻き戻す。ミチルは時々起きては寝返りを打ち、時々タオルケットを持って移動して眠
コンビニに着く。 「あ、お疲れ様ッス」 「お疲れ様です」 今日は店長はいない。バイトの大学生と二人だ。 「掃除と品出しも終わってるんで。先に休憩頂きますね」 「はい」 柊ナナは営業スマイルで返事をする。バイトの大学生は振り向きもせず煙草を咥えてバックヤードへ戻っていった。 「さて……」 特にすることもない。朝のピークの時間はとうに過ぎ、客足も落ち着いている。店内には誰もいない。 掃除なんかはバイトの彼が先に済ませてくれていたようだし、客がいないので商
それからしばらく経つが、来訪者はいない。 時々アパートの床に塗料を塗り直し、時々工場の派遣に行き、それなりの頻度でコンビニの派遣に行く。そんな生活だ。 「行ってきまーす」 返事は無い。柊ナナは部屋の鍵をかける。一見普通の鍵に見えるが、管理会社に無断で取り付けた米軍採用の鍵だ。 たとえ銃でも簡単には壊せない。柊ナナが仕事に出ている時は概ねミチルは寝ているので、うっかり内側から鍵を開けてしまうこともないだろう。 靴を履く。なるべく塗り直したばかりの塗料を踏