研究授業におけるツッコミという名の指摘〜発問の難易度〜

 小学校の研究授業において発問は結構ツッコまれます。
 一つの宿命として発問が適切がどうかが常に付きまといます。特に主発問ということで一番メインになる発問の重要性がよく問われます。質問と発問の違いは既習事項の確認と話し合いの起点という違いで良いと思います。というかあんまり区別する必要がないのかなと思いますが・・・

 今回あんまり教師の方が話さない授業にする方向性を示していたのですが、さりとて教え込む必要があるところまで引き下がるつもりがなかったので、既習事項に切り込むときはめちゃくちゃ喋っていきました。よって質問についてはあんまり意識する必要がなかったわけです。

 メインの発問の難易度が学年において適切かどうかがツッコまれる話は学校あるあるであることは先ほど触れましたが、今回も来ましたね。というか発問した時点で教室がザワっとしました。なかなかイラッとした瞬間でもありました。できたらあーいう私わかってますよアピールはやめていただきたいんですよね。授業を見ていてそういう反応を示す人っているんですよね。私は人の授業見ながら話すことはまずありません。そもそも普段から話しかけんなオーラを出しているのでよっぽど変なやつしか話しかけて来ないんですよね。まさか話しかけられて無視するわけにもいかないんでその時は仕方なく応答しますがね。
 授業はナマモノなので一つのアクシデントで反応が変わります。もしズレちゃったら元に戻すのが結構大変です。普段なら怒ればすぐ戻るんですがさすがに研究授業でキレるわけにもいきません。こないだも参観日にテンションあがっちゃった子がいたんですが難儀しました。

 今回も少しふんわりした発問をしたんです。
 もちろん対話をするためにはふんわりした発問にしなければなりません。簡単にイエス、ノーで結論が出てしまっては対話になりませんから。一瞬ミスったと思ったのはわかんないという雰囲気が漂ってしまった時ですね。この雰囲気は退治するのがなかなか難しいヤツです。しかし間髪入れず対話に入り込みました。わざと授業者が解説することを避けたわけです。こうして発問自体とこの切り込みについてなかなか辛辣なご意見をいただくことになったわけです。

 確かに発問の難易度を下げるというのは、授業を考える上で重要な視点です。最近接領域の話を持ち出すまでもなく。しかし闇雲に下げれば良いというものではないのではないかと考えます。別に研究授業だからではありません。俺スゲーを出す気もありません。
 というか子どもにわかんないと出合わせることというのはそんなに悪いことではないということです。もちろん心理的安全性のない状態でそんなことをすれば昨今の子どもはポッキリ折れてしまいます。そうではなく十分な準備のある中でそうした状態においてから学習する体験というのは学校の授業中でなくては作れないからです。その中で同級生と学び合うという体験にこそ、発見をした気になるという経験にこそ学びの一側面があるということをご理解いただきたいわけです。

 対話をうみだし、わかんないという感覚からなんとなく答えのようなものに向かって協力し合う経験をこの発問はさせたのではないか?とっても良いように言ってしまえばそういうことです。もちろん鑑賞するに耐えうるものだったかどうかは非常に疑問ですが・・・

 山場に主発問が発動されて、綺麗に教師のほしい結論が出て最後にまとめられていく。見ていて美しい授業というのは対話の結果として訪れる授業ではないはずだ。それが今回の授業のコンセプトです。綺麗にまとめるだけの授業でよろしければいくらでもお見せすることができたんですがあえてそうはしなかった。おんなじようなことを1回練習しといて本番でもう一回やる。そんなズルをやったこともあります。でも後に何にも残らなかった。

 そういう考えであえて発問をズラした。さてどれほどの人間がそこを見てくれたかな?そういうことです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?