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神道の源流は飛騨の乗鞍信仰?② ~縄文シャーマニズム~

・飛騨大陸は日本列島発祥の地?

昨日の続きです。

飛騨口碑では、飛騨が日本人発祥の地です。まだ日本列島が無く、海に覆われていた時、一番最初に地表に現れたのが、乗鞍岳・・。そして乗鞍のふもとにあった飛騨が、日本人発祥の地である、というもの。
地質学的にも、アジア大陸から分離した日本列島が、5億年前頃に隆起して初めて海上に頭を出したところが飛騨大陸で、実際、飛騨のシンボルである乗鞍岳麓の福地温泉からは、日本最古(4億8千年前)の生物化石が発見されて天然記念物に指定されています。そして飛騨には、一万前~8000年前の縄文遺跡をはじめ、たくさんの遺跡があります。また奈良時代、古事記作成の際も、飛騨出身の稗田阿礼(ひえだあれい)が語る口述をもとにつくられました。稗田(ひえだ)は飛騨をあらわすそうです。
飛騨は日本列島発祥であり、縄文史においても、日本始まりの地でした。


・飛騨乗鞍信仰~ヒコ(日子)・ヒメ(日女)シャーマニズム~

世界最古の宗教は太陽信仰。そして世界各地にたくさんの太陽神が存在します。飛騨にも太古の昔、「乗鞍信仰」と呼ばれる太陽崇拝がありました。乗鞍岳は西側の飛騨側から見ると太陽が上がってくる山。
古代の人々は、太陽が昇る方向にある乗鞍岳を、「日岳」あるいは「日抱(ひだき)岳」と呼び、信仰しました。この「日抱(ひだき)」が、飛騨(ひだ)の地名の由来です。しかし古代、飛騨に住んでいた縄文人は、ただ太陽を崇拝するだけでありませんでした。彼らは高い霊性と、「和」を愛する人間性を持ち、太陽のような性質を尊んでいたようです。そんな飛騨族は「乗鞍信仰」というシャーマニズムを持っていました。

【飛騨乗鞍の太陽信仰とは?】

男性は太陽の子すなわち日子(彦)と呼び、女性は同じく日女(姫)と呼び、みな尊い命をもっていることから命という字を当てて「命(みこと)」と敬称していた。また"古代飛騨では先祖のことを上(カミ)と呼び敬い、子孫のことを下(シモ)と呼んだ。上=神、であり、神社とは宗教的な施設ではなく、慣習的に先祖を祀る場所であった。”
"その神々の子孫が、日本の各地に移り住んで、外敵より日本を守っていた。

山本健造氏の『日本のルーツ飛騨』


太古の昔、飛騨では、男性は「太陽の子供」だから「ヒコ(日子)」。女性は「太陽の子供」として、ヒメ(日女)と呼んでいました。
そしてみんな尊い命を持っているから、「ミコト(命)」となる・・。
これが「乗鞍信仰」です。飛騨に住んでいた縄文人は、そんな風に、お互いの「命」を尊重し争いを好まず、太陽のようにほがらかで、高い精神性を持った人々だったのかもしれません。

飛騨の霊山・位山にある巨石群の一つ「日抱(ひだき)岩」。

そういえば神武天皇以前に近畿地方を治めていたナガスネヒコ(長髄彦)も名前に「ヒコ(彦)」があります。
この乗鞍信仰で生まれた「ヒコ(日子)」という言葉はその後、「彦、比古、日子、孫、日古」という漢字となり、男性首長や貴族に、敬意を表す言葉に変わっていきます。そして「ヒメ(日女)」も、貴族や王族から生まれた高貴な女性をさす「」という尊称に変わっていきました。

有名なヤマトタケルノミコト(日本武尊)もこの「ミコト(命・尊)」という名前がついていますが、この方も飛騨系王子だったそうです。
以前飛騨を訪問した際、平湯温泉から飛騨高山に抜ける道を通ったことがあります。そこにヤマトタケルゆかりの場所がありました。
ヤマトタケルの息子は、14代の仲哀大王として即位します。
この仲哀大王が飛騨の神託を得て、新羅遠征を行います。新羅は古代から日本といろんなトラブルを巻き起こしていました。
仲哀天皇は新羅に遠征し勝利します。そして日本に凱旋した際、この飛騨の地で「籏鉾(はたほこ)」を吊るした、というもの。
なぜ「籏鉾(はたほこ)」だけだったかというと、すでに布の旗は朽ちて落ちてしまったから。なので仲哀天皇は勝利の証に、「籏鉾(はたほこ)」を吊るしたそうです。

人物の前に置かれている背の高い置物が、籏鉾(はたほこ)です。

そして仲哀天皇がこの「籏鉾(はたほこ)」を吊るした場所が、「籏鉾(はたほこ)」という地名で、現在、籏鉾神社があります。
以前飛騨を訪れた際、通りがかったのが、この「籏鉾」橋。珍しい地名だったので、帰宅後調べて、このことを知りました。縄文に興味を持って以来、いろんな発見があります。


・ヒミコは日巫女をあらわしていた? 

またヤマタイ国のヒミコですが、こちらも飛騨の太陽信仰で考えると、「シャーマニズムに秀で、太陽の性質を持つような女性首長」が、ヒミコ(日巫女)」と呼ばれていた、という風にとることができます。
3世紀末の中国の書物・魏志倭人伝では「ヒミコはシャーマニズムに優れ、鬼道に通じていた」と伝え、ヒミコに「卑弥呼」という良くない漢字をあてています。この「鬼道」で「卑」を使っている理由として、もしかしたら「神(鬼?)に仕える(神の前にへりくだる者)」の意味があったのかもしれません。

ー『字通』より「卑」の項目の一部を引用
[1] ひしゃく、しゃもじの類。卓に対していう。
[2] いやしい、ひくい、ちいさい、おとる。
[3] へりくだる、へつらう。
[4] しなやか、よわい、かすか。
[5] しむ、せしむ。使役の助動詞。ーーー

『国史大辞典』より「鬼道」の項目を引用

ヤマタイ国のヒミコの記録があるのは、魏志倭人伝のみ。
魏志倭人伝では、当時の日本をさす「ヤマト」という言葉に「倭」をあてがっています。「倭」という漢字は、「従う」や「柔順なさま」を示す良くない漢字。
また「ヤマタイコク」の漢字にも、「邪馬台国」という、「邪」と「馬」をさす、良くない意味の当て字が使われています。
ヒミコも、卑弥呼という「卑しい」漢字です。どうも魏志倭人伝では、日本やヤマタイコクすべてに良くない漢字を使っているようです。

それにしてもなぜ魏志倭人伝で、日本は良くない漢字があてがわれたのか?
その理由は、古代、中国の王朝は、辺境の国の人々を蔑む傾国があったから。いわば「中国ナンバーワン思考」・・。
当時、中国では、よその国の人々に対して、わざと良くない漢字を当てる習慣がありました。そのため、ヒミコに対しても、わざと蔑んだ言葉を使うことで、自国の有利さをアピールしたのかも?!

しかし、ヤマタイコク(邪馬台国)の「台」は高貴さを表す漢字でもありました。例えば「台覧(だいらん)」という漢字。
これは、台覧(だいらん)は皇族など、高貴な人が見る(観察)ことをさし、「台覧試合」は、直接、皇族が観戦する武道やスポーツ競技。
たまたまかもしれませんが、魏志倭人伝で、この「台」という高貴さをあらわす漢字が、ヤマタイコクに使われていたのは興味深いです。



・日本各地の太陽信仰 ~お天道さまと神社~

太古の昔、飛騨にあった太陽信仰。その太陽信仰が今も残るのが、伊勢神宮と対馬。伊勢神宮は、天照大神の太陽崇拝で有名です。そして対馬は古代より太陽信仰が盛んで、島内にアマテル神社が存在します。
アマテルとは伊勢のアマテラス大神のモデルとなった縄文期の王
伊勢神宮ではアマテラス伸は女性ですが、もとは、イザナミとイザナギとの間に生まれた「アマテル」という名前の男性でした。
アマテルはエネルギーは中性でしたが、男性の肉体を持ち、そのアマテルの都があったと言われているのが、三重県の伊雑宮(いざわのみや)。太古の昔、伊勢はこの伊雑宮を指す言葉だった、と言います。現在、この伊雑宮は伊勢神宮の別宮の一つです。

対馬では、この伊勢のアマテラス神が、本来の男性の「アマテル神」として祭られており、さらに、このアマテルの子孫の男性が「ヒコ(日子)」、女性が「ヒメ(日女)」となっています。本州から離れた離島だったからこそ、古代の太陽信仰でのシャーマニズムが残ったのかもしれません。


・神道の源流は乗鞍信仰 ~お天道さまは飛騨から?~

日本では昔から「お天道様が見ている」という言葉があります。
お天道様とは「太陽」のこと。 だから、この 言葉は、人間の行いに対して「ほかの人間が誰も見ていなくても太陽はきちんと見ているのだから、どんな 時でも悪事をはたらいてはいけない」と戒める意味をもっています

おてんと‐さま【▽御天▽道様】 《お天道》

太陽を敬い親しんでいう語。
天地をつかさどり、すべてを見通す超自然の存在。「悪いことをすればお天道様に筒抜けだ」「お天道様に恥じない行動」

コトバンク お天道様

昔の日本人は「お天道様」を通して、太陽のような純粋な精神性を大切にしていました。このお天道様は宗教でなく、日本人が大切にしてきた古くからの霊性(スピリット)です。
しかし海外は違います。海外にはお天道様という概念はありません。そのかわり存在するのは「神の目」。これは国によって異なり一概には言えませんが、絶対神を信仰する人々は、神への忠誠を大切にする一方、神の怒りを恐れます。

絶対神を信じる人々は、他者が何か悪いことをしようとした際、「神が見ておられるよ」と言っていさめます。人々は自らの良心で、悪いことをしないのではなく、「神の目」を恐れ、やめようとします。いわば「神の目」による、善悪の審判を恐れるのかもしれません。
少し話は変わりますが、以前何かの本で『神は人が悪いことをしてもとがめないが、人々が「神」の存在を忘れようとした際、災いをおこす』と書かれており、なるほど、と思ったことがあります。

神の目の根底にあるのは宗教です。しかし日本にはもともと宗教はありませんでした。明治時代に入るまで、日本人は「宗教」という概念を持ってなかったと言います。そのかわりかんながらの道(神道)があり、これは宗教でなく、柔道や華道といった「道」の一つでした。
これらの「道」が目指すのは、心の安寧を求める実践「道」。
ですがら、仏教も日本古来の神々と同等に、古代の人々は信仰しました。
なぜなら仏教も「かんながらの道」も、目指すところは平和と心の平穏だったから。昔の人々は、「道」は手段であって異なっていても、目的地が同じであれば構わなかったのかもしれません。

しかし明治時代に入り、「かんながらの道(神道)」も宗教として再設定されます。それは時代の激変期が理由でした。
明治時代に入って、日本は江戸時代から約200年続いた鎖国を捨て、開国します。しかし時代は弱肉強食・・。眠れるドラゴン(竜)と恐れられた中国はイギリスの植民地となり、アジア諸国のほとんどは欧米列強の植民地になります。その中で日本は富国強兵を行い、ひたすら戦争の道を突き進みます。そして日本古来のシャーマニズムであった、神道も大きく変わりました。こちらは長くなるので、またあらためて書けたらいいなと思います。

海外の人が日本に来て驚くのは、日本人が近所の神社で祀られているご祭神の名前を知らないことだそうです。でも村や集落では、ご祭神の名前を知らなくても、その神社のお祭りを行います。
なぜならご祭神の名前を知らなくても、どの神さまも、みんなお天道様につながっていることを、心のどこかで知っているから。またお天道様だけでなく、伊勢神宮にもつなっています。

伊勢神宮は太陽神だけでなく、大いなる自然を祀る神社で、縄文のアミニズム(自然崇拝)の名残があります。伊勢神宮では、内宮では太陽神である天照神をまつり、外宮では、台風の神である豊受神をまつります。
稲や作物は太陽の光で実ります。だけど雨がなければ、稲も枯れてしまう・・。台風の雨風は河川の氾濫をおこし、被害をもたらす怖い存在であるけれど、一方でたくさんの雨を降らすありがたい存在。昔の人はそのことをわかっていました。
また人々は神社や仏閣に「おかげさま」と手をあわせ、恵みに感謝することをわすれませんでした。

「おかげさま」の「おかげ」というのは、神様や他人からいただいた恩恵を意味します。 「おかげ」に「さま」をつけて、丁寧にしたのが「おかげさま」。 神様や周りの人たちに対する感謝の気持ちが込められています。これは古代の太陽信仰やアミニズムの名残です。
ジョンレノンはこの言葉を日本に来日した際に知り、「おかげさまという美しい言葉はない!」と感嘆しています。

太古の昔、飛騨にあった太陽信仰。それは万物すべてに命が宿り、みな尊い。そして「ミコト(命)」と呼ばれる命の尊さを日本人に伝えていました。さらに、人間はみな等しく太陽の子供だから、ヒコ(日子)、ヒメ(日女)と呼び、互いに信頼しあうコミュニティを持った国造りに発展していきます。

5世紀に飛騨王国は滅び、飛騨の太陽信仰も忘れ去られていきますが、そのスピリットは今も、神道のシャーマニズムとして、伊勢神宮や神道に受け継がれていきます。
そして「お天道様」や「おかげさま」という言葉。
それは、古代の人々が大切にしていた太陽信仰の名残りであり、争いを好まなかった人々の祈り・・。時代を経て、「かんながらの道」も変わっていきましたが、縄文の人々が大切にしていた「和」の心は、現代の日本人に受け継がれています。


【参考文献】


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