教員養成・教師教育の視点

 教師教育の在り方というのは、そろそろ考え直さなければならないとは思いますが、教員数を確保するための教師教育というのは結果的には逆効果になると思います。それでは現場のためにならない。
 これは政策批判という高尚な観点ではなく、純粋に現場に迷惑というハナシです。
 昨日も職員室で小耳にはさんだのですが、ミドルリーダーという言葉は仕事増やすだけだよね。ってぼやいでました。禿同です。
 今の改革はほとんどこればっかりです。今いる教員をねこそぎやめさせようと思ってるとしか思えません。そんな状況をつくっておいて教員が足りないなんて意味が解りません。文科省、大学教員、教育委員会と教育委員会制度、そしてこれらが交ざりあってできる議論、それを自己都合でねじ曲げて報道するマスコミ、それらに騙される人間、これらが教員のやる気や教員になる気を削ぎおとしていきます。
 いつも目を引きたいだけの名古屋大学のセンセーなどさっさとご退場いただきたい。教員のため、教育のため、子どものためと言いながら自分のために引き寄せ自分を優先する人間を数限りなく見てきましたが、これはなかなかのもんです。

 今、「令和の日本型学校教育」の一環で教員養成に触れられている文言があるのですが、なかでもこれが最悪です。
 ほとんどが行われていることを別の呼び方にしただけだし、養成に関わる人間の数を増やすために意図的に予算をつけないまま質を落とすことでなんとかしようとしているからです。

 どこかでも述べましたが、教員養成を専門にしている大学は基本的教科教育で成り立っています。
 教員免許だけを売っている大学は、教員なんておかざりみたいなモンで、数合わせだけで人がいるだけです。日本にも有名な教員免許販売所がいくつかありますが、これは正直教育現場にとって害悪でしかありません。
 学歴にイロはついていないとは思っていますし、多様な人材の確保という観点としてはそう間違っていないとも思います。
 しかし、せめてただ販売しているだけという自覚があるのならトレーニングはそれなりにしてほしいと思います。
 売るだけ売って実際のトレーニングは現場任せというのはなんともナメた話です。現場への還元はゼロです。しかも老舗が結構あって4、50年の販売歴を誇っている大学も少なくありません。すでに退職した人間の中にもこうしたところで免許を買った教員がいたということを意味します。
 現場においてこうした大学に関わった人間とはちょっと関わり合いにはなりたくないと考えています。自分が大学マニアだからなのか、そういう大学で免許を買った人は話してみると大体わかります。まあ、教員は人間性込みなんでそこでカバーしてくる人も大勢いることは承知の上です。特に大学の学びの途中で向いてないと思える人は逆にこの仕事に向いていると思います。その謙虚さは重要ですよ。
 
 そうはいっても、教員養成系を名乗る大学でも基本教科教育指導を担当しているのは、大学の教員になりたいけど専門分野ではなれないから、仕方なく移籍してきたお下がり教員ばっかりです。
 なんか上の省庁の面接でダメだったから順に下の省庁にまわってくる文科省の役人みたいで笑えるんですが、基本的にこうした教員は教育のことがわかっていません。
 だからそのゼミに入っても学校現場で役立つことは学べません。教員が知らないのに学生が学ぶことはできないからです。教育の基本です。
 たまにこの中に校長、指導主事上がりの大学教員が混ざっているんですが、この人たちは授業が下手でどうしようもないから管理職の位置にいたわけで、この人たちに学ぶことは害悪以外の何物でもありません。
 この人たちが教育を語るということは不味いところは削って、うまいこと盛って美しい物語に仕立て上げてから一方的に伝達することを意味します。たまに現場でもこの老害の昔話に出合います
 教育実践を語る(教育実践そのものと言っていいかもしれません)ということは往々にしてそういうことです。それはこれまでの斎藤喜博さんや無着成恭さん、大村はまさんといった有名人でもそうでした。
 たまに本で読んだ他人の研究結果を自分がさもつくったかのような語り口で話す人がいて閉口します。
 あのアホ校長もまさか自分が講演会で話したことをつくった人間が学校教員として目の前に座って話を聴いているとは夢にも思わなかったでしょう。
 正直、こうした自分の稼ぎのことしか頭にないこうした人間を教員養成に関わらせることは余計教員不足をまねきます。

 そもそも私が教員になった30年近く前、今より何倍も競争率が高かった時代ですら、「なるより、続ける方が大変」といわれる職業でした。確かそのとき自分で調べた教員の給料が博報堂の半分だったのを憶えています。実はそれでも今より当時の方が教員の給料の手取りは高かったんですが。
 状況自体は今よりなかなか壮絶であったわけです。

 それでも当時は、希望と夢は今よりたくさんありました。それは間違いない。
 教育改革の議論が誰でもなされていて老人しかいない教育現場に突っ込んでいって全てをぶち壊してやると教育学部生は皆意気込んでいました。
 しかし就職氷河期と重なり、なかなか老人がやめないんで就職できず困り果てましたが。
 それでも何とか就職して老人どもの総攻撃にあったときはなかなか壮絶でした。パワハラ、セクハラのオンパレードです。楽しかったんですがね。明治大学野球部みたいなもんです。いかん老害の昔話になってしまったか。

 それましたが、こうした状況を脱却する術は 「令和の日本型学校教育」を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について~ にはまともには書かれていません。そもそも単純に教員養成と教師教育の質を上げようとするなら集中的にここに資本投下をする必要があるんですが、文科省と都道府県と市町村でやっていることがバラバラなんです。
 しかも現場には全く関係にない制度のちょっとしたイジリやいらない調査やメリットのないがゆえに広がる見通しもないプラットホームづくりなどやる前から無駄だとわかる取り組みのオンパレードです。
 どこにも成果を点検する装置がありません。そういう建て付けではなく、ただただ一般企業の真似をした工程表を用意しただけです。
 そもそも実現するとした予定のころには担当者は全員、別の部署に異動になっているというのは公務員あるあるです。最初からそれを狙っているとしか思えない。
 文科省の改革で最後まで、顔出しして責任をとったものは寺脇研さんのゆとり教育まで遡ります。これでボロクソに叩かれたために以降文科省はまともに最後までやり遂げた改革は何一つありません。出世と天下り先の都合しか考えない官僚だけが出世する悪循環はどこも同じです。
 正当な出世ルートのための評価のやり方をうみだしてみろよ。それだけで問題は全て解決です。

 わけのわからん取り組みを増やす前に教育現場を夢と希望にあふれる場所にする努力をしてみろよということです。以上。

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