そのうちなんとかなるだろう
20240711
「嫌」に理由はいらない
子どものころから好き嫌いがはっきりしていて、「嫌なものは嫌」で、これは親や教師がおどしてもすかしても絶対に譲ることがなかった。いったん「嫌だ」となると、殴られようと叩かれようと、みじんも動じない。
僕はクラシック音楽も好きだったし、バイオリンの演奏も好きだったけれど、強制的に 「やれ」と言われると、それだけでもう身体が拒絶する。そういう体質なんだ。
それまで小学校のころから、「勉強がやりたくない」と思ったことは一度もなかった。それがふっと 「嫌」になった。これは例の「嫌だ」だということが僕にはわかった。僕の「嫌だ」というのは自己決定できることではなく、身体の奥のほうから「嫌だ」という体液みたいなものが分泌されてきて、全身を満たしてしまう。僕の意思ではどうにもできない。だから、「勉強が嫌だ」ということになったら、これはもうどんな努力をしてもダメだ。
父は僕のことをよくわかっていたのだと思う。家出に失敗して帰って来た僕に向かって「ほら見たことか」というようなことをうっかり言ったら、僕はそのときは黙って引き下がるけれど、その後、何年でも父親と一言も口をきかないというくらいの反抗はしただろう。
父も僕の「虎の尾」を踏むと取り返しがつかないことになるというのは育ててきて思い知っていた。だから、ほんとうはたっぷり説教をしたかったのだろうけれど、それを自制して、「そうか」だけで終えてくれた。
僕はその父親の雅量には後になってずいぶん感謝した。
いろいろ言いたいことはあっただろうけれど、そういうときにかさにかかって子どもに恥をかかせるようなことはしなかった。僕はそのときに家出に失敗したことからよりも、人生最初の「大勝負」に失敗したぼんくらな息子を両親が黙って受け入れてくれたことから、人生についてより多くを学んだように思う。
たとえ家族であっても、どれほど親しい間であっても、相手にどれほど非があっても、それでも「屈辱を与える」ことはしてはいけない。これは父母から学んだ最もたいせつな教訓だったと思う。
人間は誰でも基本的に頭がよいと僕は思っている。ただ、例えば「自分は英語ができない」と思い込んでいると、脳内のどこかの部位がロックされてしまって、英語を理解し、運用する能力が活動を停止してしまう。だから、そのロックを解除して、脳が動き出すようにすれば、あとは教師は何もしなくていい。勉強は自学自習である。脳は本質的に活動が好きだから、使い方を覚えれば、高速で回り出す。
決断とか選択ということはできるだけしないほうがいいと思う。右の道に行くか、左の道に行くか選択に悩むというのは、すでにそれまでにたくさんの選択ミスを犯してきたことの帰結である。
ふつうに自然な流れに従って道を歩いていたら、「どちらに行こうか」と悩むということは起きない。
日当たりがよいとか、景色がいいとか、風の通りがいいとか、休むに手ごろな木陰があるとか、そういう身体的な「気分の良さ」を基準に進む道を選ぶ人は、そもそも「迷う」ということがない。
そちらの道を選ぶと、「日が差さなくて、景色が見えなくて、どんより気が濁っていて、腰をおろしたくなる場所もない」というような道が分岐点に出てきても、「そんな道」を選ぶはずがない。そんな道は選択肢としては意識化されない。だから、身体的な気分のよさを揺るぎない基準にして歩いてきた人は、実際にはいろいろな分岐点を経由してきたのだけれども、主観的には一本道を進んできたような気がする。
それが理想なのだと僕は思う。
決断を下さなければいけない状況に立ち至ったというのは、今、悩むべき「問題」ではなくて、実はこれまでしてきたことの「答え」なのだ。 今はじめて遭遇した「問題」ではなく、これまでの失敗の積み重ねが出した「答え」なのだ。
だから「正しい決断」を下さねばならないとか 「究極の選択」をしなければならないというのは、そういう状況に遭遇したというだけで、すでにかなり「後手に回っている」ということだ。
決断や選択はしないに越したことはない。
だから、「決断したり、選択したりすることを一生しないで済むように生きる」
今は雇用環境が悪化しているために、一度病気に倒れてからようやく生き方を変えるということになる。
でも、病気から無事に回復できればいいけれど、回復のむずかしい傷や疲れを負い込むことだってある。だったら、そんなところまで追いつめられる前にとっ逃げ出したほうがよかった。
そこまで我慢するのは、相当に身体の感覚が鈍っているということだ。「こんなところにいたらそのうち死んでしまう」ということは、働き出してしばらくすればわかったはずだ。身体が厭がって、出社しようとすると胃が痛くなるとか、頭が痛くなるとか、そういう自然な身体反応があったはずだ。それは身体が「命が削られている」ことについて、アラームを鳴らしている。身体だって必死なんだ。でも、それに耳を塞いで、最後の最後に病気になるまで働き続けた。
やりたくないことは、やらないほうがいい。
わが生を振り返ると、途中でいくつか分かれ道はあったことがわかる。でも僕の場合の人生の分岐点でどちらを選んでも、結局は同じようなところにたどり着いたような気がする。
違う大学に入っても、博士課程に進まなくても、違う仕事に就いても どの道を進んでも、今の自分の暮らしぶりはあまり変わっていないんじゃないかな。
結婚もそうだ。今の奥さんと出会わなて、違う誰かと結婚しても、やっぱりそこそこ楽しくやっていたんじゃないかと思う。
結婚というのは「宿命的な相手」がこの世のどこかにいて、その人に会うまでさまよい歩くというようなことではないと思う。
結婚生活の成否は宿命によってではなく、結局は他のことと同じで、ほとんどその人の器で決まる。相手が代わると天国から地獄へというようなことはない。
オープンマインドな人は誰と結婚してもそこそこ幸福になれるし、こだわりのきつい人は誰と結婚しても不満が募る。結婚の幸福度を決めるのは、なんだかんだ言っても最終的に自分の「幸福になる力」である。
後悔には2種類がある。「何かをしてしまった後悔」と「何かをしなかった後悔」である。
取り返しがつかないのは「何かをしなかった後悔」のほうである。
「してしまったことについての悔い」は、なんだかんだ言ってもやったのはたしかに自分なのだ。
そのときには自分がやりたいと思って、やるべきだと思ってやったことがうまくゆかなかった。だから、それが失敗したとしても、それについては自分で責任を取るしかない。
その失敗を糧にして、同じ失敗を繰り返さないようにすればいい。そうやって人間は成長してゆく。
でも、「しなかった後悔」には打つ手がない。というのは、「しなかった後悔」には後悔する主体がいないからだ。
時間を理解可能な仕方で表象するためには、時間的な現象に即して語るしかない。
言葉を話すとか、音楽を聴くとかいう聴覚的な比喩でもいいけれど、リアルに時間が実感されるのはやはり身体の中で起きている現象である。
「かすかに香ってくる匂いに気づく」とか「食べ物が喉元を過ぎる」とか「筋肉の詰まりがとれて、流れが通る」 というような現象はたしかに時間をいきいきと内包していて、その感覚を伝えることができる。
なかなかそれがうまくゆかないのは、人間が視覚優位だからである。
空間認知が視覚優位なので、社会構造も視覚的に設計されている。
視覚ベースで制度設計されている社会の中でずっと暮らして、視覚優位で反応していると、視覚的スキームから出られなくなってしまう。
いつの間にかあらゆるものを視覚的に、空間的に表象するようになる。
でも、それではとらえられないものによって世界は満たされている。
「真偽・当否・善悪・美醜」というような二項対立でものごとを把握するのがずいぶん不自由なことに思えてくる。
真でもあり偽でもあるということってある。ある場合には善だが、条件が変わると悪になるとか。見方を変えると美しかったり、醜かったりするということだってある。
だから、どちらかに決めるということができない。 したくない。
それよりは、色の濃淡とか、密度の差とか、温度差というようなアナログな、グラデーションの違いのほうが気になる。
どんな話題についても、「いいから話をシンプルにしてくれ。良いか悪いかどっちなんだ」という人が今の世の中、ほんとうに多いけれど、それは「子どもの言い分」だ。複雑なものは複雑なまま扱うのが大人の作法だと僕は思っている。
複雑な話を単純な二項対立に縮減せず、複雑なものは複雑なまま取り扱って、「なんとかする」。
「どうしてやりたいのか、その理由が自分で言えないようなことはしてはならない」
というルールがいつのまにかこの社会では採用されたようだ。僕はこんなのは何の根拠もない妄説だと思う。僕の経験が教えるのはまるで逆のことだ。どうしてやりたいのか、その理由がうまく言えないけど「なんとなくやりたい」ことを選択的にやったほうがいい。それが実は自分がいちばんしたかったことだということは後になるとわかる。それが長く生きてきて僕が得た経験的な教訓です。
「あなたがほんとうになりたいもの」、それが「自分らしい自分」「本来の自分」である。
心と直感はそれがなんであるかを 「なぜか (somehow)」 知っている。だから、それに従う。ただし、心と直感に従うには勇気が要る。
僕がわが半生を振り返って言えることは、僕は他のことはともかく「心と直感に従う勇気」については不足を感じたことがなかったということである。 恐怖心を感じて「やりたいこと」を断念したことも、功利的な計算に基づいて「やりたくないこと」を我慢してやったこともない。
僕がやったことは全部「なんだかんだ言いながら、やりたかったこと」であり、僕がやらなかったことは「やっぱり、やりたくなかったこと」 である。
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あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。