現代文明の矛盾
BLMや戦争など、なにか大きい動きが報道されてピックアップされたタイミングにだけ、流れに乗って正論を掲げるひと。
意見は大いに正しいんだけど、そうだとしたら
チョコレートを買うたびにアフリカの貧困層のことを憂い、ガソリンを使って車を運転したりプラスチックや石油製品を使うたびに、中東の紛争やエネルギー問題について心配せねばならないよな、
と捻くれてる僕は思う。
そういうことではなく、ただ単に今だけ、ウクライナ人やアフリカ系アメリカ人の心配だけをしておけばいいのなら、別に自分のことや目の前の生活のこと、日本のことや音楽のことのほうを考えるよな、と思う自分がいて、自己嫌悪に陥る。
ウクライナ侵攻の裏で、ここ数日、アメリカがソマリアを空爆し、サウジアラビアはイエメンを、イスラエルはシリアを空爆したという。
プーチンは極悪だが、同じ問題意識をバイデンらにも向けられているのだろうか。戦争反対を今掲げている人たちは。
ガソリン車や電車に乗って移動し、
インターネットでコミュニケーションをとり、
毎日服を替え、風呂に入り、
世界各地の食料や料理を選び取って生活している限り、
それは間接的にどこかの戦争の一端を担っている
ということでもある。
本当に戦争反対、人を殺してはならない、として
誠実に生きるとしたら、
完全に自給自足で原始人のような生活をするしかない。
さもなくば死んだほうがマシか。
文学者がしばしば自殺願望を持ってたのって
こういうことか、とちょっと理解した。
文学や芸術の領域で、こういう世界のシステムの根幹まで触れて考えて生きる人って、ものすごく精神力がいるな。
『なんで、"戦争をしない"という、ただ簡単なことができないのだろう』と嘆くひとがいるけど、そういう人は、戦争に関連する技術と密接に関わっている現代の生活を捨てる覚悟があるのだろうか。
人類は、技術や利便性という魔物に負けた。
極端に形容すれば、『他人を殺しながら生きるか、自分が死ぬかどちらかを選べ。』と問われているようなものだ。
本当に正義に誠実に生きるなら、僕は死ぬしかないけど、やはり僕は生きたいし、便利なテクノロジーを手放すわけにはいかない。自分は死にたくない。
地球上の誰かが殺されているおかげで今自分は生きています、という業を背負って、生きるしかない。
文化的な部分においても。たとえば、音楽に感動するというピュアな体験。それがたとえ、西洋植民地主義や差別主義の土台があったとしても、もう電気やガスを使わずに現代で生きるのが不可能なのと同じように、西洋音階に支えられ、救われ、そこに生きていこうとするパワーが生まれてしまう。
死にたくないから、自分の目の前の生活のほうが大事だという欲に負けて、非情に生きていくしかないのだろうか。
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