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AIか人間か、あるいは身体と感情の哲学、スピノザをめぐっての雑考




AIか人間か

 AIという新たな知性の台頭により、AIと人間を分け隔てるもの、差異は何かという議論が頻繁に行われるようになった。とりわけ、AIと人間の違いを強調するうえで、よく持ち出されるのは「感情」あるいは「意識」と「身体」の問題ではないだろうか。

 しかし人類はこれまで、知性あるいは理性(論理的能力)こそが人間を人間たらしめる能力であり、人間にしか持つことができないものなのだと信じてきた。だが、そんな人間の特権である知性や理性を脅かす存在としてAIのような人工知能が出てきた途端、人間には、AIとは異なり、感情がある、意識がある、身体があるという議論が活発化しているように、私には思える。

 これまで、知性と理性を重んじてきた西洋の知を究極化していくと、当然それは、感情や迷信のような、認識や行動、選択の判断を誤らせる非合理的な知を排し、より合理性と論理性に特化した、人口知能のようなものになっていくであろう。そして人間の知性と理性とは、まさしく「精神」の名において代弁されてきたものであるゆえ、「人間の精神」対「AIの知能」という構図が生み出されてしまう。

 それに対し、いやいや人間の精神は、知性と理性だけではない。人間精神には、記憶という歴史の知も搭載していれば、経験的なもの、感覚的なもの、無意識的なもの、感情的なもの、文学、芸術といった感性的なものが備わっているのであり、人工知能はまだまだそこに追いついていないというわけである。

 だが、人口知能に人間の感情のパターンを学習させるとか、意識を搭載するという試みもテクノロジー側では行われているようで、このような議論さえ不毛になってしまうことが、そう遠くはない日に実現されてしまうかもしれない。そうなった時、AIの知性が人間知性を超えてくるかもしれないという議論は、振り出しに戻ってしまうことであろう。

感情の哲学者

 AIか人間か。知性の対立に対し、突然フォーカスされ始める「感情」。あるいは「意識」や「無意識」。感覚や経験的なものにみられる「身体」。

 昨今、スピノザという17世紀、350年も以前の哲学者の思想が注目を浴び、哲学ばかりではなく、科学や医学、心理学などからも援用されているのは、上記に述べてきたような背景があるからだといえる。  
 
 このスピノザこそが、17世紀という時代において、ただ一人、人間の「感情」は知性や理性に劣るものではないというばかりでなく、「同様である」とさえ論じていた哲学者なのである。

これまで感情や人間生活について書きしるしてきた人はたいてい、共通な自然の諸法則に従う自然の事象を考察の対象にしないで、それをあたかも自然の外にあるかのように考えて、論じているようである。それどころか、自然の中の人間を国家のなかの国家でもあるかのようにうけとっているらしい。・・・・・・また彼らは、人間の無力や不安定が、共通の自然の力によらず、――私にはそれが人間のどのような欠陥に相当するのか理解できないのだが、とにかく人間本性の欠陥によるとしている・・・・・・自然のうちに起こるもので、自然自体の欠陥のために生ずるようなものはありえない・・・・・・したがって憎しみ、怒り、妬みなどの感情も、それ自体で考察されるならば、感情以外の他の個物の場合と同じく、自然の必然性と力から生ずるのである。
※強調、引用者

スピノザ『エティカ』第三部「感情の起源と本性について」序文より

 スピノザの『エチカ』は、幾何学的な叙述によって書かれた神、人間の精神をめぐる倫理学の書であるが、第三部「感情の起源と本性について」と第四部「人間の隷従あるいは感情の力について」と、全部で五部構成のうち二部も、感情をめぐっての考察に割いている。

 そして、現在、哲学のみならず、脳科学や、精神分析、免疫学、心理学などから注目されているのも、主にはこの第三部であるといえる。喜び、悲しみ、欲望というスピノザの感情論を代表する概念から、感情の能動性/受動性の概念、存在に固執する力=コナトゥスの概念は、この第三部で知ることができる。

 スピノザが第三部の序文で述べているように、これまでの西洋哲学においては、感情というものは重要視されてこなかった。むしろ感情は、人間の「欠陥」からくるものであり、その欠陥ゆえに「あざ笑い、蔑み、忌み嫌」われてきたのである。これら感情=精神の無力を、「やっつけることに熟達した者は、あたかも神のようにあつかわれる」のである。

 これらが、今の私たちを支配している考え方と地続きであるということは、私たちは皮膚感覚でわかる。社会において、感情的であるということは、幼稚であるとか精神が未熟であるとか、ネガティブに捉われてしまう傾向が強い。成熟した人間ほど、心の迷いや感情の不安定さがなく、合理的に物事を認識し、判断できる人間だとされている。
 
 だが、スピノザはこの「感情」というものを、それまでの哲学者がそうしてきたように、人間の知性や理性の「外」にあるもの、あるいは「低い」ものに置くということをしない。そればかりか、感情とは「自然の必然性と力から生じる」ものであり、人間の本質であるとさえ、述べている。

 さらには、これまで考えられていたような、感情=受動的な精神という、どちらかというとネガティブな考え方とは区別し、感情は能動にも受動にもなるということで、感情の積極的な側面も見出すのである。

感情とは、身体そのものの活動力を増大させたり減少させたり、あるいは促したりまた抑えたりするような身体の変様であると同時に、そのような変様の観念でもある、と私は理解する。こうして、もし、われわれがこのような変様のどれかの十全な原因でありうるならば、その場合感情を、私は「能動」と解し、それ以外の場合「受動」と解する。

スピノザ『エティカ』第三部「感情の起源と本性について」定義三より


身体こそが

 だが、上記の定義にもあるように、忘れてならないのは、スピノザがこの「感情」を論じる時、感情というものは「身体」という自然的なものから切り離すことなどできない、ということである。

 もっとも、スピノザにおいては、人間の精神そのものが、身体と不可分のものとなっている。むしろ、精神とは「身体の観念」なのであり、スピノザにおいては、「精神」と「身体」を区別するという考えや、序列やヒエラルキーがあるという考えもなく、「同一」のものである。

 身体と精神とは、同一のものが、二つの<現れ方>をするにすぎないという、「心身並行論」と呼ばれるものである。

 だが、人間はこの身体が「何をなしうるのかを今日まで明確にしたものはいなかった」のだとスピノザはいう。

 精神があり、精神が指図をすることで身体が運動したり静止したりするのではない。精神の指図なく、身体は、わたしたちの知らないところで運動し静止する。これはリアリティがある。

 実際に、われわれは眠ろうという「意思」で眠ることなどできないはずである。寝ようと意思してベッドに就いても、眠るタイミングは図れない。われわれは眠る瞬間を意識化できない。知らないうちに寝ているのである。あるいは、緊張状態にある時ほど人は思ってもみなかったパフォーマンスを発揮したりする。そして老衰や病気という外部のものから受ける身体の変様は、意思でコントロールできない。

 
 哲学者の國分功一郎氏は、この「身体」というものを搭載しない限り、AIから意識が芽生えることはないだろうと言っている。ご本人のXでの投稿から引用する。

スピノザの言う〈意識〉について恐らく最も重要なことは、身体がなければ〈意識〉はないということ。どれだけ計算が発達して量も速度も上がっても、その「(人工)知性」に身体がない限り、意識は芽生えないとスピノザは考えている。この命題が、AI時代の今、にわかに重要性を増している。

X 「koichiroKOKUBUN國分功一郎 May 2, 2023」での投稿より

 実は、スピノザ自身も、技術=テクノロジーについて、『エチカ』にてこのようなことを述べている。

私はここで、人間の身体の構造そのものが、人間の技術によって作り上げたいかなるものよりもはるかに複雑で精巧であるということを指摘しておきたい。私がすでに明示したこと、すなわち、自然はどのような属性のもとで考えられようが、自然からは無限に多くのものが生ずるということを、いまはいわないとしても。
※強調、引用者

スピノザ『エティカ』第三部「感情の起源と本性について」定理二の注解より

 
 先にも記載した、人間における経験的なもの、感覚的なもの、無意識的なもの、感情的なもの、文学、芸術といった感性的なもの、これらもすべて「身体機能」といった、自然によって生み出された無限知性の所産である。


「自己」とはなにか

 身体がなければ〈意識〉はないと、スピノザは言う。この場合の意識とは、「自己」と置き換えてもよい、のではないか。

 身体がなければ「自己」はないのだと。

スピノザとドゥルーズの思想のもとに思考する哲学者、江川隆男氏は、『内在性の問題』(月曜社)の中で、次のように言う。

(人間の思考のうちに必ずある)マイノリティ性は、何よりもまずは自己の身体の現実存在に依拠した基本的な特質として認識されなければならない。何故なら、身体の現実存在こそが、まさに局所性の認識根拠であり、また<私>とはまったく異なる<自己>の存在根拠だからである。<自己>とは、むしろ非‐人称的なものであり、身体の変様の多様性とともにしか形成されえないものである。

『内在性の問題』江川隆男著(月曜社)より

「自己」とは何か。それは「単に<私>に還元されるものではない」と江川氏は言う。哲学は、これまでこのような自己であるとか、精神の問題において、「感情」と同様に「身体」を不問としてきた。しかし、「自己」とは「身体の変様の多様性とともに」形成されるものなのである。そして身体の変様の多様性とは、外部からの刺激、反響、関係性によって見出されるものである。

 自分が生きている環境、他者との関係性、酸素や温度といった生命的条件含め、そのような地続きの諸関係の中において、はじめて自分の「この身体」=「自己」が見出される。注意しなければならないのは、江川氏の言う「自己」とは、<私>という精神の中でのみ、見出されるものとは異なる。

 そして、繰り返しにはなるが、従来の西洋の知が重んじてきたのは、むしろ精神の認識においてのみ立ち現れてくる<私>だったのであり、その主体的な精神が生み出す知性や理性である。身体や感情といったものは不問にされたまま、あるいはこう言ってよければ<私>の外にあるべきものとして、排除されたまま、今日までに至っているのである。

擬人化としてのAI

 人間かAIか、という二項対立の議論が出てきてしまうのも、一つには、これまで長い間、人類の概念、価値観を支配してきた、知性、理性、精神という西洋の合理主義的な知が前提になっているからなのだというのは、先にも述べた。

 この比較自体は、AIがどれだけ私たち人間に近いか、その「擬人化」によって生じるといえる。

 だが、この「擬人化」こそが、まさに、「主体」や「主観」、「私」に代表される、人間の「精神」として、これまでのわれわれの知の形成、価値概念を支配してきたのだと、江川隆男氏は指摘する。

 そのうえで、氏は、そうではない主観性について考えることは可能であろうか? と問う。

われわれは、本質的な問いの一つとして次のような問題を提起したい――人称性とは無関係に主観性について考えることは可能であろうか。例えば、<私>とは無関係に<自己>について論究することははたして可能であろうか。・・・・・・したがって<自己>は、人間の精神や心や意識だけで理解されうるようなものではない。人間は、自分たち以外のより多くの物を擬人化することで、つまり自分たちに似せて理解してきた。それと同時に人間は、実はこうした擬人化とともに、自らの姿や本性そのものを描き続けてきたのである。つまり、人間は、言わばこの擬人化を自らのうえに折り返し、それによって自分たち自身をまさに主観性あるいは主体性として理解するようになったのだ。

『内在性の問題』江川隆男著(月曜社)より


 ここでいう擬人化とは、神の擬人化がまさにその代表例といえる。人間は、神を擬人化することで、その神に自分たちの姿を投影することで、自分たち自身を、知性と理性を備えた「主観性あるいは主体性として理解する」ようになったのである。

 この、主観性や主体性として、AIを捉えようとしてしまう限り、つまりAIを人工知能として擬人化しているうちは、AIはその知性を限定してしまうことであろう。そしてその限定のもとでは、どちらが数量的に情報を保有できるか、どちらが速く情報を処理できるか、どちらが論理的な思考を導けるか、という比較の中で、追いついた追い越されたという議論が繰り返されるのではないか。
 

身体×AI、無限に多くのものが生ずる

 言い換えれば、この知性というものが、計算の速さ、合理性、最適化、論理性、という従来の主観性、主体性としての精神のみの中での比較であれば、それはAIは人間にとって、たえず脅威となっていくであろう。

 だが、スピノザに主体という捉え方がなかったように、身体の身体性、「自己」という考え方において、AIというテクノロジーを捉えるならば、それは比較するものや競争、超越するというようなものではなく、それぞれの掛け合わせにより、身体や知の拡張が起き、無限の知性を引き出すものとして捉えられるであろう。

 いつだってテクノロジー(メディア)が、われわれの生活や身体を規定していくように、人間とAIによる新たな観念、行為が産出されていくのだろう。今、すでにそれは起き始めているともいえる。

 もっとも、人類が作り出したテクノロジーと自然という無限の知性が掛け合わされる時、人間の無知ゆえに、人間が予測もできなかったような悲劇を巻き起こしてしまう可能性は否定できないのだけれども、それについてはまた時間をおいて検討してみたい。


(※)『エチカ』の引用はすべて、スピノザ『エティカ』工藤喜作、斎藤博訳(中公クラシック)

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