母への感謝と愛と、ごめんなさい ~想像外のギフトを今受けとって~
はじめて気づけた、感謝と謝罪があります。
それは、ずっと当たり前にあった「母」から「娘」への愛…
早くに自立を余儀なくされたわたしに、いちばん心を痛めていたのは
なにより母であったこと。
ほんとうは、「いつでも傍にしてほしい」「いつでも帰ってきて」と
願われて、わたしを見送っていたのだと…
「遥かに深いレベルで、わたしは愛されていた」のだと
思わぬきっかけから気づけて、急に水分が止まらなくなりました。
わたしサイドの“よかれ”は、母を思い、自分の未来も願っての自立。
でも、“本当のほんとうのよかれ”は、その逆で
たとえお金が掛かっても、わたしが傍にいてほしかったと…
毎日さみしくて、
「いつかの時には、いつでも帰ってこられるように」あるお金を掛けてくれていたところを
わたしは、“わたしなりのよかれ”でそれを止めてもらって…
わたしなりの、母への愛で
「そのお金を未来のために」投資してもらえることが一番の愛と信じて、
母を家を、そっと後にしたのでした。
でも、なぜでしょう…
先日急に、湧いてきたのです。
ほんとうの親孝行って、何だったんだろうと…
母が、いちばん大切にしていた願いを、わたしは自ら
「母のために」「ちゃんとした未来への思い」とともに、退けた。
けれど
今ならすこしだけ、いえ遥かに大きなレベルで‘わかる’こと…
“ごめんね、本当に‘そう’だよね…”
“わたしも、きっと母ならそう思っただろし、そうしたかったはず…”
ある夢を、「お金を掛けても」したいと思ってくれていたハハごころ。
それを、「その分母たちのために」と思って拒否した、娘ごころ。
そのどちらにも、たしかに愛があるはずなのに…
わたしは、もしかしたらただ「受けとれば」よかっただけなのかもしれない
わたしの方が‘ほんとうの愛’から素直に折れていたなら…
母を、陰ながら泣かせてしまっていたこと、ほんとうに心から
「ごめんなさい」と言える娘にやっとかえってこられました。
娘が、親の心配なんてしなくていい
娘は、もっと親に甘えたっていい
なのに、3才くらいの頃かな??
なぜかわたしは「ぜったいハハを困らせない」「わたしは母を守るんだ!」
「ぜったいにグレない(笑)」となぜか心に誓っている記憶があって。
ずっと頑なだったけれど、
“母のほんとうの痛み”を知って、考えるより前に水滴があふれたことで
わたしたちは、初めて“一つ”になれた気がしています。
「素直に受けとる」って、まだ少しむつかしい…
相手目線すぎたり、先や未来の幸せをほんとうの意味で願えるからこそ、
「自分<相手」となれるその優しさも。
ほんとうの意味で、幸せでありたいなら
やっぱり「自分≧相手」なんだなって♪
余計な相手目線はいらない。
そのままストレートに受けとって、よろこんでいる時のわたしの姿や笑顔が
ほんとうの母への贈り物で、愛と感謝につながっていく…
わたしは、母のお腹の中から生まれてこられたこと、誇りに思うし
母が叶えられなかった願いは、わたしがちゃんと譲り受けることで
きっと報われるはず…♪
さぁ、今日も「いのち」に感謝して、
その世界にたったひとつしかないオンリーワンな‘わたし’を生きていこうではないか♪
一度目のバースデー(この地球に生まれてこられた日)だけでなく、
究極親への感謝にも芽生えられる、二度目のバースデーを迎えられたときに
人はさらに‘ほんらいの’とても自由なわたしを生きていける。
(くわしくは本編に♪
究極‘わたし’を生きるプログラムにもなっているので
さらに深い部分から概念を越えて“愛と自由”を生きていかれたい人に
おすすめです♪)
たくさんの、想像をこえる宇宙レベルの愛と、伝わる奇跡と
「わたし(素直でナチュラルな使命)を生きる」こと。
ぜひ、もっとお伝えしていきたいな♪
(セッションページもこちらにありますが、またおつくりできれば*
たぶんわたしは“個別”が好きで、それは
「聴く」ができない自己表現はただの自己満足(洗脳になる)
とも思っているから…
ぜひ間違えないように‘あなた自身’のプログラムも、愛の音もお聴かせくださいね♪)
ではお腹を痛めて、産んでくれた母への感謝…
そして父への感謝。
まだまだ、人生はここからもさらに続きます♪
が
ひとまずここまで長文、お読みくださりありがとうございます。
ご厚意に感謝いたします!