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我、忘れる、ゆえに我あり

 AmazonのPrime Videoで、『IWGP・池袋ウエストゲートパーク』が配信されていた。懐かしのあまり、一日で全話、一気見してしまった(笑)。

 窪塚洋介演じる「KING」のキャラクターは、今なお傑作である。

『IWGP』を見ていたこともあり、脳内ではずっと、作品の主題歌である『忘却の空』がリピートしている。清春が歌い上げる、SADSの代表的なナンバーだ。
 
 そんなこともあってか、ふと「忘却」というワードが異様なまでに気になりだしてしまったのであった。そして、そのワードは、あることを私に思い出させてくれた。その「あること」とは、確かメモに残していたはずなのであった。

 早速、過去のメモを引っ張りだす。――私は本を読んだりして感銘を受けたものや気になった文章は、GoogleのKeepにメモすることにしている。メモ自体はnoteなどでずっと残し続けているのだが、Keepにしてからははや7年くらいになる――。

 記憶から手繰りよせたのは、2020年に残したメモであった。

 メモにはこうある。

●マリファナに幻覚を与えるような構造があるのではなく、そのような痛みを忘れる、記憶を消去するという内的な構造がすでに人間にはあり、マリファナが持つ成分がその内的構造を助成するのだという話は面白い。

●出産の時にも、そのような痛みを忘れさせる物質が分泌されるのだそうだ。痛みや痛みの記憶を忘却させる力を、人間身体は内的に持っているのだという。

●われわれの精神は、内的な物質によってコントロールされている。マリファナのような植物が持つ化学物質と人間の内的物質の一致。親和性。これが、人間がマリファナのような中毒性あるものや、飲酒のような一時的な「陶酔」や「緩和」を欲望させるのである。

●人間は、自分たちの<外>にあると思っている自然の力から、忘却を求める。だが、人間と自然を区別するものはない。これらマリファナへの欲望(陶酔への欲望)は、自然的なものなのである。

 そうそう、「忘却」というワードから連想し、私はこのメモに辿り着きたかったのだ。ちなみに、私はこのメモ自体、「忘れていた」(笑)。

 だが、あることをきかっけに(今回でいえば『忘却の空』という曲)、忘却の底にあった記憶のデータベースから、一片のメモを引っ張り出してきたのである。

 メモは残っていたのだが、書物のタイトルの記載がない。すぐに思い出すことができた。さすがに四年前である。購入したはずの本を、今度は、積読された書物群から探し出す。

 ちなみに、最近、積読が無駄であるという記事が話題になっているが、積読とは、自分専用のデータベースである、と私は考えている。こういう時に、実際の書物を引っ張り出せるのが、積読の「大いなる意義」なのである。

 あった。マイケル・ポーラン著、『欲望の植物誌』だ。

リンゴと〈甘さ〉、チューリップと〈美〉、マリファナと〈陶酔〉、ジャガイモと〈管理〉――これらの4つの植物と人間の欲望とのせめぎあいは、〈植物の目〉からは、どんなふうに見えているのだろう?斬新な切り口で捉えなおした自然史・文化史に、「マリファナ工場」や遺伝子組み換えの現場などからの最新の報告を自在に織りまぜ、植物と人間の「未来」を静かに問うユニークな〈植物誌〉。

本書帯文より

 本書に登場する植物たち。人間が、これらの植物を栽培し、コントロールしてきたのではない。むしろ、人間は自分たちの欲望を植物に利用されることで、彼らの繁栄を手助けしているだけなのではないか。それは、さながら、われわれ人間が「働きバチ」でもあるかのように――。

 アダムとイブが手にした禁断の果実である「リンゴ」から始まり、オランダでは投機の対象にもなり、世界初のバブル経済事件にもなった「チューリップ」、グローバル経済を象徴する「ジャガイモ」、そして何千年にもかけて人類を誘惑し、陶酔させてきた禁断の植物である「マリファナ」とあり、どれも目から鱗の話ばかりであり、おすすめの一冊である。

 しかし、私が特に目を引いたのが「マリファナ」について書かれた章で、上記のようなメモの内容は、この「マリファナ」の章に書かれていることに基づいている。

 私の主観的な思い込みが強い、ただの切り取りメモでもあるので、引用自体に間違いがあるかもしれないが、重要なポイントは、「忘れる」という行為自体が、人間という生命には「物質的」にも「性質的」にもインプットされており、進化の過程で重要なファクターとなっていたのではないか、ということである。

 マリファナは、たんに幻覚をみてハイになるためのもではない。1930年代に禁止されるまでは、万能薬として、痛み、ひきつけ、嘔吐、緑内障、神経痛、不眠、鬱病などの治療に使われてきた。

 このことを考えると、人間には、生存をしていくことの必然性から、このような効果をもつ植物は必要不可欠であったのだろう。

 それこそ、大自然における災害、野生動物・植物からの攻撃、狩猟の中での駆け引き、人間同士の争い、戦い、未知の病。人類は外部からあらゆる脅威にさらされ続けていたのであるから。

 実際の被害による痛みを緩和することも、極限の緊張状態から解き放たれることも、不可欠だったのである。

 「忘れる」ということは、生存戦略的にも重要なファクターであったのだと考えられる。

 現代にあてはめてみても、そうであろう。

 たとえば、人間は生活の中で、膨大な情報を受けとるが、それをすぐに忘却してしまう。すれ違った人々の顔。電車の広告。さっきまでの行動。そんなものをいちいち覚えていない。これは人間の能力の欠落なのではい。

 むしろ「忘れる」ことこそが人間の能力なのだ。もし、この忘却というものがなければ、それこそAIのように無限にデータを食わされるのだとすれば、われわれはその圧倒的な情報量によって押しつぶされてしまうであろう。

 精神(身体)というDBはそのようなキャパになっていないのだ。平穏に生きるためには、記憶だけでなく、忘却が重要なのだということ。

――忘れることによってのみ私たちは、時間の糸を手放し、今の一瞬を生きるという、日々の暮らしのなかではとうてい得ることのできないような経験に近づくことができるのだろう。そしてそのような体験がもたらしてくれる驚きこそが、ドラッグに頼るにせよ、ほかの手段を使うにせよ、意識を変えたいという人間の欲望の核心にあるものではないだろうか?

『欲望の植物誌』より


 ところで、「我を忘れる」であるとか、「無我夢中」というような言葉がある。

 語源や意味はさて置き、通常、われわれは、これらの言葉を肯定的な意味として使っているだろうか? それとも、理性をコントロールできないようではダメだというように、否定的な意味として、使っているだろうか?

 私なんかは、どちらかというと前者の、肯定的な意味で捉えることが多い。

 仕事なんかでもそうだ。大事なプレゼンや、アイディアが降りてきて、夢中で事業計画書や企画書を作成している時、商談先を説得する時、そのような状況こそが、私の能力が発揮されていることを痛感する時であり、この時の私は、ほとんど、考えていない。

 いや、厳密には「考えている」のだろうけど、それは普段、われわれが「考える」という意味での思考とは、別の回路で作動している思考のような気がする。行動と思考が同時並行的なのだ。

 これらは、皮膚感覚的にも、誰もが経験するものではないだろうか。仕事だけではない。スポーツをやっているとき、面白い本に夢中になっている時、映画を見ている時、私は「考えていない」。逆に「考える」隙ができてしまった時は、集中していないように思えてしまう。面白くないからなのだと思ってしまう。

 モノを書いている時の例もある。何を書こうかと、椅子に座って「考える」行為に移ったとたん、アイディアや書きたいものがまったく出てこなくなる。しかし、散歩をしている時や、風呂に入っている時など、自分が想定していなかった「外」から、アイディアは降りてくるのだ。これは、芸人や、作家などもよく言っていることなので、多くの人にあてはまるものなのだと思う。

 そういった、「降りてきた」とされるアイディアは、実際に「外」から来るのではない。普段、われわれが「思考」と捉えているものとは、別の回路の思考が作用しているはずなのだ。

 柄谷行人なんかは、「私は書きながら考えている」とさえ言っていた。

 アウトプットとは、<考える→行為に移す>よりも、<考える=行為>なのだ。

「考える」という、その行為だけを切り離した「思考」というものは、ろくなものではない。私の経験でいくと、何かをやっていない時の思考や、思考しようと思って思考している時というのは、たいてい負の方面に向かってしまう。

 未来の自分のあり方について真剣に考えようと思って、椅子に座って考えていても、いつの間にか邪念というか、他人との比較であるとか、今の自分が置かれた状況であるとか、将来の不安であるとか、人間関係であるとか、余計なことばかりに思い至ってしまい、かえって、病みがちになってしまうのである。

 それよりも、先ほどと同じで、何か別のことをしている時に、思考のブレイクスルーがあったりする。

 だから私は、なるべくなら、<思考のための思考>、という時間を作らないようにしている。考えに考え抜いた結果、それによって何かが変わるのかといえば、そうはならないのだ。

 卑屈になってしまう時間など無駄なので、とっとと動こう、働こうと思うようにしている。そうでなければ、掃除をするとか、本の整理をするとかがよい。とにかく、自分の「精神」というやつに、思考のためだけの時間は与えないようにしている。

 すると、私なんかはこういう風に捉え直してみたいと思うのである。
 
 よく言われる、「我思うゆえに我あり」よりも、むしろ、

 「我忘れる、ゆえに、我あり」なのではないかと。

 こちらの方が、私にはしっくりくる。(哲学史的な文脈はここではおいておく。たんに、私の経験則からくることから、私見を述べるにとどまる。)

 私が私としての能力を発揮していると思える時、あるいは何かに没頭している時というものは、たいてい、「我を忘れている」状態である。

 暇な時に考え事ばかりしてしまう時の私と、夢中で何かをやっている私、どちらを他人にアピールしたい私ですか、となれば、迷うことなく後者を差し出すであろう。

 何が本当の私だろうかと、考えに考えつめた「自己」を、少なくとも私は必要としない。そういった自己形成は、とうぜんながら、青年期や社会に出ていく中では必要なプロセスであろう。

 だからこそ、若い感性による文学やアートや、音楽が生まれる、ということも、もちろん自分も青年だった頃があるので、理解している。

 だが、そういった自己形成のプロセスを経たうえで、私は、確固たる自我を手に入れたのか? と問われると、なんとも心もとない。

 だから、ただの凡人に終わるのだよ、と言われてしまえばそれまでだが、それはそれで構わない。

 私には、護るべき確固たる「自己」などない。少なくとも、思考の中にしかない、閉じられた自己は、いらない。いらないという表現が言い過ぎなのであれば、「忘れてよい」とでもいおうか。

 「自己」は忘れてよいのである。

 護るべきものは、むしろ、この私のこの身体。

 私の知らないところで<考える=行為>のメカニズムを働かせている、不可知なまでの、この身体。

 モノとしか言いようがない、この私という身体に、どう付き合っていこうか、というのが、私の関心事である。

 だから、私はこう言う。「我、忘れる、ゆえに我あり」

 これも、忘れるということによる、私の生存戦略だ。


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