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坪内逍遥とは|戯作・歌舞伎など日本文化を変えた革命家【小説神髄の解説】

江戸時代の「南総里見八犬伝」やら「東海道中膝栗毛」などの作品に「なんとなく昔の古い作品」というイメージを持ってしまうのは私だけだろうか。それに対して明治期の「浮雲」やら「たけくらべ」などの作品は「距離が近くて親しみやすい雰囲気」を感じる。

このイメージは「坪内逍遥が作り上げた」といってもいい。さらにいうと、いまの小説、演劇の多くは坪内逍遥なくしては生まれなかったともいえる。

彼は日本文学史において、明確に区切りをつけた人物なのである。

今回はそんな日本文学史の大スター・坪内逍遥について「何がすごいのか」「なぜ重要人物なのか」を生涯を振り返りながら見ていくとしよう。

坪内逍遥という革命家の生涯

坪内逍遥、本名・坪内雄蔵は1859年に今の岐阜県美濃加茂市で、10人兄弟の末っ子として生まれる。ペリーが来てから6年後、まだ江戸時代の後期のことである。

父親は江戸幕府で農政を司る部署にいた。農林水産省で働く公務員という感じ。しかし1867年、坪内が8歳のときに明治維新が起きる。父の仕事がなくなり、実家のある名古屋に移る。

10人兄弟の末っ子ともなると、親含め11人からめっちゃ愛されていた。家には読み物がたくさんあり、坪内逍遥は幼いころから文学少年だったそうだ。

彼は江戸時代の戯作を読み耽り、さらには俳諧や和歌にも触れ、特に滝沢馬琴がお気に入りだった。当時の馬琴は人気作家なので、今でいうと伊坂幸太郎を読む小学生みたいな感じである。

さらに当時から、よく演劇を観に行っていたらしい。ここが坪内逍遥の生涯を決めるので、要チェックだ。

そのころ、全国8カ所に外国語学校ができ、15歳になった坪内逍遥は愛知外国語学校に進学。卒業後は東大の前身・東京開成学校に進み、24歳で東大文学部を卒業することになる。

当時の同窓だった高田早苗(のちに早稲田大学の初代学長になる)と仲良しで、彼の影響から坪内逍遥は西洋文学にも親しむようになった。つまり「戯作にまつわる日本文学」と「それまでの伝統的な小説から脱却しはじめた西洋文学」の両方の知識を24歳にして会得し、しかも比較し始めたのである。

25歳にして「小説神髄」を発表

そんな坪内逍遥が若干25歳で書いた評論が「小説神髄」だ。前後編からなるこの本は当時の日本文学をガラッと変える破壊力抜群の話だった。

小説神髄とは一言で言うと「小説の書き方はもっとリアルであるべき」とした書だ。逆説的にいうと「江戸戯作に代表される、それまでの日本文学はちょっと浅すぎる」ということになる。

坪内逍遥はファンである滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を例に出して「いや、ちょっとまだ勧善懲悪やってんの? もうええわ」と書いた。それまでの江戸の戯作は、ほとんど勧善懲悪の決まりきったストーリーで、かつ荒唐無稽な話だったのである。

時代物を思い返してほしい。水戸黄門も遠山の金さんも、同じような感じだろう。「お主も悪よのう」からの「この印籠が目に入らぬか!」からの「ははーっ」である。もはやテンプレートだ。

坪内逍遥はそんな現状を見て、以下の名文を発表する。日本文学史に残る文章だ。

小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。
人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情欲にして、いわゆる百八の煩悩これなり。

文語体なので、今の言葉で書くと「小説ってそもそももっと心理描写とかいるやろ。で、その次が世間で起きていることだろ」となる。

当時、19世紀の西洋文学にはリアリズムブームが訪れていた。長年続いてきた古典主義から、幻想・誇張された現実を描くロマン主義に移行し「現実を見ろよ現実を!」と写実主義が生まれるわけである。

この背景には、キーワードとして「産業革命」があったのは間違いない。世界的にビジネス思考になり、だんだんとみんなリアリストになったわけだ。

代表作でいうとスタンダールの「赤と黒」がある。彼はもともとロマン主義の作家だったが、この作品で写実主義に方向転換した。

坪内逍遥はこの西洋文学の変遷を肌で感じていたのだろう。それで小説神髄をリリースした。

日本文学に心理描写が入ってくるのはこの後だ。そして自然主義、ロマン主義などの文学の潮流ができるのも、この後だ。小説神髄は日本文学を発達させるきっかけとなったのである。

26歳にして「当世書生気質」を出すも盛大にミスる

この頃の坪内逍遥のエネルギーはやばい。翌年には「当世書生気質」という小説を出した。これは「小説神髄にもとづいて書くと、こんな小説になりまっせ!」と自身で書いたものである。

しかしこの作品は評価されなかった。「おーい!まだ戯作の感じが残っとるぞ」と突っ込まれてしまうのである。

当時、坪内逍遥宅に通っていた二葉亭四迷は「こう書くんよこう」と「浮雲」を発刊。こっちのほうが手本書となった。坪内がオリジナルなのに、なぜかミスってしまったわけだ。もうほぼコントである。

そして二葉亭四迷は、ほぼ同時期に「小説総論」という評論を書く。これは小説神髄に足りない部分を補ったもので、坪内自身が「こっが正解です」と明言した。

31歳から小説家を諦めて演劇改良に

この事件を機に「小説向いてないわ」と悟り、31歳のときに出した「細君」を最後に小説家を捨ててしまう。では、何をしたかというと「シェイクスピアと近松門左衛門研究」だ。

自分のバックグラウンドである「江戸の日本文学(浄瑠璃)」と「西洋文学(戯曲)」にハマっていく。浄瑠璃も戯曲も演劇であり、坪内逍遥が幼い頃から好きだったものだ。ここから坪内逍遥は「戯曲の人」として第二の人生を始める。

坪内逍遥が参加した「演劇改良運動」とは

彼は小説をやめた後に「演劇改良運動」に参加している。これがおもしろい。演劇界も文学会とまったく同じく「歌舞伎? もう古いで! 荒唐無稽なシナリオばっかりやんけ」との声が起きていたのだ。

それで九代目市川團十郎が先導を切って「もう歌舞伎禁止な! 西洋っぽい演劇やろうな!」と改良を宣言。この運動は、なんと伊藤博文首相を巻き込み、歌舞伎役者は国から「外国人ウケすることをやれ」と伝えられた。伊藤のイエスマンっぷりがやばすぎる。

そして改良派は満を辞して西洋演劇を披露することになる。しかし蓋を開けてみると、批判の嵐であった。急に演劇が変わりすぎて、観衆がついてこれなかったわけだ。

そこに坪内逍遥が颯爽と参加する。自身が創刊した「早稲田文学」で、「桐一葉」という戯曲を連載しはじめた。この作品はもちろん舞台でも披露されるようになる。彼は当時、シェイクスピアオタクだったので、桐一葉もすんごい影響を受けていた。ユーモラスな悲劇。つまりシナリオは完全に西洋戯曲だったわけだ。

しかし彼が素晴らしかったのは「歌舞伎ファンも大事にした」ということ。形態としては、これまでの歌舞伎を守った。ちゃんと浄瑠璃を鳴らすし、太鼓も叩く。見やすい形にしたうえで、シナリオは西洋風にしたわけだ。彼はこの戯曲について「古き革嚢に新しき酒を盛る」と形容している。

その結果、坪内逍遥の戯曲は大好評だった。この成功を見て「フリーの作家による台本」という文化が流行る。もともと、歌舞伎というものは劇場のお抱え作家(座付き作家)が台本を書いていた。劇場とは何の関係もない坪内逍遥が、外様として脚本を書いて成功したことでフリーの脚本家が描くようになるわけだ。こうして書かれた歌舞伎を「新歌舞伎」と呼ぶ。

坪内逍遥は「新歌舞伎」というカルチャーを生んだ張本人であり、また日本に「西洋の演劇」という新たなものを作り上げた。小説に続いて、演劇にも革命を起こしたわけだ。

シェイクスピアオタクとして全作品を翻訳する晩期

坪内逍遥はこのあとも文学会、演劇会で活躍を続けることになる。なかでも後期からは生粋のシェイクスピアオタクとして活躍する。

32歳にして森鴎外と繰り広げたのが「没理想論争」だ。シェイクスピアには理想があるか否か、という問題を皮切りに「文学に理想は必要か」というテーマで大喧嘩をする。

一貫して坪内逍遥はリアリズムを貫く。「そこに理想なんて洒落臭いものはいらない!」というものの、森鴎外は「そもそも文学には理想が必要だ」というわけだ。この喧嘩は実は話が全然噛み合っておらず、最終的に坪内逍遥が「あ〜もう森鴎外めっちゃめんどい」と反論を無視して打ち切ることになる。しかしこの事件は坪内逍遥のシェイクスピアへの愛情を感じさせるものだったのは確かだ。

また50歳にして「ハムレット」を翻訳したのをきっかけに、とにかくシェイクスピアの書を翻訳しまくる。69歳ですべての作品を翻訳した。この偉業によって「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」が設立された。

そして78歳で気管支カタルにより死去。あらゆるカルチャーに革命を起こし続けた人生の幕を下ろすことになる。

「文明開花」の波に乗った日本文化の革命家

坪内逍遥なくして、文学や演劇の今はないだろう。それほどまでに彼が挙げた功績は大きい。この背景には「文明開化」があった。西洋文化が一気に明治の日本になだれ込んできたのだ。

坪内逍遥はその流れを見事に掴んで、日本で広めた天才だった。小説神髄なくして、今の文学はない。桐一葉なくして、今の演劇はない。まさにジャパンカルチャーの革命家だったのである。

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