体罰への教員としてのコミット

 実はこれは三部作構想だったわけではないのですが、結局いじめ、不登校、体罰という教育課題についてまとまってしまいました。

 保護者からすればけしからんということ以上の感情を抱くということについては同感であるのですが、実はよくよく考えるとこの問題はそう単純な話ではないことが多いのです。

 というのも可視化されている体罰というのはわかりやすく犯罪であるのですが、この3つの課題に共通して言えるのは見えにくくになってしまっている部分、見なくて良くなってしまっている部分というのが存在してしまっています。そして見えなくても、その存在について言及しなくても良いことまでほじくり出されてしまうことがあるんです。

 体罰に良い悪いがあるわけはありませんが、すごく簡単に誤解を恐れず言えば、本来良い部分であることが指摘されてしまい、そのため指摘する必要のあるはずの悪い部分について見過ごされてしまったり、なぜか承認されてしまったりすることが起こります。
 このループはなぜか収まることなく、教育現場を襲い続けています。
 
 ここではっきり言えることは、これが体罰ですと明示したり、体罰は処分しますという教育委員会の紋切り型の伝達には何に意味もないということです。それどころかこの手法には、先ほど挙げたループを補完する作用をもたらしてしまう恐れすらあるのです。

 まずは体罰の明示です。
 これはほぼ確実に犯罪であるとわかりやすい行為のみ指摘します。このこと自体にあまり意味はありません。これをやってしまう教員はその時点で感情的になっており、善悪の判断がつきにくくなっています。突発的に起こっていることなので周りの教員には制止する術がありません。ということは明示しても意味がありません。
 問題はどうしてそこまで追い詰めなければならないかという部分のハナシなのです。これにコミットする明示はこれまで一度もありません。一時期「一人で抱え込むな」という掛け声で何とかしようとしたことがありましたが、これは逆効果です。
 問題が起こっているときに船頭が多くなってしまうのは良くない。しかしカンファレンスは持ちたい。これをやると結果どうなるか?無駄な時間のループと迷走する方向性の多発です。ここに訳のわからない経験論に基づく意味不明のロジックをぶっこむ輩が一人でもいた場合は余計大変です。より混迷の度合いを深めていきます。
 実際今の教育現場で現職の離脱が止まらないのは外部要因というよりはこうした内部の要因に嫌気が差すことに起因する場合が多いようです。
 この主因は実は一人で抱え込むな。だったというのは非常に皮肉な話です。原因と結果を取り違えるというのはありがちな勘違いであると指摘したのは確かニーチェだったと記憶していますが、それよりも程度の低い過ちが、おそらく現場を知らない大学教員の指摘が、学校現場の崩壊を招いているというのは文科省の失策が文科省を背後から撃つというなんとも奇妙な状況を現実化していることになっているからです。

 もう一つは少しビミョーな例示が保護者に与えるイメージの問題です。なんでもかんでも体罰であるとしてしまうと指導や危機回避そのものが体罰として保護者に認識されてしまうことを助長することにつながります。実はこれは日常茶飯事に学校現場で起こっていることです。これは明確に文科省、教育委員会、マスコミの仕業であるといえます。なぜなら明確な誤認であってもだれも責任を問われないシステムだからです。今週刊誌が好き勝手なことをやって法律上問題ないことになってしまうのと似ています。これに怒らないのは想像力が欠如している証拠です。仮に自分がそうしたことに巻き込まれた場合についての想定がない人間に限ってそうしたことで相手を攻撃しがちだからです。これはもう現代病だと言わざるを得ません。
 今学校現場は明確にこの病の攻撃対象になっています。その一つの突破口が体罰だということです。というか文科省の体罰の規定が転じて厳しい指導すら体罰みたいなことになってしまっている始末です。
 これが先ほど挙げたループを補強する補完のメカニズムになります。自分が悪くないことを担保するために誰かの落ち度について言及する糸口を堂々と他の人間や他の事象に転嫁させていくからです。この転嫁は原点から遠ざかれば遠ざかるほど、サイクルを重ねれば重ねるほど、その強度を増していくことになります。
 他者への攻撃でそれをあがなおうとすればするほど、その主体が傷つき、周りの人間も傷ついていきます。この中で苦悩する教師は自己防衛のために体罰の使用を厭わなくなっていきます。もう一つの自己防衛の方法は、子どもと関わらないようにすることです。または関わっているように見せかけて忌避することです。
 今の教育現場はこうしたことに時間と労力を使い果たしてしまっている状況です。犯人は明らかに文科省と教育委員会制度、大学教員とマスコミです。体罰の根というものがあるとするなら明らかにこれらの人間が現場のゆとりを根こそぎ奪って、「一人で抱え込まない」教育委員会のような風通しの悪い職場を現場に持ち込んできた状態を指していることは疑いありません。

 有り体に言ってしまえばいじめ、不登校、体罰は教育にとっての不治の病です。これを根絶しようとする限りカウンターがおそってくる。これは進撃の巨人やシドニアの騎士、もののけ姫、風の谷のナウシカなどに通底するテーマと共通するものです。これらは結局うまく付き合っていくしかないという示唆を遺したのではないか?と私は読んでいます。


 この3つは何が違いかというとだれが、どこでが重なった場の設定だと考えます。いじめは学校も含めた日本社会、不登校は子どもを含めた家庭、体罰は文科省、教育委員会制度を含めた教員の課題だということです。

 つまり日本型学校教育は、永遠にこの課題と終わりなき対話を続けていく必要があるということなんだろうと思います。もちろん今の教育形態を捨て去るときにはこの課題との対話も共に捨て去っても何の支障もないのですが、経済効率の面からも教育の質の面から見てもこれ以上のシステムはなかなか見込めません。
 ただ今はいらない施策や不要な人員が追加されて見てくれは良くなっても中では非常に働きづらい状況になっています。教育現場で何もしないで、もしくは自分で仕事を作って自分で処理する高給取りはさっさとご退場いただきたい。
 そしてその分でこの永遠の対話に必要な教員のゆとり(時間と業務の保証)と教育の尊厳を造り上げていただきたい。それが使用価値のある教育現場へのサポートというもんです。

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