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読書とはスポーツである 私の読書計画



読書とはスポーツである。

 半分はあくまで比喩として、残り半分は本気でそう思っている。

 まずは、「スポーツ」の定義を引っ張ってみたい。

カタカナで表記されることからもわかるように、スポーツは外来語です。ここでは、スポーツという言葉の語源について詳しく解説していきます。

ラテン語の「deportare」が語源

スポーツの語源は「あるところから別の場所に運ぶ・移す・転換する・追放する」の意味を持つラテン語「deportare(デポルターレ)」とされています。「de」は英語の「away」を意味し、「portare」は英語の「carry」を意味します。

ラテン語本来の意味から「気分を転じさせる」「気を晴らす」といった精神的な移動や転換に変化し、その後「義務からの気分転換・元気の回復」が一義的な意味になったという説が有力です。

(中略)

上述したラテン語の「deportare」が時を経て、中世フランス語の「depoter(デポテア) 」や「desporter(デスポッティ)」に転じていきます。これは「気分を転じる・楽しませる・遊ぶ」といった意味を持つ言葉。つまり、スポーツの語源の意味は“気分転換”と言えるでしょう。

引用「「スポーツ」の語源や由来とは?定義における「体育」との違いも解説」より
https://media.japan-sports.or.jp/news/41


 ラテン語本来の意味でいくと、「気分を転じさせる」「気を晴らす」というのは驚きだ。心身の健康を目的にしていること、気分転換を、スポーツとするならば、読書もまた十分、この定義の範囲内であろう。

 すると、こういう反応があるかもしれない。読書は心の気分転換、心の鍛錬はできるかもしれないが、「身体は鍛えられない」と。

 読書では身体を鍛えられない、というのは本当だろうか。読書の効果としては次のようなことがよく言われている。

 読書は「脳」を鍛えるのである。脳とは心だろうか、身体だろうか、という哲学的難題にぶつかってしまうが、科学の知見が発達した現代においては、脳が身体であり物質的なものであるということは、疑いようがないであろう。

 つまり、読書は身体を鍛えており、その身体である脳が作り出す心も同時に鍛えているという意味で、スポーツの定義には十分にかなっているのではないだろうか。

 こんなの詭弁だというご意見もあるだろう。しかし私も、なにも理屈で読書とスポーツは一緒である、ということを示したいわけではない。

 厳密には、読書体験とスポーツ体験というものは、ある一つの「目的」に向かっていくプロセスにおいて、そこで必要とされる心身の働きは、きわめて類似している、ということを伝えたいだけである。

 スポーツ、運動は本人の「能動性」が求められる。ちょっとした筋トレ、ランニング、意識的にやらないとできないトレーニングと呼ばれるものは大抵がそうだろう。勤務先へ歩いて行く、買い物のために自転車に乗る、という日常生活の必然性から行っている運動は、ここでは除外する。

 野球の素振り、サッカーのリフティング、どんなスポーツであれ、基礎訓練と呼ばれるものでさえ、「意識化」されなければ、実行することはできない。

「意識化」=「目的化」と置き換えてもよい。野球は、野球をやろうという目的を持った者が行う。サッカーも同じ。ランニングも、水泳も、筋トレもそう。習い事であれ、部活動であれ、サークルであれ、きっかけこそ親の強制とか、友人の誘いとか、成り行きとかであったとしても、最終的には、本人の能動性なしには、スポーツは「なされない」のである。

目的としての読書

 これは、読書もまったく同じである。読書は、映像や音楽と異なり、「ながら読み」ということが、基本はできない(できるという特殊な人もいるかもしれないが)。

 文字を読むということにより、本の世界に能動的に没入していくことが求められるのだ。もし、少しでもその没入を遮るようなものがあれば、とたんに文章の意味や内容を追うことができなくなる。集中力という、きわめて能動的な意識化が必要とされる行為なのである。

 さて、最近は、こんな本が出ており、話題になっているようだ。残念ながら私はまだ中身を読めていないのだが、私の経験則からも、タイトルだけ見る限り、「その通り」と同意できてしまう。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(三宅香帆著)
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/

 仕事で忙殺されてしまうと、なかなか本が読めなくなる。仕事が終わったとしても、現代は、読書以外にもさまざまなコンテンツがあり、誘惑がある。ゲーム、Youtube、ドラマ、ネットニュース、SNS。これらを自分の関心、好きなものにあわせて、ひととおりなぞっていくだけで、仕事終わりの休息時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。

 それでいて、面白い。なかには、読書体験にも劣らず、自分の知識のためになるという情報番組、教養番組も最近ではなかなか充実している。読書の出番がないというわけだ。

 そう、読書は、明確に読書をしようという者、読書が好きであるという者においてしか、「意識化」されないものとなっている。習慣化しようという意志がなければ、なかなか起動されないツールになっているのだ。

 注意頂きたいのは、ここで私が言う「意識化」というのは、「本を読まなければならない」「本を読むべき」という、どこか義務感からくる行為のことを言っているのではない。

 義務感からくるものは、あくまで「受動的」な行為であり、楽しくない、やりたくないと感じてしまうものは、継続ができない。継続できないものを、私は「意識化」とはいわない。

 ここでいう「意識化」とは、心からそうしたい、必然的にそうするのだという、その体験自体に向けられた「喜び」、「快感」、「心地よさ」という能動性を伴っている必要がある、ということだ。

 とはいえ、忙殺されているサラリーマンが、なかなか能動性を伴った習慣を持つということは難しい(特に平日)。

 私も、仕事終わりに、ランニングをしよう、せめてウォーキングを定期的に行おうと思って、とりかかったとしても、ほんの一瞬である。結局いつも、続かなくなってしまう。

 最初こそ、それを積極的に意志したとしても、そこに能動性がついてこれなくなってしまうのだ。それは、裏を返せば、その行いが、好きではない、他に優先したいものがある、ということになるのだろう。

私の読書計画

 同じように、本当に読書を習慣化するのであれば、それなりの時間を割くという「積極性」と「計画性」、かつ継続するための「能動性」が求められるであろう。

 私は、ランニングとは異なり、この読書においては、それなりの継続ができている(と思う)。時間はなかなかとれないのだが、計画的、意識的に読書のための時間を割り当てている。

 以下に列挙した、生活サイクルの隙間時間に、本を読むという行為を添えている。これで、なんとか、60~80分は、時間を割くことができる。

・通勤時間(往復)
・昼休憩(ご飯食べた後)
・トイレ時間
・お風呂時間
・就寝前
・その他、外出時に発生する待ち時間

 で、この1日に実現できる読書量から、逆算していくのである。1日最低60分の読書時間が確保できるということは、だいたい1ページ=1分の読書速度なので、1日=60ページの読書ができる。週末の土日は余裕があるので、それぞれ120分とれる。

・平日5日間=60ページ/1日×5日間=300ページ
・週末2日間=120ページ/1日×2日間=240ページ
・1週間で読める読書量=540ページ。小説、学術系をおりまぜても、1週間のうちに2~2.5冊分くらいは読める。
・月間で読める読書量=2~2.5冊×4週=8~10冊
・年間で読める読書量=8~10冊/1カ月×12か月=96~120冊
・平均取って≒100冊/1年間

1年間で私が読むことができる読書量の計算

 これで、年間100冊は読める、という計画が立つ。そこからは、10年で1000冊、20年で2000冊・・・ とやっていくのだが、いったんまずは1年単位でみておく。

 1年で読める本の量は100冊なので、月にだいたい読める本の量もわかり、そのために、購入すべき本も、あらかじめピックアップできる。

   私なんかは、読みたい本がたくさんあるので、あらかじめ1年間で読む本を、年初でピックアップしている。Amazonにあるマイリスト機能は、本の購入計画をたてるうえで、重宝している。

 読みたい、購入したい本を、月ごとにピックアップし、あらかじめ可視化しておくのだ。で、気分が変わったり、優先したいものの順番が変われば、リストの中身を入れ替える、ということをやっている。

 もちろん、私がこのように読書計画をあらかじめ可視化しておくのは、本を読むということが、あらゆる趣味の中で、いちばん時間を割きたいものだからである。

 決して義務感で計画化をしているわけではない。繰り返すが、義務感からくる計画は継続しない。そこに、「能動性」がプラスされる必要がある

 本を読むことは、私にとっては、脳を鍛える=考える力を養うというのもそうなのだが、シンプルに、世界のあらゆる「知」を知りたいという「知的欲求」からくる。

 むろん、一生涯において読める量は有限なので、自分にとって関心が高い領域は、小説なのか、世界史なのか、哲学なのか、科学なのか、とある程度優先順位をつけて、定めておくことにしている。

 そして、読み終わった本は、必ずメモに残し、リスト化していく。こうしておくことで、本当にその月に10冊読んだのかを確認している。今のペースで100冊いけるのか、というのもここで調整している。

 ペースが鈍い場合は、読みやすい新書や小説で調整しよう、余裕があるときは、ヘビーな哲学書にいこう、といったバランスもここでとっている。

 そして、1年が経ってから、自分が読んだ本リストを振り返り、来年はどんな読書プランにしようと、次の計画を立てていくのである。それをルーティンワークとして毎年繰り返すのである。

 いかがだろうか。読書もこのように計画化、可視化すると、ランニングや筋トレといったスポーツにおける計画化と、きわめて類似していないだろうか。

まとめ

 読書は、スポーツである。

 そんなことを言ったら、あらゆる文化的な趣味もスポーツだ、とここまで書いてきて気付いてしまった(笑)

 その理屈でいくと、ギターやピアノといった楽器の練習、絵を描くこと、漫画を描くこと、写真を撮ること、歌を歌うこと、書道、茶道、あらゆることが、身心の鍛錬といえるので、あらゆる文化活動はスポーツだ、と結論できてしまう(笑)

 半分冗談で、半分本気である。そもそも、世の中でいわれている、体育会系と文科系という二元論も、私は疑問がある。それは、身体と精神は、異なるものであるという身心二元論的な価値観から生まれた構図に思えてならない。心身一元論者であれば、スポーツと文化的なもを、対立軸にする必要はない。

 いずれにしても、どんな活動を行うにも、「習慣化」させ、それを自分にとって鍛錬と呼べるようなものにするには、「計画性」および「能動性」なしには難しいだろう。

 趣味は、楽してできること(受動的)ではなく、楽しむもの(能動的)である

 とはいえ、私の習慣はだいぶ読書に偏っているので、やはり「スポーツ」でバランスをとる必要はあるだろう(笑)


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