今の私になるまで #002 ~少年野球時代~
ほとんどノンフィクション。でも表現は少し変えてる部分はあります。
小さい頃の性格
私は物心つく前から、わがままとかいたずらとかをよく知らず、いわゆる生真面目という性格だったらしいです。
さらには人懐っこい性格でもなく、友達といえる人は数少なく、仲良くなっても一時的なもので終わってしまう。
基本一人で黙々と何かに打ち込んでいました。
小学校の休み時間は基本図書室で好きな本読んだり、一人校庭で縄跳びをしたり、四葉のクローバー探してたり、今考えると変人ですね(笑)
今もそうですが、人に強く言葉で表現することは苦手な性格で、当時は親にさえ気を遣い、わがままとか甘えたりは自分からはできていませんでした。
何考えているかわからない。子供ではなかなかめんどくさいタイプでした(笑)
小学校3年生で少年野球を始める
私は小学校低学年の時、幼稚園から続けている体操教室とスイミングスクールに通っていました。
でもどちらも週に一回、1,2時間程度。決して打ち込んでいるといえるような習い事ではありませんでした。
そこで親からの提案。
「何かスポーツをしよう!」
中学校で部活も始まるわけで、何か一つ打ち込めるものを持っておいた方がいい。
当時、運動神経には多少非凡なところがあったみたいなので、打ち込めるものとして競技スポーツを進められました。(体操と水泳は打ち込むというより、できるようになれればという感覚だったので…)
そこで、私は父親とキャッチボールをして楽しかった思い出があったので「野球やる~」と何も迷わず決めました。
それで、小学校3年生の冬あたりから地元の少年野球チームに入団しました。
低学年チーム
基本同じ小学校の生徒ばかりだったので、知らない環境に飛び込んだわけではなく、そこまで最初は苦労しませんでした。
特に、最初は低学年チームとしてチームに加わり、野球の基礎をコーチにやさしく教えてもらっていました。
始めたてだったので、日々野球がうまくなることが楽しかったのを覚えています。
しかも低学年チームのみんなも「楽しくやろうぜ~」みたいな感じで練習していたので、野球って楽しいスポーツだなーと日々思いながら練習していました。
高学年チームへのあこがれ
ある日、低学年チームの練習中に集合がかかりました。
「今日から高学年チームに合流する者を発表する。」
私の名前は呼ばれず、私の同級生は呼ばれました。
もちろん、入団して日が浅かったのでわかってはいたのですが、その時心から"悔しい"と思った自分がいました。
同じグラウンドのA面B面で、高学年低学年で練習は分かれています。
それから私は、キャッチボール中に高学年の練習を見ていて、ボールが直撃して倒れたり、コーチにめちゃくちゃ無駄なアピール(うざいくらい声出したり)していました(笑)
なにより、野球に対する考えが変わりました。
「楽しいじゃだめだ。もっと上手くなって上に行かなきゃ。」
練習中の笑顔は少なくなった気がします。
いざ高学年チームへ
高学年チームを目指し頑張ったところ、努力が認められ小学4年の春から高学年チームに加入しました。
しかも、初戦の練習試合で9番セカンドのスタメンで出場しました。
たしか一打席目はファーストゴロ、二打席目は見逃し三振でした(笑)
最初の試合ってなんか覚えてますよね(笑)
それからも打順は下位打線でポジションはセカンドか外野でしたが試合に出る機会は多く、「ちょっとレベルアップしたぞ」とうきうきしていました。
高学年チームの生活
高学年チームに所属してから、ガラッと練習スケジュールが変わりました。
土日は基本一日中練習試合。平日は放課後ほぼ毎日練習。それも夜だいぶ遅くまで。
練習試合が無くても朝8,9時~夕方19,20時まで一日練習。
昼休みはおにぎり2個食べたら即素振り開始。
練習試合2~3試合やって、負けたら走って帰る。そして帰ったら夜まで練習。
今書いててもやばすぎるだろと思ってしまいます(笑)
でも小学生で初めて真剣に打ち込めた習い事だったので、それが異常だということに気づくことはできませんでした。
だから、私は強くなるためには必要なものと当然のように受け入れていました。
親はその異変に気付いていたと思います。それでもとめなかったのは、私が上手くなりたいんだという思いが強すぎたからかもしれません。
何度か休むことを促されたことを咎め、わがまま言って練習したのを覚えています。(あれ?わがまま言ってるじゃん)
チームの指導方針
とにかく勝ちにこだわる
人として成長とか、個々の技術を高めプロ野球選手成る人材を育てるとかは全くなく、勝つ。負ける。良い。悪い。それだけ評価するチームだったと思います。
打撃の技術とか、守備の技術とかではなく、「デッドボールでもいいからとにかく塁に出ろ」「打球は体でとめて長打を防げ」みたいな、組織として勝つためのことを多く学びました。
スクイズ、エンドラン、盗塁は多かったですし、挟殺プレーの練習も多々ありました。
デッドボールをよけずにあてるための練習もさせられました。これに関しては意味わからんすね(笑)
当時は勝つために必要な事、野球のハイレベルの部分を学んでいると思っていましたが、よく考えれば、未来のある野球少年にいきなりさせるような練習ではないと思います。
ミスをすれば交代、罵声、殴打
一言でいえば厳しいチームでした。
前述で書いた練習量も戦術も、そしてなにより指導が。
練習または試合でエラーをする。
そうすると、まず練習が止まり怒鳴られます。
「何やってんだ!」と。
運が悪いと近くまで呼び出され、バットで叩かれたり、もう来なくていいと突き放されたり、試合中であれば即交代で、しばらく出場させてもらえない。
これが事実でした。
それでも私は、勝つためならと当たり前のように指導に従い、日々練習に参加していました。
異変
6年生になって
私が小学5年生までは、上級生の人数が少なかったこともありあまり試合で勝つことができませんでした。
しかし、私が6年生の代は人数もそろっており、地区内では上位の部類に入っていました。
市内の大会は優勝することも多く、県大会にも出場できるくらい強いチームになっていました。
上へ上へ行けば行くほど、首脳陣の指導というものはエスカレートしていきました。
捕手
6年生からキャッチャーをやることが増えました。
それまでは基本ショート、でたまにピッチャーみたいな立ち位置だったので、キャッチャーをやるのは初めてでした。
正直嫌でした。ショートが一番しっくりきていたし、何より捕手は一番頭を使わなければならない。
体格はまだ小さく、捕手向きとはいえませんでしたし。
防具は重いし、マスクは臭いし、向いてないと勝手に思っていました。
当時のエースはかなり優秀で、彼を引っ張れる自信もありませんでした。
それでも、できる人がいなかったという理由でやらされていたのを覚えています。
夏
ある日の試合でした。
夏の暑い日、私はダブルヘッダーで一日中捕手で出場していました。
正直熱中症で倒れそうなくらい追い込まれ、意識が朦朧としながらプレーをしていましたが、弱音を吐けば、交代させられる、首脳陣を失望させてしまうと、恐怖に思い、一生懸命プレーしていました。
その日、捕手としての役割を全うするのに必死で、打撃の成績はチーム内で一番悪い状況でした。
私自身は捕手を始めたばかりだし、ここまで自分を追い込んで役割を果たしているからしょうがない。というかそんなことも考えられる余裕もありませんでした。
しかし、3打席目あたりを迎える前、コーチ陣に「今日打ってないのはお前だけだぞ。」と強く言われました。
私は打たなければいけないんだ。と思ったと同時に、捕手として頑張っていることはちっとも認められていないのか。と失望し頭が真っ白になりました。
それから
思い返せば最初から私は、何をやるにも怒られることを恐れて物事に取り組むようになっていました。
(これに気づいたのは、高校生?大学生?くらいの時です)
激怒されることが恐怖であり、罪であると認識してしまい、ただそのためだけに毎日練習し、試合に出て、勝った負けたで済まされ、一日が終わる。
そのうち、私の体と心は壊れていました。
気づいたら
気づけば私は精神的にも肉体的にも限界を超え、食欲も無くなり、何も喉を通さなくなりました。
試合前や家での食事、外食で嘔吐を繰り返し、いつの間にか体が病弱になり、練習しなきゃという気持ちとは裏腹に、体は全く言う通りに動いてはくれませんでした。
何か消化器官系の病気かな?と疑われ、総合病院に連れて行ってもらいましたが、症状はよくわからず、その後進められたのは精神科医のところでした。
それでも当時の私は
精神科に通ったのは一度か二度程度。正直何を話したかは全く覚えていないのですが、初めてお会いしたときに先生の大きな手と握手を交わしたことだけ鮮明に覚えています。
さらに、小学校のカウンセラーの先生と6年生の時の担任の先生にも何度も話を聞いてもらってお世話になったことを今でも覚えています。
お世話になったことを覚えていても、どんなことを話したのかはあまり覚えていません。
おそらく、当時の私は頑固なもので、野球の練習をしなければならない。それしか考えていなかったから覚えてないのだと思います。
カウンセラー、先生が心の支えだったのは間違いありません。
しかし、体と心が壊れようと、小学生の私はすぐに受け入れることはできず、無理にでもグラウンドに行こうとしていました。
この少年野球チームに入って、失敗をしないために、怒られないために、スタメンを外されないために一生懸命努力をしなければならないという意識が植え付けられていました。
本質
この少年野球チームが悪かったということを伝えたいわけでは断じてないです。
関係者が読んでくださっていた場合は、一人間の意見としてご容赦ください。
恐怖を回避するために頑張らなければという思考はとれていないです。
大学院生である今でも何か物事をに取り組むときその考えが出てしまう時があります。
でも理解をすることはできました。
怒られるために努力をしても、何も生み出すことはできない。
今になって、「スポーツを取り組むにあたっての本質は何か」を、この少年野球時代を振り返ることでわかった気がします。
その本質がわかったのは陸上競技に取り組んでいた高校の時。
それは高校陸上時代で書きたいと思います。
最後に
結局、体を壊してからは運動をまともにすることはできず、学校に行くことすらままならない形で小学校を卒業しました。
その当時は「もっと頑張りたかった」「体さえ壊さなければ」と思って受け入れられていませんでしたが、今となっては、自分を見つめ直せるいい過去だったと受け入れられています。
(いろんな人に迷惑をかけてしまったことには謝りたい。)
そして何より、スポーツはどうあるべきかと比較するためのいい経験になったと自負しております。
この後中学校、高校と続くわけですが、陸上はまだ始めておらず、中学校でも野球を続けます。
ということで、長くなりましたが、壮絶な少年野球編でした。
小学校のこの過去が今の私を表現する一つのエピソードです。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
次回#003中学校編も是非読んでくれると嬉しいです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?