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終わりのその先 第9話【お仕事小説】最終章

〔これまでのあらすじ〕
部長から係長に降任して市に残るか、退職するかで悩んだ東郷秀樹は、意向調査で退職を選んだ。だが、人材登録サイトで就活をするも、面接にすら進むことができず、再雇用や定年延長を勧められる。
一方、保護課長の下村からはパワハラで訴えられ、保護課の部下が起こした横領事件の監督責任では、減給の懲戒処分を受けることになった。
また、書店でイケメン店長と妻が親密にしているのを見た秀樹は、昔好きだった百合華と再会し、誘うが拒まれる。
息子の翔馬は、やっと就職した会社を退職し、自室にこもってゲームばかりしている。大学4年の娘の里菜は就活せず、留学したいと言い出した。

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ニートの息子

 息子の翔馬は、せっかく入ったコピー機の会社を退職して、部屋にこもることが多くなった。
 秀樹が買ってきた「働くことの意味」という本を渡し、読んでみるよう促したが、読んだかどうかも分からない。
 時折、ゲームで誰かと通信しながら上げる大声にも慣れた。
 家族が順応していったとでも言うべきか。

 部屋にこもったきり出てこない翔馬は、パソコンに向かっている時間も多くなっていた。

 随分と静かだけれど、何をしているのだろう。

 週末のある日、秀樹は何の気なしに翔馬の部屋をのぞいてみた。

 そこで目に入ってきたものは、ベッドの上や机、床に、何枚、何十枚と無造作に置かれた紙の山だった。

 秀樹は、ベッドの上からその1枚の紙を手に取って見た。
 それは、朱色のダリアの花に頬を寄せる若い女性の横顔の絵だった。

 床に落ちている紙には、一面に広がる黄色い菜の花が鮮やかな色彩で描かれている。

 多彩な色のプリントが施された紙は、幾重にも積み重ねられていた。
 絵の具で描いたものではなく、インクで描かれたごく小さな無数のドットの組み合わせのようだ。

 驚いて、子ども部屋で立ち尽くしていると、翔馬が部屋に戻ってきた。
 
「翔馬、これは、どうした…?」と、秀樹が尋ねると
「パソコンで描いたんだ」と言う。

「大学1、2年生の頃、サークルに入ってたんだよね」
「サークル?」
「そうそう。『Webペイント研究会』っていうサークルだったんだけど、パソコンでお絵描きしてたんだ」
「あれ、そうだったっけ」
 秀樹は覚えておらず、記憶を一生懸命呼び覚まそうとした。 
 昭和の事なら良く覚えているのに、令和になってからの事は、記憶が遠いのは一体なぜなのだろうか。

「そうだよ。結構おもしろかったんだけど、俺は2浪してるし私立大学でお金もかかるしで、バイトくらいした方がいいかなと思って、辞めちゃったんだ」

 思い出した。
 ヒマそうに見えた大学生の息子に、
「お前、バイトでもして、小遣いくらい自分で稼いだらどうなんだ」
と言ったのは、秀樹だったのだ。

「それでさ、今ってWebデザイナーっていう仕事もよく聞くからさ。
 これを仕事に生かせないかな、と思っているんだ」

 2浪して大したことない大学を1留して卒業し、やっと就職した会社をすぐ辞めて、ゲームして奇声を上げて、ニートのバカ息子だとばかり思っていたが、どうやら息子は息子なりに考えていたらしい。
 秀樹は目頭が熱くなって鼻汁が出そうになり、袖口で押さえた。
「そうか。いいんじゃないか。
 頑張れよ」


娘の選択

 娘の里菜は、最近では留学したいとは言わなくなっていた。
 尚子によると、大学生用の就職サイトに登録し、いくつかの会社にエントリーしているようだ。
 髪の毛を後ろで一つに束ね、暑いだろうに、黒いスーツに身を包み黒いパンプスを履き、朝家を出て行ったと思うと、夕方にぐったりして帰って来た。

「どうだった?」と尋ねると
「ガクチカについて聞かれたんだけど。
 特に話せるようなことなくて、困った~」という。
「ガクチカ?」
 秀樹が、聞き返すと
「学生時代に力を入れたこと」という。

「でもね。私らが大学入ってからすぐ、世の中はコロナになっちゃったんだよ。で、コロナが明けてからって言っても、もう段々と卒業近くなってきてるのに、そんな、何もできないよ」
「そうだよなあ…。
 いやいや、私は勉強に力を入れました! って正々堂々と答えればいいんだよ」
と秀樹が言うと、父親をチラッと横目で見ながら
「やっぱ留学して、英語話せるようになった方がいいのかなあ」
と、クッションに顔を埋めながら、里菜は呟いた。

 そして「でも、いいの」と、どこか吹っ切れたような表情で立ち上がり、自分の部屋に行ってしまった。

「あいつ、もしかして俺の退職のこととか気にしてるのかな」
 尚子の方を向いて言うと、妻は
「そうね、留学したらお金かかるから、遠慮してるみたい」
と、サバサバした表情で答えた。

 そうこうしている内にお盆が過ぎ、残暑が厳しい季節となった。

 8月最後の日曜日、里菜が家に彼氏を連れて来るという。
「えっ、あの男が来るのか。なんでまた」
 数ヶ月前、塀の中でこそこそと娘の唇を奪っていた男のことを、秀樹は許せないでいる。
 いや、今どきそんなこと許すも許さないもない、って事ぐらい頭では分かっているものの、こと娘の事になると、感覚的に腹が立ってしょうがないのだった。

 しかし遊びに来るのかと思っていたが、はたしてネクタイを締めた娘の彼氏は虎屋の水ようかんの紙包みを差し出し、ぎこちない挨拶をした。

 友達の紹介で知り合ったという彼は、里菜よりも4歳年上だ。思っていたより真面目なのかもしれない、と秀樹が望月リョウという名の彼を吟味していると、彼は表情を硬くして
「結婚させていただきたいんです」
と深く頭を下げた。

「けっこん?」
 それはちょっと、早いんじゃないのかー?
 親父の心の叫びを察したかのように、望月はこう続けた。

「自分は、医療機器メーカーで技術者として働いているんですが…。
 今回、アメリカの会社との合併がありまして、現地のテネシー州の研究所に赴任するようにと、異動の内示が出されました。
 それで、できれば里菜さんにも付いてきてもらいたいと思ったんです。
 急な話で、すみません。
 無理であれば、自分一人で今回アメリカに行って、いつか日本に帰って来た時まで待っていてくれたら、その時に結婚できればと考えています」

 その時、
「私、付いて行くから!」
 と、里菜がすかさず答えた。
「そんな、アメリカに行って帰って来るのなんて、いつになるのか分かんない。今結婚して、付いて行く」
 断固とした決意をもって、娘は宣言した。


それぞれの道

 里菜の結婚とアメリカ行きには、本当に驚いた。

 が、考えてみれば、留学したくても経済的理由で諦めていた里菜にとっては、海外での生活は願ってもないことだったろう。
 アメリカの生活で、まず英語力を身につけてから、英語を活かした仕事をしたいと明確な目標ができたようだ。
 とはいえ、さすがに大学を4年生で中退するのは勿体ないということで、最初にまず望月が単身で秋に渡米し、3月に卒業するのを待って、里菜もアメリカに追って行くということになった。
 それまでの期間、急に英語の勉強にも力が入るようになった様子だった。

 俺は、どうするのだろう。
『プラチナ・ビズ』と『ビジネス・マンパワー』に加えて
『ミドル・エイジ』というサイトも見ているが、秀樹の状況はあまり変わらなかった。
 仲介エージェントのキャリア・カウンセラーに、現状が厳しいことを諭され、その後も数社にエントリーしたが、面接すら受けられないという状況だった。

 市役所の方はというと、パワハラと訴えられて秀樹は相当に落ち込んだ。

 下村課長が2日ほど休んだ後は出勤して、意外に元気そうに見えるのに対して、少々腹も立った。
 しかし、課長がメンタルで休みでもしたら大変なのだから、軽度で回復して良かったと思えるようになった。
 部下の横領発覚という事態にあって、自分が下村課長にもっと配慮すべきだったのに、それが足りなかったからこんなことになったのだと、自分を責め、猛烈に自省した。
 
 俺は減給処分を8月の1ヵ月だけ受けることとなり、それだけでも苦々しい思いで受けたが、下村課長は8月から10月まで3ヵ月間、処分を受け続けているのだ。
 心中は、きっとまだ苦しいに違いない。

 あの日、総合福祉課長の刈屋崎からは、厳しい言葉を投げかけられた。
 一層心の傷をえぐられたようで、恨みがましい気持ちも持ったが、思い直した。
 通常であれば、上司が部下の悩みを受け止めるべきところを、刈屋崎が部長の自分に代わって、下村の悩みを受け止めてくれたのだ。
 憤懣やるせない思いは、いつの間にか感謝の気持ちへと昇華していった。

 俺も大人になったもんだ、と秀樹は自分に皮肉をこめて呟いた。
 ま、ダブル成人どころか、トリプル成人だものな。

 尚子は、時折仕事で遅くなるものの、ほぼ時間通りに帰宅する日が多くなってきた。

「最近は、あのハワイ特集とか落ち着いたの?」と尋ねると
「まあそうね。2週に1回小さい入れ替えをして、1ヵ月に1回ハワイにゆかりのあるテーマを切り口にして、本を入れ替えしているから、その時は結構大変よ。
 フラ一つとっても、現代フラと古典フラとがあるしね。
 楽器も、たくさんあるのよ。
 調べ物をしながら、テーマ決めて入れ替えしてるのよ」
などと、楽しそうに話していた。

 またあのイケメンおやじの店長と、楽しくやってるのか?
 2人の姿が脳裏に浮かび、胸の奥がチクリと痛んだ。

「そういえば、ハワイに行くって言ってたのは、どうなった?」
「ああ、あれはね。何かうやむやになってしまった感じかな。
 ハワイ、行きたいねー、とはなったんだけど。
 円安で費用も高いし、職場の皆でいっぺんに行くとなると、店を閉めないとならないからね」
「ふーん」

転機

 9月に入り、台風が接近しているとの予報通り、その日は強く地面に打ち付ける大粒の雨と看板を飛ばしかねない強風とで、街ゆく人達はレインコートやジャケットの襟元をかき合わせて、走るように急ぎ足で目的地へと向かっていた。
 尚子は日曜日に出勤していたが、台風のため書店が早く閉店したと言って、午後の4時過ぎに帰って来た。

 雨に濡れた髪のまま、居間のソファにもたれかかり、大きく息をつく尚子の様子は、ふだんとはどこか違っている。

「ずぶ濡れじゃん。はい、タオル」と、里菜がタオルを差し出すと
「あらまあ、ありがとう。優しい娘で良かったわ」と、彼女は笑った。

「あのね」
 尚子は、髪をタオルで拭きながら、意を決したように話し始めた。
 その表情には、どことなく緊張感が浮かんでいるが、眼差しにはどこかイタズラっ子のような光がともされている。

「今日ね、午前中に本社から、10月の人事異動について打診があったの」
「人事、異動?」
 思わず秀樹は聞き返した。
 書店で十数年働いてきて、正社員になってからもこれまで、異動なんて話は一度もなかったからだ。

「そうなの。
 これから、大阪に新しく店舗をつくるんだけど、そこの店長になってほしいって言われたの」
 尚子は、目を大きく見開いて言った。

「へえー、大阪!
 店長ってことは、昇進?」
 里菜が嬉しそうに、はしゃいだ声で聞いた。
「そうなのよ。
 梅田の駅近くに再開発で大きなビルが建って、そこの3フロアがウチの能美堂書店になるんだって。
 オープンは、まだ少し先なんだけど、開店準備から店長として行ってもらえないか、って」

「えー。お母さん、すごーい! かっこいいじゃん。
 で、行くって言ったの?」
「うん…、私は行きたいけど、引っ越しも伴うから、家族にも相談してから返事します、って言って即答はしなかったけど」
 尚子は秀樹の方をチラチラと見て、言った。
「大阪、一緒に…行く?」

 里菜は、両親の顔を交互に見比べた。

「うーん。行かないっていう選択肢は、ないんだな?」
 秀樹が確かめると、尚子は深く呼吸してから、
「私は、行きたい。書店の仕事が好きだし。
 今の私の仕事を本社の方で評価してくれて、新しい店を作り上げるのに力を貸してほしいって言われたの。だから」と答えた。

「それじゃあ、断る理由はないな。
 母さんは、大阪に行けばいい…」
 秀樹がこう言うと、尚子と里菜は顔を見合わせた。
 一瞬、居間にはりつめた空気が流れた。

 しかし、数秒の空白の後、
「俺も、ついて行くよ。尚子に」
という秀樹の言葉に、は~っと安堵のため息がもれた。

 大黒柱は、いつの間にか夫から妻に移っていたのだ。


終わりのその先

 とはいえ、市の人事の仕組みからも、言ってすぐに上浜市を退職する、という事はできないので、区切りのいい12月いっぱいで秀樹は退職することにした。

 本来は、年度末の3月まで勤務する方がベターだが、秀樹が辞めればその分、上浜市に多数いる課長全体の中から、誰かが部長に昇任できることになる。
  
 退職願の文面に、秀樹は
「後進に道を譲るため」
と書いた。

 後任者には引継ぎ時に、この中越区の厚生福祉部で働くすべての職員が、仕事に誇りとやりがいを持って真摯に取り組んでいけるようにと、そして中越区に住む人たちの健やかなくらしづくりに皆で尽力するようにと、俺の心からの願いを込めて頼みたいと思う。

 多くの人から、
「大阪で、新しい仕事が決まってるんですか?
 どうされるんですか?」と訊かれた。

 どうしてこう、夫の転勤に妻がついて行く時には何も訊かないことを、妻の転勤に夫がついて行く場合には、訊くのだろうか。

 秀樹は、
「いや、ちょっとゆっくり休んでから、活動開始するよ」
と明るく答えた。
 すると、大抵の人は
「そうですよね。長いことお疲れさまでした」
と、ねぎらってくれるのだった。

 だが実は、秀樹は心の中で決意していることがあった。

 歴史と考古学について、もう一度深く勉強し直す。
 関西方面には、歴史上の人物をはじめ、京都、奈良、吉野路と世界遺産や数多くの重要文化財、貴重な史実を表す数々の史料もある。

 大学の史学科で学んだ若き日の知識を、近年明らかになった史実を組み込んで最新のものにレベルアップし、好きなカメラで撮影する写真と研究成果を合わせて、さまざまなところに発表していきたい。
 今は、個人が発表することのできる時代だというではないか。
 収益化だって、チャレンジしてみよう。

 そして、歴史小説も書きたい。
 これまではずっと、仕事に自分のすべての時間と精力を注いできた。
 歴史や考古学への興味を封印して、本当はやってみたいと思うことも我慢してきたのだ。

 秀樹は、ようやく自分が解き放たれたこと、真の自由を感じた。

 


 上浜市域の中越区や近海区が見渡せる、市の象徴とされる五角山の中腹から、秀樹は街を見下ろした。


 俺は、上浜市では「もう終わった人」と見なされた。

 でも、と秀樹は心の中で思ったことを口にして、言った。

 
 一つめが、やっと終わっただけだ。

 終わりのその先も、ずっと続いていくのだ。

 よーし。
 やってやるぞ!


――――完
            ※この小説は、フィクションです。




















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