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樋口一葉とは|「奇跡の14カ月」で女流作家の道をひらいた天才

樋口一葉という作家には、いまだに熱狂的なファンが多いと思う。女流文学者の最初期に活躍した作家であり、その波瀾万丈な24年の人生には感動すら覚える。まさに「駆け抜けた」という言葉がぴったりとハマる作家です。

彼女は女流アーティストとしてのカルチャーを生み出した、ともいわれる。松任谷由実や椎名林檎への影響を語る書籍もあるくらいだ。椎名林檎に関しては歌詞にちょいちょい出てくる花魁言葉、また東京事変のキーボードに「伊澤一葉」と名付けるくらいには影響を受けているだろう。

今回はそんな永遠のカリスマ・樋口一葉について、その生涯から全盛期の作品、またその独特すぎる文体などを、みんなでみていこうじゃないか。

樋口一葉の24年の生涯

日本が近代化に向けて走り出した1872年に樋口一葉は生まれる。本名は樋口奈津。男2人、女3人の5人兄妹だった。父の則義は士族だったため、生まれた際は裕福な生活をしていた。

一葉は7歳のころから読書好きで、倉庫に入っては江戸文学の草双紙を読んでいた。小学生にして滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を3日で読破するほどの文学少女だったんです。

成績も優秀で進学を考えていたが、母から「女は針仕事と家事だけやってればいいの」と反対されて泣く泣く断念する。落ち込む一葉を見かねて、父は知人の和田茂雄に頼み、通信教育で和歌を学ばせた。

その後、14歳で一葉は中嶋歌子が主宰する「萩の舎」に入学し、本格的に和歌を学び始めた。読み書きや文学を教える公文式みたいなイメージで大丈夫です。そのころの萩の舎は全盛期で、のちに世に出る詠み手がたくさんいたが、一葉は入門半年で最高点を獲得するほどの才能を見せつけた。天才だったのだ。

そこで友人ができたのも、一葉にとっては大きかった。伊藤夏子、田中みの子の2人とは家が近く、生涯の親友となった。また田辺龍子とも出会う。この田辺こそ、明治以降で初めて女流作家としてデビューする、のちの三宅花圃であり、三宅がいなかったら樋口一葉は存在しなかった。というほど影響を与えた人物ですので、アンダーライン引いてください。

そんな一葉の転機は1887年、15歳にして訪れた。長男の泉太郎が気管支炎で亡くなったのだ。この場合、次男の虎之助が家督を継承するのが常だったが、彼は家族との折り合いがつかず、陶芸を学びに遠方にいたので難しかった。また長女はすでに嫁いでおり、結局のところ一葉が家督相続をする。

また1889年7月、事業が失敗したうえに息子を亡くした心労がたたって、父が亡くなる。一葉17歳のときだった。父親の事業失敗ですでに借金を背負っていたなか、大黒柱がいなくなったことで、樋口家は一気に困窮することになるんです。

1890年9月に一家は引っ越しをして、家族は内職を始めた。しかし内職ではどうしても生活できない。父の友人から借金しながら、なんとか生計を立てるも、仕立て仕事だけでは、ままならなかった。

「何か逆転できる術はないかしら」と考えていた一葉は、姉弟子の三宅花圃が1888年に小説「藪の鶯」で、33円20銭の原稿料をもらって兄の法要を済ませたことを思い出した。当時の警察官の初任給が8円くらい。1円が今の2万5000円くらいの時代だ。85万円弱もらえたことになる。

この件を受けて、一葉は「よし私も小説を書こう」と思い立つのである。ちなみに「藪の鶯」は明治以降で初めての女流小説であり、三宅花圃の成功を受けてたくさんの女性が小説家を目指し始めたそうだ。一葉もそのひとりだったんですね。

そこで19歳にして、妹・邦子の友人、野々宮菊の計らいで、東京朝日新聞記者の半井桃水を紹介してもらう。彼は記者だったが、自身で小説も書いていた。そこで、なかば押しかけ女房的に桃水に弟子入りをする。そして桃水の勧めで「一葉」というペンネームにした。

「一葉」の由来は「インド僧の達磨が一枚の葉に乗って中国に渡り手足を失ったこと」と「貧乏(お足がない)」を掛けたことだ。この名前は桃水から名付けられた。

一葉は桃水が主宰した同人誌「武さし野」で、1892年に20歳で「闇桜」を書き下ろす。片想いの女性の悲恋を描く切ない話を描いた。その後も桃水の指導のもと「たま襷」「五月雨」などを発表する。

このころは桃水のパイプもあって、甲陽新聞などでも書いているが、一葉自身が望んだほどの収入はなく「武さし野」も3巻で廃刊となった。まったくと言っていいほど、一葉は評価されていなかったんです。

このころの筆致は、桃水の影響をもろに受けている。一葉と桃水は付き合ってはなかったが、ほぼ両思いの関係だった。しかし結婚を前提にしていない男女が付き合ってると白い目で見られる時代だ。

そんなとき萩の舎で「ちょっとあんた桃水と付き合ってんの?」と詰められたので、一葉はいやいや桃水との師弟関係を断たざるを得なかったんです。

その後、一葉は三宅花圃に「どこか書けるところないかなぁ」と相談。三宅は「よっしゃ、任せとき」と、雑誌「都之花」を紹介。一葉は小説「うもれ木」を書き上げて文壇デビューした。原稿料は11円75銭。ひと月7円ほどで暮らしていた樋口家にとっては大金だった。

そして「うもれ木」は、一定の評価を得ることになる。三宅花圃は「ねぇ文學界で書かない?」と一葉を誘った。一葉はもちろん承諾し、21歳で「雪の日」を書いた。ここから北村透谷など、文學界の同人でありロマン主義作家との交流を深めることになる。

しかし継続的に執筆料が入るわけではなく、樋口家の生活はどんどん厳しくなる。質屋でモノを売って生計を立てる生活だった。そこで内職だけではなく商売を始めることを決意する。一家は転居し、龍泉寺という遊郭・吉原の目の前に越した。

一葉は「この家は吉原のなかにあるんですけど……なんか車の音とか灯火の光とか……もうなんと例えればいいか分からないです」と当時の生活の変化を日記に書いている。

吉原付近では貧しい人が多く、樋口家は雑貨や駄菓子などを売っていた。しかし単価が低くて、あまり利益は出なかった。また向かいに同業者が出てくると、さらに売り上げは減る。その結果、悲しいかな、わずか10ヶ月で店を畳むことになった。

しかしこの遊郭・吉原での経験によって、彼女は貧しい人々のリアルな暮らしを知ることになる。もともと富豪だった身から、貧乏生活に直下した一葉にとって彼らの暮らしは衝撃だった。まさに一葉の発想の原点はここで生まれたわけだ。

一葉は転居後、萩の舎で先生になる。これによって月に2円(5万円くらい)の給料をもらった。そして吉原の暮らしを経験した一葉は、今まで以上にエネルギーを持って筆を握ることになるのだ。

なんと1894年12月の「おおつごもり」から1895年2月の「うらむらさき」までの14カ月間に、11もの作品を執筆したわけである。

なかでも「たけくらべ」は文學界の面々や、当時大物だった斎藤緑雨から絶賛された傑作だった。また「にごりえ」「十三夜」などの作品も話題になり「とんでもない女流作家が出てきた」と、にわかに文学者のなかで話題になる。

当然、一葉のもとには執筆依頼が殺到。また、文人たちが樋口一家を訪れて寿司や鰻を振る舞うなどし始める。1896年に「たけくらべ」が公開されると、森鴎外、幸田露伴らが絶賛。ついに彼女の作家人生が報われる……かに思われた。

しかし1896年4月時点で、一葉の体は当時不治の病だった肺結核に蝕まれていた。しかもすでに末期症状だったのだ。

一葉はとうとう執筆に着手できなくなり、このあたりから長年つけていた日記も途切れている。自身も医者である森鴎外は「この才能を終わらせてはいけん」と名医を紹介して一葉を診せる。しかし1895年8月の新聞には医者から「病状絶望」とのコメントがあるとおり、もうどうしようもなかった。

そして1896年11月23日午前、樋口一葉は文壇が新作を待ち侘びるなか、24年の生涯を閉じることになった。最期の2年間は、まさに「駆け抜けた」といっていい人生だったんです。

樋口一葉の奇跡の14カ月

短命でありながら「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの名作を世に送り出した樋口一葉。これらの名作は、すべで1894年12月から1895年2月までの、14カ月の間に出されている。後年「奇跡の14ヶ月」と評されることになる期間だ。

奇跡の14ヶ月で書いた小説

・大つごもり 1894/12
・たけくらべ 1895/1
・軒もる月 1895/4
・ゆく雲 1895/5
・随筆 1895/9〜10
・雨の夜―そゞろごと
月の夜―そゞろごと
雁がね―そゞろごと
虫の声―そゞろごと
・うつせみ 1895/8
・にごりえ 1895/9
・十三夜 1895/12
・この子 1896/1
・わかれ道 1896/1
・うらむらさき 1896/2

小説を書いたことがある人なら分かるだろう。14ヶ月で11作品を書くことがいかに大変か。どれだけの頭の回転が必要か。かつ速記すると指から肩までめちゃめちゃ凝る。フィジカル的に速記する力も要るわけだ。もちろんメンタルも健やかに保たねばならない。

いや若干訂正するならば、何の変哲もない作品ならばさらさら〜っと書けるかもしれない。一葉がすごいのは、この14ヶ月で当時大絶賛の嵐となり、かついまだに語り継がれる小説を何本も書いたことだ。

この背景にはもちろん「貧乏」というハングリー精神があった。「家督として一家を支えなければ」という思いもあっただろう。実際のところ「にごりえ」のテーマは「貧乏な暮らしと希望」だ。

ただそれ以上に、吉原近くの龍泉寺で見た光景が創作意欲になったのだと思う。「地方から連れてこられて無理やり花魁言葉を喋らされる遊女たち」「そしてその貧しい子どもたち」の姿。これらは樋口一葉の創作意欲を掻き立てたのだろう。

その独特すぎる文体は、誰にも真似できない

「たけくらべ」は、まさにそんな花魁の話だ。実際に読んでいただくと分かるが、リズム感がめちゃめちゃ気持ちいい。五七調を多用しているのがよく分かる。これは彼女がもともと和歌出身だからだろう。

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火ともしびうつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來ゆきゝにはかり知られぬ全盛をうらなひて〜(後略)
樋口一葉「たけくらべ」より

こんな感じで、ほぼほぼ句点が登場しないのが樋口一葉の真骨頂だ。しかし不思議とまったく読みにくくないのである。まるで落語を聞いているように、すらすらすら〜っと読めるのは、リズムの歯切れがいいからに違いない。最近だと、町田康や川上未映子など、関西出身の小説家の文体が近いかもしれん。

また当時はすでに二葉亭四迷が言文一致体を発表していたが、樋口一葉は雅文体を貫いた。幸田露伴などとともに理想主義、またロマン主義に移行し「古き良き日本語を残そう」としていた。

樋口一葉は幼いころから江戸戯作文学に親しんでいたので、雅文体を使ったのはめっちゃわかる。まだ「けり」とか「なり」とか使っているわけですな。

樋口一葉は「物語を書く喜び」に目覚めていたはずだ

樋口一葉の「奇跡の14カ月」はたしかに困窮のなかにあった。「稼がねば」という精神が名作を生み出す原動力になった部分はある。これは間違いない。

しかし彼女の飛ぶように身軽な文章を読んでいると、まったく鈍重な雰囲気は感じないんです。もともとお金持ちだった彼女は、父親を失って借金を背負った。恋人も失い、もはや目の前には小説しかなかったのではないだろうか。そう考えると、彼女の最期の数年間は非常に身軽だったともいえる。

もともとお金を稼ぐために始めた小説であったが、物語を書く喜びに目覚めていたはずだ。「借金を返すために執筆する」というモチベーションでは、筆は遅くなるに違いない。このスピード感は「楽しさ」がないとできないと思うんです。そこには純粋な文学への愛があったのだろう。

だからこそ私は「樋口一葉は5000円札の中にいるべきじゃない」とも思ったりするんです。樋口一葉はたしかにお金のことを考えていたけれど、お金なんかじゃ評価できない「創作」という素晴らしさを極めたように思えて仕方ないのだ。

その結果、お札になったのはもちろん分かる。でも、だからこそお金に縛りつけるのは少し皮肉が過ぎるんじゃないか……なんてひねくれたくなっちゃうんですね。

雅文体なので、ちょっとばかし読みにくいが、ぜひ樋口一葉の物語を読んでみてください。ストーリーとしての素晴らしさはもちろん、その軽やかな文体からは多幸感を覚えるに違いないでしょう。三宅花圃が女流作家の第一歩を踏み出したとしたら、樋口一葉は間違いなく「女流作家が活躍するための轍」を作った人物なんですね。

また何より樋口一葉自身の、もはやトリップしたかのような集中力物語を書く喜びを感じるに違いありません。

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