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下流思考〜学ばない子どもたち、働かない若者たち

20240726

憲法には国民は「勤労の権利を有し、義務を負う」と定めている。「仕事をするか、しないか、それは私が自己決定することだ。法律でがたがた言われたくないね」とほとんどの人は思っているはずである。しかし、それが憲法に規定してあるというのは、労働は私事ではないからである。労働は共同体の存立の根幹にかかわる公共的な行為なのである。自己決定によってしたりしなかったりできるものではない。国民は労働の義務を負うというのはどういうことなのか。

「学ぶこと・労働することを拒否する人々」は必ずしも自分の意思でそうしているわけではない。彼らはそのような意思を持つようにイデオロギー的に誘導されている。

■学びからの逃走

「学びからの逃走」というのは、教育を受ける機会から進んで逃走してゆく子どもたちを指している。教育機会から、主体的決意を持って、決然と逃走するということは、当然にも遠からず「下流社会」への階層降下を意味するわけだが、そういう下降志向の社会集団が登場してきた。「学びからの逃走」は単独の現象ではなく、同時に、「労働からの逃走」でもある。この二つは同一の社会的な地殻変動の中で起きている。「学ぶこと」、「労働すること」は、これまでの日本社会においてその有用性を疑う人間はいなかった。もちろん、まじめに勉強しない人間や勤労を忌避する人間はいつの時代にもいたが、そのような行動が社会的に低い評価を受けることは本人も十分に自覚していたし、それがもたらすネガティヴな結果も覚悟していた。学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことであった。しかし、今、その常識が覆りつつある。

学習と労働について、これまでとは違う考え方をする新しいタイプの日本人、新しい世代集団が今生まれつつある。

これはいったい、どのような歴史的文脈から生み出されてきた現象なのか?

このまま若い人たちがぞろぞろと学びから逃走し、労働から逃走した場合に日本社会の先はかなり暗いものになる。この危機にどう対処すべきか?

日本の子どもたちは小学校高学年から中学校・高校にかけて、大多数が学校の勉強嫌悪し、勉強から逃走している。かつて日本の子どもは、世界のどの国よりも勉強に意欲的に取り組んでいたが、今や、世界でもっとも勉強を嫌悪し、勉強しない子どもへと転落している。

学力低下にはいくつか配慮しなければならない注意点がある。子どもたち自身の学力についての自己評価がかなり不正確だ。学力が集団的に落ちているから、学力が低下していることを本人は自覚できない。

偏差値というのは、同学齢集団の中での自分のポジションについての数値である。同学齢集団の中でどのへんにいるのかということが大学受験のような競争試験では一番重要なことだから、こと受験に関する限り、学力がある必要はない。競争相手が自分より学力が低ければ、入試の選抜結果は同じである。だから、同学齢集団が全体として学力が下がっている限り、自分には学力がないということは少しもマイナスにならない。むしろ、同学齢集団の学力が低下すれば低下するほど、競争においての負荷は軽減する。

偏差値というのは同学齢集団の中でしか意味を持たない数値であるし、問題が学力そのものではなく、志望校の合否である限り、学力の経年変化なんか誰も問題にしない。そうやって日本の子どもの学力は底抜けに下がり続けた。

文字を読み飛ばしている。この「読み飛ばし能力」が、今の若い人たちは、私たちの想像を超えるくらいに発達している。ページを開いて、ぱっと見たとき、その読み方がわからない、意味がわからない単語があったときに、それを軽々とスキップする。スキップしても全然気にならない。
「スキップする」こと自体は悪いことではない。理解できない情報をスキップする能力というのは、実は人間の知性の特徴である。機械は「読み飛ばし」ということができない。人間知性と機械的知性の大きな違いは、人間は意味のない情報を無視することができるという点にある。だから、これはこれでいい。
ただ、意味がわからない言葉に遭遇するとスキップしようとしても、なんとなく気になる。引っかかる。気になって仕方がない。「わからないもの」を「わからないまま」にしておくというのは、人間にしかできない。というのは、「判断を差し控える」ということは、「理解したい」という欲望を手つかずに持続させ、場合によっては「理解したい」という欲望を亢進させる。

わからない情報を「わからない情報」として維持し、それを時間をかけて噛み砕くという、「先送り」の能力が人間知性の際立った特徴である。ところが、この「矛盾」を「無純」と書く学生の誤字のありようを見ていると、どうやらその「わからないもの」を「わからないまま」に維持して、それによって知性を活性化するという人間的な機能が低下しているのではないかという印象を受ける。「わからないもの」があっても、どうやらそれが気にならないらしい。
新聞や雑誌を読んでいるとき、知らない言葉に出会うことは私たちにもよくある。そして、知らない言葉でも、「知らないままでもいい言葉」と「これは知らないとまずい言葉」の区別ができる。不思議なものだけれど、「これは知らない言葉だけれど、知らないとまずいような気がする」言葉と、「これは知らない言葉だけれど、知らなくても大丈夫」ということの区別がつく。「知らないとまずい言葉」については、知っていそうな人に「これ、どういう意味なの?」と訊いたり、家に帰ってから辞書を引いたりして、「穴」を埋めてゆく。
けれども、今の若い人たちは、その「穴埋め」作業をどうやらしていないらしい。自分がわからない言葉が、あきらかに彼らを読者に想定しているメディアの中に頻出してきても、それが気にならなくなっている。
私は「わからないこと」より、この「わからないことがあっても気にならない」 ことの方に危機の徴候を感知する。

彼らは「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしている。
現代の子どもたちは、自分の前に拡がる世界に 「よく意味がわからないもの」が散乱していることに対して、特段の不安や不快を感じることなく平然としていられる。無知のままでいることに生きる不安を感じずにいられる。

小学一年生の教室で、ひらがなを教えようとしたところで、 もうすぐに手が挙がってくる。
「先生、これは何の役に立つんですか?」
子どもたちがそう訊いてくるわけだ。
確かに、その問いには一理あるわけである。子どもにとって、40分なり50分なり、教室に座ってじっとしていて、沈黙して先生の話す話を聞いて、ノートを取るというのは、ある種の「苦役」である。この「苦役」を、たぶん、子どもたちは教師に対して支払いをしているというふうにとらえている。別の言い方をすれば、「苦痛」や「忍耐」というかたちをした「貨幣」を教師に対して支払っている。だから、それに対して、どのような財貨やサービスが「等価交換」されるのかを彼らは問うているわけである。「僕はこれだけ払うんだけど、それに対して先生は何をくれるの?」と子どもたちは訊いている。
そのような問いに対して、教師は答えることができない。できるはずがない。そんな問いが子どもの側から出ているはずがない、ということが教育制度の前提だからだ。
「義務教育」という言葉を、今の子どもたちは「教育を受ける義務がある」というふうに理解している。もちろんこれは間違いで、子どもには「教育を受ける義務」なんかない。子どもには「教育を受ける権利」があるだけだ。「その保護するところの子女に普通教育を受けさせる義務を負う」のは親たちの方である。教育を受ける権利は、子どもたちにとって、その人生の可能性を広げてゆくための、最も大切な権利である。その権利について、当の子どもたちの側から「どうしてこんな権利を行使しなくちゃいけないの?」という問いが差し出されることを、日本国憲法の起草者だって想像してはいなかっただろう。 「ちゃんと説明してくれたら、権利を行使するけれど、説明の意味がわからなかったら、教育を受ける権利なんか要らない」と子どもたちは言い出している。

大人たちは「『なぜ学ぶ必要があるのか?』という問いかけはあってしかるべきだし、その問いに対して、子どもたちにもわかるような答えがなければならない」と考えている。これが最初の、最大の「ボタンのかけ違え」だ。
答えることのできない問いには答えなくてよい。

以前テレビ番組の中で、「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけをした中学生がいて、その場にいた評論家たちが絶句したという事件があった。
でも、これは「絶句する」というのが正しい対応である。「そのような問いがありうるとは思ってもいませんでした」と答えるのが「正解」という問いだって世の中にはある。もし、絶句するだけでは当の中学生が納得しないようでしたら、その場でその中学生の首を絞め上げて、「はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください」とお願いするという手もある。

世界には戦争や災害で学ぶ機会そのものを奪われている子どもたちが無数にいる。他のどんなことよりも教育を受ける機会を切望している数億の子どもたちが世界中に存在することを知らない子どもたちだけが「学ぶことに何の意味があるんですか?」というような問いを口にすることができる。そして、自分たちがそのような問いを口にすることができるということそのものが歴史的に見て例外的な事態なのだということを、彼らは知らない。
先ほどの「人を殺してどうしていけないのか?」と問う中学生は「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていない。同じように、「どうして教育を受けなければいけないのか?」と問う小学生は「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」を勘定に入れていない。自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、そのような「想定外」の問いを口にする。

しかし、このような問いかけに対して、今の大人たちは、断固として絶句して、そのような問いは「ありえない」と斥けることができない。絶句しておろおろするか、子どもにもわかるような功利的な動機づけで子どもを勉強させようとする。子どもたちは、自分たちの差し出した問いが大人を絶句させるか、あるいは幼い知性でも理解できるような無内容な答えを引き出すか、そのどちらかであることを人生の早い時期に学んでしまう。それがある種の達成感を彼らにもたらしてしまう。
そして、この最初の成功の記憶によって、子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか?それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになる。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
こうやって「等価交換する子どもたち」が誕生する。

私たちは、生活の隅から隅までお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで「情報メディア」から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生みだす経済の運動の中に完全に巻き込まれている。
学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説く前に、既に子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。

今の子どもたちは、もしかすると、その過半が生まれてはじめての社会経験が買い物だったということになっているのではないか。

子どもたちが生まれてはじめての買い物をしたときの印象は、「お金には色がついていない」ということだ。

コンビニのレジカウンターにお金を出せば「いらっしゃいませ、こんにちは」という無機的な挨拶とともに、買い手が4歳の子どもであろうと、20歳の青年であろうと、80歳の老人であろうと、原理的には同一の商品やサービスと交換される。
当たり前じゃないかと思うかもしれないけれど、4歳の子どもにとっては、これは驚嘆すべき経験だったはずだ。正味の人間として社会関係の場に出現した場合、4歳の子どもを交渉相手として対等に遇してくれる大人はまずいない。けれども、お金を使う人間として立ち現れる場合には、その人の年齢や識見や社会的能力などの属人的要素は基本的に誰もカウントしない。そこで使われるお金の多寡だけが問題で、誰がそれを使うかということには誰も顧慮しない。それが「お金の透明性」という特権的性格である。だから、社会的能力がほとんどゼロである子どもが、潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずだ。子どもでも、お金さえあれば大人と同じサービスを受けることができる。

消費することから社会的活動をスタートさせた子どもはその人生のごく初期に「金の全能性」の経験を持ってしまう。そのスタートラインにおける刷り込みの重みは想像される以上に大きい。それは単なる拝金主義的傾向が刻印されてしまうということとは違う。そうではなくて、消費主体として立ち現れる限り、買う主体の属人的性質については誰からも問われないということだ。
問題は金の多寡ではなく、「買い手」という立場を先取することなのだ。
「ぼくは買い手である」と名乗りさえすれば、どんな子どもでもマーケットに一人前のプレイヤーとして参入することが許される。その経験のもたらす痺れるような快感が重要なのだ。

子どもたちはそれからあと、どのような場面でも、まず「買い手」として名乗りを上げること、何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになる。

当然、学校でも子どもたちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとする。 彼らはまるでオークションに参加した金満家たちのように、教壇の教師をながめる。
「で、キミは何を売る気なのかね?気に入ったら買わないでもないよ」
それを教室の用語に言い換えると、
「ひらがなを習うことに、どんな意味があるん
ですか?」

等価交換的な取引のいちばん大きな特徴は、買い手はあたかも自分が買う商品の価値を熟知しているかのようにふるまう、ということだ。

人間はその価値を知らない商品は買わない。私たちが商品を買う場合、いくつか類似商品を見比べて、スペックを点検して性能と価格の関係について比較考量し、その商品が何を意味するかということを知った上でしかお金を出さない。
まず消費主体として人生をスタートするというのはそういうことである。

消費主体は、自分の前に差し出されたものを何よりもまず「商品」として捉える。そして、それが約束するサービスや機能が支払う代価に対して適切かどうかを判断し、取引として適切であると思えば金を出して商品を手に入れる。
消費主体にとって、「自分にその用途や有用性が理解できない商品」というのは存在しない。そのようなものはそもそも商品としては認識されない。だから、先ほどの小学校に入ったときに、先生に「ひらがなを習うと、何の役に立つんですか?」と訊く子どもは消費主体としてごく自然な質問を発している。「この商品は何の役に立つのか?」と訊くのは消費者の権利であり、義務である。
そして、この幼い消費主体は「価値や有用性」が理解できない商品には当然「買う価値がない」と判断する。

子どもの目から見て、学校が提供する「教育サービス」のうち、その意味や有用性が理解できる商品がほとんどない。学校教育の場で子どもたちに示されるもののかなりの部分は、子どもたちにはその意味や有用性がまだよくわからない。それらのものが何の役に立つのかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならない当の理由だからだ。
教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができないということにある。

50分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」である。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。学校において、子どもたちが交換の場に差し出すことのできる貨幣はそれしかない。彼らは学校に不快に耐えるためにやってくる。教育サービスは彼らの不快と引き換えに提供されるものとして観念されている。だから、教室は不快と教育サービスの等価交換の場となる。

せっかく10円に値切って買うことにした商品に対して20円を差し出すことは許されない。それは商取引のルールに反する。だから、いったん「この授業は10分程度の集中の価値しかない」と判断したあとは、残り40分を「授業を聴かない」ということに全力を傾注しなければならない。私語をするのは、「したいからしている」というより、 「しなければならないからしている」

不快は貨幣として流通する。この等価交換の原則を子どもたちは家庭の中で、両親の間で行われる取引のやり方を通じて学んだのではないか。
子どもたちは「他人のもたらす不快に耐えること」が家庭内通貨として機能するということを人生の極めて早い時期に習得している。現代日本の家庭が貨幣の代わりに流通させているもの、そして、子どもたちが生涯の最初に「貨幣」として認知するのは、他人が存在するという不快に耐えることなのだ。

狩猟者の父親が獣の肉を持ち帰ったように、農耕民の父親が穀物や野菜を持ち帰ったように、現代のサラリーマンの父親はあからさまな不機嫌を持ち帰ることで、彼が家族を養うために不当に苛酷な労働に従事していることを誇示している。

現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのだ。

家族の中で「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。これが現代日本家庭の基本ルールである。

学びは市場原理によっては基礎づけることができない。これが教育について考えるときの基本である。学びのプロセスは空間的に表象することができない。「絵にも描けないもの」、それが「学び」のプロセスを表している。
「学び」は等価交換の空間モデルによって表象することができない。それは時間的な現象である。そして、時間的でないような「学び」は存在しない。

学びが時間的な現象であるということの一番わかりやすい事例は母語の習得である。母語の習得は最も原型的な学びである。他のすべての学びは、この経験を原型として構築される。
母語の学習を始めたときには、これから何を学ぶかということを知らなかった。これが大切なところだ。
起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなの。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけている。本来、学びはそのように構造化されている。

まず、学びがあり、その運動に巻き込まれているうちに、「学びの運動に巻き込まれつつあるものとしての主体」という仕方で事後的に学びの主体は成立してくる。

気がついたら既にゲームが始まっていて、自分はそこにプレイヤーとして投げ込まれているという状況を想像する。そのゲームがいつ始まり、どういうルールで進められているのか、自分はまだわからない。でも、とりあえず誰かが自分にボールをパスしてくるし、パスされたボールを「こっちへよこせ」と合図してくるプレイヤーがいたりする。あるいは、血相を変えて襲いかかってくるプレイヤーがいるので、とりあえず逃げる…そういうことを繰り返しているうちに、だんだんとどういうふうにすればゲームが先に進むのかだけはわかってくる…。
学びというのは、そういうものだ。

しかし、このような学びのプロセスは、「教育サービス」を購入するために「教育投資」を行う消費主体として自らを確立した子どもには理解不能である。

子どもがまず学ぶべきことは「変化する仕方」である。学びのプロセスで開発すべきことは何よりもまず「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」である。「学び」の人類学的意味はそれに尽きる。

この「自分探しの旅」の本当の目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないか。

金儲けや権力・名声の獲得といった、自己に外在的な目標をめざして行動するよりも、自分の興味・関心にしたがった行為のほうを望ましいとみる。個性を尊重する社会では、自己の内側の奥底にある「何か」のほうが、外側にある基準よりも、行動の指針として尊ばれる。

■リスク社会の弱者たち

「リスクをヘッジする」というのは、賭け金を分散して損失を防ぐことである。丁半バクチにおいて、丁と半の両方に賭け金を張っておけば、丸損することはない。それがリスクヘッジである。「それでは儲からないじゃないか」と訝るかもしれない。そうだ。儲からない。でも、リスクヘッジの要諦は利益を上げることではなく、損失を出さないことにある。リスク社会における最も賢明なふるまいは、できるだけ巧みにリスクヘッジをすることである。

リスクヘッジにはいろいろな様態がある。

継続審議:正否の判断をはっきりせずに、決定を先送りする。
両論併記:複数の決定を同時に下す。
三方一両損:誰も利益を得ないようなソリューションを選ぶ。

ビジネスでは「現状維持」というオプションはない。成長するか、没落するか、2つに1つである。「現状維持」を選択するということは、資本主義市場経済においては、ほとんど自動的に「没落」を意味している。

「間違ったら死ぬ」という条件が与えられたときには、人間は「正解を当てるためにはどうするか」ではなく、「間違わないためにはどうするか」ということを優先的に考える。

選択した結果が正しいか間違っているか、それを予め言うことができない以上、それが正しかった場合も間違っていた場合も、「丸損」しないように手を打っておく。

明治以来、近代化のプロセスの中で、日本人は「迷惑のかけ合い」という仕方でリスクをヘッジしてきた。貧しいもの同士で相互扶助してきた。
日本全体が貧しかった時代に、貧しいものが飢えずに生き延びるためには、あるいは親族の誰かが立身出世して、残る親族を「引き立てる」ために、相互扶助の共同体は「迷惑をかけ合う」システムとしてそれなりに有効に機能していた。
相互扶助・相互支援というのは、「迷惑をかけ、かけられる」ということなのだから、「迷惑をかけられる」ような他者との関係を原理的に排除すべきではない。

「孤立している人」にとって、他者はすべて彼または彼女の自由や自己実現の妨害者である。100%の自由を享受するのが「孤立した人間」の目標なわけだから、「他者が存在する」ということ自体が既に主体の自由を制約することになる。主体は他者が占めている空間については、そこを可動域に算入できない。可動域について制約があるということは、主体の自由が損なわれているということだから、「孤立した主体」にとって、理論的に最高の状態というのは、世界に自分の他には人間が一人もいない状態である。

例えば、美術や音楽についての感覚に優れている子どもがいたとして、彼が芸術性に高い評価を与える社会集団に属していれば自信を持つことができるが、運動能力やビジネスセンスに高い評価を与える社会集団に属していればあまり自信を持つことができない。子どもにとって、「自信を持つ」という目的は所属する社会集団の価値観や行動準則に同一化することでしか達成できない。「自信を持ちたがる」 子どもは自分の属する集団のイデオロギーに過剰適応してしまう可能性がある。

■労働からの逃走

自己決定したことであれば、それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であっても構わない。ある種の「自己決定フェティシズム」である。

常に正しい選択肢を選ぶことができるから自己決定が推奨されるのではない。「私は私の運命の支配者である」という自尊感情のもたらす高揚感が、間違った選択肢のもたらす心身のダメージをカバーできる限り、自己決定は有用である。だから、「自己決定することはいついかなる場合でもよいことである」という信憑が社会全体に根づいている社会では、自己決定は多くのプラスをもたらす可能性が高い。でも、日本はそういう社会ではない。

確かに、自己決定することはそれ自体「よいこと」である、という思想が社会の一部においては支配的なイデオロギーとして定着しつつある。
しかし、その一方で、日本人は骨の髄まで集団志向ある。
ここには「ねじれ」がある。
「私は誰の同意も得ずに好きなことをやります」と宣言した人が「この点について、ぜひみなさんのご同意を賜りたい」と言い出す。
「みんな自己決定する時代なんだら、君もみんなと同じように自己決定しなさい」

日本型ニートはこのような「自己決定」する若者たちの中の一つの病態として考察されるべきだ。

自らの意思で知識や技術を身につけることを拒否して、階層降下していくという子どもが出現したのは、もしかすると世界史上初めてのことかもしれない。

憲法26条が規定しているのは「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」ということであって、「義務」を負っているのは親の方である。子どもにあるのは「教育を受ける権利」である。ということは、ニートは市民としての権利を進んで放棄している。「空腹になったらご飯を食べなければいけない」とか「火に手を突っ込んではならない」というような法律が存在しないのは、そんなことは法律で規定しなくても誰にでもわかっているからである。憲法に「教育を受ける義務」の規定がないのもそれと同じである。教育を受けることが権利だからだ。教育を受けることが、子どもにとって自己実現のための最大の機会だからだ。それがほとんど無償で、かつ保護者に法的義務を課して、子どもには確保されている。

どうして教育を受ける権利が子どもに保障されるようになったのかというと、近代までヨーロッパでは貧しい階層の親たちが子どもを幼児期から労働力として使役するのが当然だった。その苛酷な児童労働のあり方に心を痛めた人たちが、「子どもを親から守る」という人道的立場から義務教育の考え方を提示した。

「教育を受ける権利」を受益者である当の子どもたちが進んで放棄している。これは、どこかで教育を受けることが「特権」ではなく「苦役」として感じられるようになったということだ。

「苦役」からの逃走がある種の達成感や自己満足をもたらすような倒錯した感受性が、どうして、日本社会で形成されてしまったのか。
教育の「権利」を「義務」と読み替える倒錯が起きた理由は、経済合理性の原則が社会のすみずみに入り込んだせいである。

仕事について、「自己利益の最大化」を求める生き方がよいのだという言説はメディアにあふれている。

「青い鳥」を求めて、「こことは違う場所」を求めて、「今、ここでベストを尽くすこと」を拒否しているうちに、どうにも身動きならなくなってしまった。ニートはそのようにして形成されてきているのではないか。

若いサラリーマンは「迅速かつ適切な評価」を望んでいるにも関わらず、評価の反応速度が遅いこともある。成果に対する評価に「苛立つ」傾向もまた転職を繰り返す人の傾向の一つではないか。

労働主体は、実際に働いて見せて、それを親や周囲の人々がどう評価してくれるかを待ち、肯定的な評価が与えられた後に、自分はこの世界にとって有用な存在であるという確証を得ることができる。ここには「ことの順序」というものがある。

私たちは代価の提示と、商品の交付の間に時間差があることに耐えられない。お金を払ったのに、いつまでも商品が手渡されないと、私たちは非常に不安になる。通常の消費行動では、貨幣と商品の交換は原則として同時的である。それどころか、高度消費社会ではむしろ、お金を払う前に商品が手元に届くようなシステムが支配的な形態になりつつある。

教育を消費行動のスキームで捉える子どもたちが「学びからの逃走」の道を進むように、労働を消費行動のスキームで捉える若者たちが、「労働からの逃走」の道を進むのは、彼らが時間を勘定に入れ忘れているからだ。だから、賃金は原理的に常に不当に安いということになる。それはどう見ても等価交換には思われない。なぜなら、自分が会社やクライアントに対して差し出した「苦役」に対して、「それと等価の報酬」が同時的に与えられていないからなのだ。

しかし、「仕事をする」ということを消費の用語で考えるなら、すべての労働者はアンフェアな交換をしていることになる。というのは、労働に対して賃金が安いというのは原理的には当然である。そうでなければ、そもそも企業は利潤というものを上げることができない。株主に対する配当もできないし、設備投資もできないし、研究開発もできない。それらの経済活動の原資はすべて労働者から「収奪」した労働価値によってまかなっている。労働者は、自分が創出した労働価値よりも少ない賃金しか受け取れないというのは経済の基本である。そこで生じた剰余が、交換を加速してゆき、その結果、市場が形成され、分業が始まり、階級や国家ができあがる、というかたちで人間社会は作られてきた。

労働の成果のうち一部分は必ず、交換のための原資として、「取り置き」されなければならない。だから、労働それ自体は等価交換ではありえない。労働に対して支払われる賃金は、労働者が作り出した価値から「交換のための原資」を控除した残りだからだ。

ニートは労働することそのものに不合理さを感じているからこそ、労働から逃走しているわけで、どうして労働することを彼らが不合理と感じるのかという、根本の問題を見過ごしている限り、どのような施策も問題を悪化させることにしかならないだろう。
労働から逃走する若者たちの基本にあるのは消費主体としてのアイデンティティの揺るぎなさだ。彼らは消費行動の原理を労働に当てはめて、自分の労働に対して、賃金が少ない、十分な社会的威信が得られないことに「これはおかしいだろう」と言っている。そして、等価交換を原則とした場合、彼らの言っていることは全く正しい。
経済合理性というのは「努力と成果(賃金や威信)の相関」であり、労働の場では、どう考えても努力と成果が相関していない。だから、「そのような不合理なことは私にはできない」と彼らは堂々と主張する。
ニート問題の最大の難関は、ニートたちが子どものころから一貫して経済合理性に基づいて価値判断を下してきて、その結果、無業者であることを選んだという彼らの側の首尾一貫性は経済合理性を論拠にしては突き崩すことができない。

学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が理解できるような主体を構築してゆく生成的な行程である。学び終えた時点ではじめて自分が何を学んだのかを理解するレベルに達する。学ぶ前と学び終えた後では別人になっているというのでなければ、学ぶ意味がない。

一度学ぶとは何かを知った人間は、それから後はいくらでも、どんな領域のことでも学ぶことができる。というのは、学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方のうちにある。

知性とは、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れること。
無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができないこと。
学びからの逃走、労働からの逃走とは己の無知に固着する欲望である。

学校で身につけるもののうちもっとも重要な「学ぶ能力」は、「能力を向上させる能力」というメタ能力である。「ものさしを作り出す能力」である。「ものさしを作り出す力」をできあいの「ものさし」で計測できるはずがない。










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